灰猫亭の灯の下で-1
翌日、西の空が朱の炎に染まる頃、レオンたちは“灰猫亭”の扉を押し開けた。
木製の扉が軋み、室内の熱気がぶつかるように押し寄せる。
古びた酒場は、まるで生き物のように鼓動していた。
遠征帰りの兵士たちは、傷だらけの拳を杯にぶつけ、勝利の余韻に浸る。旅商人たちは儲け話を囁き、金貨が指先で転がる音がどこか心地よい旋律を刻む。
煙草の煙と香辛料の匂いが絡まり、空気は濃厚で、酒場そのものが記憶を抱え込んでいるかのようだった。
壁には、牙を剥いた猛獣の剥製――その瞳には、今も狩りの執念が宿るように見える。その下では煤けた鉄製のランプが微かに揺れ、辺境の無骨さと荒々しさを滲ませている。
その酒場の片隅――卓の上には、今日も腹を満たす料理が並ぶ。
肉厚なステーキが鉄皿の上で音を立て、溶けた油が香ばしく火に弾ける。
蜂蜜を絡めたパンは黄金色の輝きを放ち、切れ目から甘い湯気が漂う。
漆黒のビールが満たされた木製ジョッキは、持ち主の声と共に高く掲げられ、陽気な宴に華を添える。
この酒場に生きる者たちは、それぞれの物語を抱えながら、このひとときを楽しむ。
だが、その熱気の向こう側――酒場の灯が届かぬ暗がりには、旅人を観察する視線が静かに息を潜めている。
レオンたちは足を踏み入れながら、ざわめきの奥へと目を向けた。
杯を交わす者、取引に興じる商人、賭け事に熱を上げる傭兵たち――誰もがこの場の空気を満たしている。
だが、その奔流の中に、ひとりだけその流れを拒む者がいた。
喧騒と笑い声の陰に、まるで風の影のように佇む姿。
レオンたちが視線を巡らせると、オルグが扉近くの柱に寄りかかっていた。静かな灯りが彼の横顔を淡く照らし、その目はすでに彼らを捉えていた。
気づくとオルグは身を起こし、無言のまま視線を向ける。そして、一言だけ告げた。
「――あいつが案内役だ。」
顎で示された先、カウンターに肘をつき、ビールの泡を僅かに揺らしながら、無造作に杯を傾ける男がいた。
炎の灯りが揺らめき、その横顔に、何かを隠す影を落としていた。
男は引き締まった体格をしていた。身長こそ際立たないが、佇まいには確かな重みがあった。褐色の肌に刈り上げた髪、耳には銀のピアスが光り、薄暗い灯の下でわずかに冷たい輝きを帯びている。
だが最も目を引いたのは、その眼差しだった。鋭さを内に秘めながらも、どこか落ち着いた静けさが漂う。不思議なことに、その目は戦士というより、深い祈りを知る修道者のようでもあった。
オルグは酒場の雑踏をゆるりと抜け、カウンターへと足を運ぶ。
「おい、ゼルス。客だ」
オルグが声をかけると、男は振り返り、じっとレオンたちを見つめた。
軽く目を細め、誰に名乗るでもなく、獣のような静けさで一人ひとりを値踏みするように眺める。視線には冷静さと鋭さが同居し、そのまなざしは獲物を定める狩人のようだった。
「“月時計の神殿”へ行く。案内をしてくれると聞いた」
レオンの言葉に、男――ゼルスは微かに眉を上げ、興味深そうに首をかしげた。
「……死に場所を探してるようには見えないな。だったら――俺が何者かくらい、質問してみたらどうだ?」
「聞く必要はない。俺たちは、“試練”から生きて帰ってくれれば、それでいい」
即答したレオンに、ゼルスは一瞬驚いた表情を見せ、それから喉を鳴らすように低く笑った。 まるで何かを思い出したかのような余韻が、僅かに残る。
そして、最後の一口を飲み干し、腰を上げる。
「いいね。そういうの、嫌いじゃない。明日の朝、北門に集合だ。……それまで、好きに飲んでろ。どうせ明日になれば、運命の水を飲むことになるんだからな」
その言葉を聞いていたオルグが、後ろで満足そうに頷いた。
「ゼルスは元・帝国の精鋭――聖印軍の斥候部隊にいた男だ。生き残るための術を知っている。そして、沈黙が意味することもな」
オルグは淡々と言葉を紡ぐ。その声音は、ただの紹介ではなく、実力者を見極める者の確信が滲んでいた。
「いまは流れ者だが……信頼はできる。ああ見えて、“言葉より行動”の男だよ」
そう告げると、オルグは軽く顎を上げ、最後にゼルスへ一瞥をくれると、未練もない様子で“灰猫亭”を後にした。




