第17話 第二試練:鏡廊と半拍の私
回廊は長い鏡でできていた。天井は低く、靴音は乾いた紙の上に鉛筆の芯を転がすみたいに“軽い金属音”を返す。両壁の鏡氷は、私たちを半拍ずらして映す。笑えば像が先に笑い、悲しめば像が遅れて泣く。感情の指揮者が見えない所から棒を振っている。
夜菜「半拍は致命でも、楽器では表現になる。なら、演奏にする」
私は【蛇影冥衣】の縁取りを点滅へ切り替え、呼吸を四分割する。吸って・止めて・吐いて・止める。点滅と呼吸をわずかにずらし、像の私とポリリズムを組む。
カケス「音楽の授業かな。僕、成績は可もなく不可もなくでした」
夜菜「じゃあ今日は“可”を“要”に変える日」
鏡のこちらの私が速歩すると、向こうの私が“さらに半歩”速い。私は速度を落とし、代わりに瞬きのリズムを変える。瞬きという句読点で、向こうの譜面を乱す。
ゲンボウは足音を消し、零雅は乾刃を鞘のまま鏡縁へ当て、微細な乾きを作って“映像の粘り”を剥がす。ハヤブサは壁面反射の遅延を書式化し、“遅延=許し”という注釈を付けた。遅延があるから、追いつかれずにいられる。
鏡のどこかで、私が指輪に触れた。向こうの手つきは迷いがない。外す所作。
夜菜「最短で最悪。だから、長回り」
私は指輪に触れず、喉へ残した鍵氷の気配を思い出す。泣けない代わりに、編集権を持っている。私は向こうの私に笑いを渡さず、悲しみだけを字幕に変える。
エイリクが隣で静かに笑い、金輪が一度だけ光る。
エイリク「僕は伴奏。君が主旋律」
トキは私の呼吸間隔を指先で数える。
トキ「四拍、良好。脳は“泣けない空洞”を埋めようとする習性がある。だから言葉が増える。それは防衛であって、病ではない」
私はうなずき、鏡の曇りへ指で短い線を引く。曇りは涙の別名。なら、ここで書くのは私の台詞だ。
最奥に近づくほど、鏡の私の仕草は私に似なくなる。似ていたものから離れ、離れたものが私に似はじめる。境界は“混ざる直前”がいちばん静かだ。
零雅「像は“最悪最短”の誘導。刀を出さず、ここは抜ける」
夜菜「決闘しない勇気は、敗北から遠い」
最後の壁が曇り、一枚紙の向こうに扉の輪郭が浮いた。私は掌で曇りを撫で、薄く『返シタ』を書く。濡字は即座に吸われ、扉が音もなく開いた。
背後で鏡の群れが、ため息を合わせるみたいに白くぼやけていく。半拍ずらしの指揮者は、指揮棒を下ろした。私の胸の空洞は、さらに冷え、さらに静かになった。冷静は、冷たい正義ではなく、冷たい余白のことだ。