第19話 割れる音、割れない約束
氷梯は、整然と見えて気分屋だ。段差の各一枚が別々の時代で凍ったように硬さが違う。私は靴底で縁を微かに叩き、返る音の高さと遅延から密度を読む。踏み出す足に、胸の空洞がわずかに鳴る。
——心臓のあたりで、薄い罅の気配。音はしない、けれど『聞こえた』と全身が合意する。ミズガルズ・リングの表面に走るのは、新しい線ではない。同じ一本の罅が、表層を浅くなぞられただけ。私はわざと瞬きを一度増やす。半拍の余白が、怖さの利息を減らす。
カケス・フェローが私の右斜め後ろに位置を変える。
カケス「僕が……替わる。君の代償を減らしたい」
夜菜「“借りて返す”の手順だけ忘れないで」
彼は跳矢で私の死角を埋めるが、氷梯の一段が意地悪く欠け、膝が打ち付けられて崩れた。息が白く跳ね、彼の顔が一秒だけ幼く見える。
夜菜「生きて返すって言ったよね」
トキ・ノクトウィンがすぐに手を当て、鎮痛と温熱で炎症を抑える。ゲンボウ・デーメルは風下を塞ぎ、体温の流出を遮断する。
エイリク・モルグストランドは唇を結び、金の輪を一度だけ明滅させる。嫉妬の温度が混ざり、しかしすぐに薄まる。
零雅「痛みは支払い。だが領収は残すな」
私は水帳を開く。行末に『転倒補填』の欄を設け、カケスから預かった呼気の瓶に、鍵氷の微粉をひとつ返す。借りの数字は動き、欄外の白は少し狭くなる。
夜菜「数字は冷たい。でも、冷たさは記録を腐らせない。だから好き」
ハヤブサ・アステリオンが氷梯の破損箇所を式に落とし、アジサシ・グラスフェザーが索で簡易手すりを張る。
アジサシ「この高さ、落ちても致命じゃないけど、約束は落とせない」
私はミズガルズを撫でる。罅は一本、増えていない。けれど世界の重みを受け持つ“薄皮”が、ほんの少し疲れている。
夜菜「続ける。合図は三回、地面を蹴る音」
皆が頷く。私の胸の空洞は重い保存容器みたいに静かだ。泣けない代わりに、ここに言葉を冷やし固める。後で、必要なときに解凍するために。