罪火の継承者
ヴォルフガング。
その名が出た瞬間、ヴェルディア四世の口元が歪んだ。その歪みは怒りではない。むしろ、触れられたくない傷跡に指を押し当てられた者の反応に近かった。痛みを隠そうとして、しかし隠しきれず、表情の端がひきつる――そんな浅い反射。
そのひきつりは、まるで “忘れたふりをしてきた罪”が名を呼ばれたことで再び疼き始めたかのようだった。
豪奢な執務室の空気が、そのわずかな歪みに呼応するように沈む。金箔の壁は光を失い、歴代皇帝の肖像画は沈黙のまま、現皇帝の浅い動揺を冷たく見下ろしていた。
ヴェルディア四世の喉が、かすかに鳴る。それは怒りの唸りではなく、追い詰められた獣が漏らす小さな息に近かった。
白銀の髪。黒衣。燃え残った罪の影。
その名を聞いただけで、皇帝の胸の奥に沈んでいた澱が静かに、しかし確実に揺れ始める。まるで、ヴォルフガングという名そのものが、帝国の奥底に封じたはずの“過去”を再び呼び覚ます呪文であるかのように。
ベールフェルト公爵家。かつて帝国西部に大きな影響力を持った名門。その名は、帝国の地図に刻まれた“支柱”のひとつだった。
そして十数年前、エルフーレン毒殺の罪を押しつけるために“利用した”家。
利用。その言葉はあまりに柔らかい。実際に行われたのは政治ではなく、ただの “破壊” だった。
ベールフェルト公爵は、クライペダの屋敷ごと焼かれて死んだ。ヴェルディア四世の命を受けた傭兵たちによって。
炎は屋敷を呑み込み、夜空を赤く染め、罪を覆い隠すための光となった。
だがその光は、ひとりの影を焼き尽くせなかった。
息子は生き残った。
ヴォルフガング。
白銀の髪。黒衣をまとう剣士。分厚い鉄の塊のような家宝の剣を携え、今はクラウベルの領主として兵を挙げている。その姿は、まるで過去の罪が人の形を得て立ち上がったかのようだった。
炎の中で消えたはずの影が、十数年の時を経て、より鋭く、より重く、“復讐”ではなく “正統” の形をまとって戻ってきたように。
その名が響くたび、ヴェルディア四世の胸の奥で忘れたふりをしてきた罪が静かに、しかし確実に目を覚ます。
ヴェルディア四世の胸の奥で、小さな震えが生まれる。それは怒りではない。怒りに偽装された、過去に追われる者の怯えだった。
豪奢な執務室の空気が、その名が発せられた瞬間だけわずかに冷たく沈んだ。まるで、ヴォルフガングという名が、この部屋に“罪の影”を連れてきたかのように。
ヴェルディア四世には、それが目障りだった。
いや、恐ろしかった。埋めたはずの火種が、いま西で燃え上がっているようで。忘れたふりをしてきた罪が、白銀の髪と黒衣をまとって静かに歩み寄ってくるようで。
グラヴィスの返答が終わった直後、ヴェルディア四世の言葉が空気を裂くように落ちた。
「派遣した軍の将は誰だった」
「ガラウィン将軍です」
「ガラウィン……」
ヴェルディア四世は鼻を鳴らした。その音は威厳ではなく、気に入らない玩具を見つけた子供の反応に近かった。豪奢な執務室に似つかわしくない、浅く、湿った音。
「また古参か。グラミッドといい、ガラウィンといい、エルフーレンの時代から仕える連中は、皆俺の言うことを聞かんな」
その言葉は、玉座に座る者の嘆きではなく、自分の思い通りにならない世界に苛立つ幼い支配者の愚痴にすぎなかった。
一方、グラヴィスの横顔は動かない。その瞳は静かで、皇帝の浅い怒りを氷の上に落ちた小石のように無感情に受け止めていた。
皇帝の「俺」という言葉が響くたび、その浅さが部屋の中に薄く広がり、帝国の重さと釣り合わない音を立てていた。
俺。またその言葉。
その一人称が発せられた瞬間、グラヴィスは顔を伏せたまま、わずかに目だけを冷たくした。その冷たさは、怒りでも軽蔑でもない。ただ、「またか」という、氷の底でわずかに揺れる影のような反応だった。
皇帝は“私”でも“朕”でもなく、“俺”と言う。それ自体は悪ではない。だが、ヴェルディア四世が口にすると、その“俺”は帝国を背負う者の言葉ではなく、玉座にしがみつく小者の叫び にしか聞こえなかった。
その“俺”には、歴代皇帝が背負ってきた重さも、帝国の未来を見据える覚悟も、民の命を預かる責任も宿っていない。ただ、自分の不安を隠すための薄い膜のような虚勢だけが張り付いていた。
グラヴィスの瞳は、その浅い一人称を氷の上に落ちた小石のように受け止め、波紋ひとつ立てずに沈めていく。
二人の間に流れる空気は、同じ部屋にいながら、まるで別の季節に立っているかのように温度が違っていた。
豪奢な部屋の空気が、その一言でわずかに濁る。
濁りは目に見えない。だが、確かに“温度”が変わる。まるで、静かに澄んでいた湖面に小石が落ちて、水底の泥がゆっくりと舞い上がるような濁りだった。
グラヴィスは、ほんの一瞬だけ瞼を伏せた。それは忠臣の礼ではなく、愚かな主君を観察する捕食者の静かな瞬きだった。その瞬きは、獲物を見定めるためのわずかな間合いの調整にも似ていた。
皇帝の“俺”という言葉が響くたび、部屋の空気は軽くなり、玉座の重さだけが取り残されていく。
軽くなるのは空気ではなく、皇帝の言葉そのものだった。重みを持つべき言葉が、ただの音にまで薄まっていく。
そしてその重さに耐えられていないのは、玉座に座るべき男自身だった。
玉座は沈黙している。
皇帝の背中にあるはずの威光は、その沈黙の前で薄く揺らぎ、まるで灯りの弱い蝋燭の炎のように頼りなく揺れていた。




