門影に巣食う者、光に晒される
「書類ねえ……」
ボルカはちらりと見る。だが、受け取らない。指先は動かず、視線だけが値踏みするように揺れる。
「そんなもん、いくらでも偽造できるだろうが」
吐き捨てるような声。その言葉は、門前の空気をわずかに濁らせ、旅人たちの胸に小さな棘を刺す。
「最近はな、帝都に変な連中が入ってきてるんだよ。内乱だの何だのでな。だから――」
ぐっと、一歩踏み出す。その一歩は、ただの移動ではなく、“相手の呼吸を奪うための距離の詰め方”だった。
「俺が“直接”確認してやる必要がある」
にやり、と笑う。その笑みは、鉄の匂いよりも濁っていて、夕暮れの光に照らされてなお、影のように歪んでいた。
意味は明白だった。
“誠意を見せろ”。
その言葉を口にせずとも、空気がはっきりとそれを告げていた。
風が北門を抜け、石壁の影がゆっくりと揺れる。その揺れは、まるで帝国そのものが旅人たちの反応を静かに見守っているかのようだった。
そして、ボルカの濁った笑みだけが、その場の温度を一段、確かに下げた。
レオンの目が、静かに細められた。その細さは怒りではなく、“状況を見極める者の目”だった。だが、その静けさこそが、逆に場の温度をひやりと下げる。
ロアンの表情が、わずかに険しくなる。眉の角度がほんの少し変わるだけで、彼の周囲の空気が硬質になる。まるで、見えない鎧が一枚、静かに彼の身に重なったかのようだった。
エルザは、もう一歩で抜刀しそうな気配を必死に抑えている。その肩の筋肉がわずかに震え、風に揺れる赤髪の奥で、戦士の本能が鋭く光った。
リリスは笑っていない。いつもの軽さが消え、金色の瞳が細く、冷たく、まるで獣が暗闇の奥を探るように光っていた。
カインは、無表情。だがその無表情は、“何も感じていない”のではなく、“余計な感情を切り捨てている”静かな刃だった。風が彼女の銀髪を揺らし、その揺れが逆に冷たさを強調する。
(いい、いい……)
ボルカは内心でほくそ笑む。その笑みは、喉の奥で濁り、夕暮れの光に照らされてなお、影のように歪んでいた。
(その顔だ。その顔を待ってた)
怒り。警戒。苛立ち。抑えた殺気。そして、揺れ。それらが混ざり合い、門前の空気はまるで張りつめた弦のように細く、鋭く震えていた。
ここからだ。ここで、折れるかどうか。
ボルカは、その揺れを楽しむ捕食者のように、ゆっくりと口角を上げた。
――その時だった。
「……何事ですか」
静かな声。馬車の中から、まるで深い井戸の底から響くような、澄んでいながら重みを帯びた声が落ちてきた。
空気が、変わった。ほんの一瞬。風が止まったような錯覚。草原のざわめきさえ、どこか遠くへ押しやられた。
ボルカの背筋に、ぞくりと何かが走る。それは寒さではなく、“自分より上位の存在が近づいてくる時の本能的な反応”だった。
ゆっくりと、馬車の窓が開く。白い衣。陽光を受けて淡く光る、清浄そのものの布。整えられた髪。乱れがなく、無駄がなく、ただそこにあるだけで“秩序”を感じさせる。
そして深い、深い眼差し。夜の湖の底を覗き込んだような、静かで、揺らがず、しかし底知れない深さを湛えた眼。
(……あ?)
ボルカの思考が、一瞬止まる。脳が理解を拒むように、言葉が浮かばない。
だが、記憶が勝手に引きずり出される。
服装。意匠。教会。位階。名簿。肖像画。噂。そして――名前。理解が、雷のように落ちる。
(……嘘だろ)
ドミニチ大枢機卿。
システィリア正教会――その中枢に位置する存在。帝国ですら無視できない“権威”。皇帝と並び立つほどの“象徴”。
その名を知る者は多い。だが、実物を目にする者は少ない。その“少ないはずの存在”が目の前にいる。
風が再び吹き、北門の影が揺れた。だがその揺れは、先ほどまでの濁った空気を一掃するように清冽な冷たさを帯びていた。
ボルカの喉が、乾いた音を立てて鳴った。それは飲み込んだ唾の音ではなく、“恐怖が喉を掴んだ時にだけ鳴る音”だった。
さっきまでの余裕が、一瞬で霧散する。胸の奥にあった濁った自信が、まるで陽炎のように揺れ、消えた。
“搾る対象”ではない。ボルカが熟知している“触れてはいけない存在”。その認識が、雷のように脳を貫く。
「……っ、し、失礼いたしました!」
声が変わる。濁りが消え、震えが混じる。喉の奥で潰れたような、情けない声。
態度が変わる。背筋が伸びる。肩がすくむ。足がわずかに震える。
深く、頭を下げる。地面に額が触れそうなほどに。さっきまでの男とは、別人のように。
「大枢機卿様とは知らず、無礼の数々――!」
必死に言葉を並べる。その言葉は謝罪ではなく、“命乞い”に近かった。
汗が、背中を伝う。冷たい汗。恐怖の汗。風が吹いても乾かない、重たい汗。
(やばい、やばい、やばい……!)
頭の中で警鐘が鳴り響く。鐘の音は大きく、鋭く、思考をかき乱す。ここで下手を打てば終わる。出世どころか、首が飛ぶ。比喩ではなく、文字通り。
北門の影が揺れ、その揺れがまるで“断頭台の刃”のようにボルカの背中へ落ちてくる錯覚すら覚えた。
夕暮れの光が薄れ、空気が冷たくなる。その冷たさは、大枢機卿の眼差しよりもなお冷たかった。
ボルカはただ、震える声で謝罪を繰り返すしかなかった。帝国の喉元に巣食っていた小さな寄生虫は、本物の“権威”を前にして、一瞬でその牙を失ったのだった。
「通行は問題ございません!どうぞ、お通りください!」
声が裏返るほどの慌てぶり。その叫びは、威厳とは程遠く、ただ恐怖に押し出された音だった。
門の兵士たちも、弾かれたように動く。互いに目を合わせる余裕もなく、ただ必死に道を開ける。鎧がぶつかり合い、金属音が不規則に響く。
重い扉が軋みながら開く。その音は、まるで長い年月を耐えてきた石壁が「本物の権威を迎える」と告げる儀式のようだった。鉄と木が擦れ合う低い響きが、門前の空気を震わせた。




