英雄の影がほどける夜-1
そして、中庭の別の一角では、ひときわ賑やかな輪ができていた。
「エルザ殿!」
「次、俺の酒です!」
「いや、こっちが先だろ!」
「待て待て落ち着け、お前ら酔う前から順番守れ!」
その声は、焚き火の赤い光よりも明るく、星空の下で弾ける笑い声の中でもひときわ強く響いていた。
中心にいるのは、もちろんエルザだった。
燃えるような赤髪。長身。鋭い眼光。だが今は、その鋭さの奥に、昼間にはなかった“困惑”がはっきりと混じっている。まるで、突然自分が焚き火の中心に放り込まれたかのように、どう振る舞えばいいのか分からない、そんな表情。
重殻喰いに止めを刺した英雄。今夜の兵たちにとって、その称号は疑いようがない。
あの瞬間を、戦場全体が見た。黒い直剣が裂いた、世界の位相すら断ち切るような、あの最後の一撃を。災厄を“倒せるもの”へ変えた、あの圧倒的な刃を。
だから兵たちは、次々に酒を注ぎに来る。木杯を掲げ、顔を赤くし、まるで子どもが英雄譚の続きをせがむように目を輝かせながら。
その称賛は真っ直ぐだった。下心も打算もない。ただ、“見たもの”に圧倒された人間が、それを称えずにいられないというだけの、単純で、熱くて、どうしようもなく人間らしい感情。
焚き火の光がエルザの赤髪を照らし、その影が揺れるたび、兵たちの歓声はさらに大きくなる。
エルザは困ったように眉を寄せながらも、差し出された杯を断りきれずに受け取り、ほんの少しだけ口をつける。その仕草だけで、輪の中の空気がまたひとつ明るくなる。まるで、「生きて帰ってきた者たちの夜」を象徴する灯火が、彼女の周りにだけひときわ強く燃えているかのようだった。
「……その、気持ちはありがたい。だが、こんなに受け取れない」
「受け取ってくださいよ!むしろ足りないくらいです!」
「足りなくない!十分だ!」
珍しく、エルザが押されていた。杯を断ろうとするたび、別の兵が現れ、別の酒が差し出される。その律儀さが、逆にエルザを追い詰めていた。
無下に断るのは違う。だが、全部受ければ今度は本当に倒れる。その狭間で揺れるエルザの表情は、戦場では決して見せなかった種類の“困惑”だった。
焚き火の赤い光が、エルザの赤髪を揺らし、その影が地面に落ちては震える。
昼間、あれほどの刃を振るった英雄が、今は木杯ひとつに追い詰められている。そのギャップが、どこか微笑ましく、そして何より“人間らしかった”。
兵たちもそれを分かっている。だからこそ、彼らの笑いは軽くても、決して彼女をからかうものではなかった。
「エルザ殿、ほんの一口でいいんです!」
「そうだ、飲めなきゃ匂いだけでも!」
「いや、それはそれで失礼だろ!」
次々と飛び交う声。差し出される杯。笑い声。焚き火の光。そのすべてが、エルザを中心に小さな渦を作っていた。それは英雄を讃える渦ではなく、生きて帰ってきた仲間を囲む、温かな渦だった。
そしてエルザは、困ったように眉を寄せながらも、結局またひとつ杯を受け取ってしまう。その仕草に、輪の中の笑いがさらに弾けた。
今夜だけは、英雄も、兵も、誰もが同じ場所に立っていた。
その脇で、リリスが腹を抱えて笑っていた。焚き火の光が彼女の銀髪を揺らし、笑い声が夜気の中で弾ける。
「エルザ、人気者~」
「笑ってないで助けろ」
「やだ。だって今のエルザ、ちょっと珍しくて面白いし」
「面白がるな」
「だってさあ、“アーク・シヴァーで重殻喰いを真っ二つ寸前まで追い込んだ赤髪の美人剣士”だよ?そりゃ兵隊さんたち、酒も持ってくるって」
「言い方……!」
エルザの耳がわずかに赤い。焚き火の赤ではない。怒っているのか、照れているのか、その両方なのか。その曖昧な色が、彼女の横顔に妙な可愛らしさを添えていた。
昼間、あの黒い刃で“世界のずれ”すら断ち切った剣士。戦場では一歩も揺らがず、恐怖を押し殺し、ただ勝利のために刃を振るった女。その彼女が今、酒を差し出されて右往左往し、リリスにからかわれて耳まで赤くしている。その姿は、戦場では決して見せなかった顔だった。
焚き火の光が揺れ、杯の音が響き、笑い声が夜空へ昇っていく。その中で、エルザの赤い耳だけが、ひどく人間らしく、ひどく温かく見えた。




