日常編・セシリア:祈りの庭に咲くもの-2
修道院内は静まり返っていた。祈りの部屋には柔らかな光が差し込み、石壁に描かれた古いフレスコ画が静けさを際立たせていた。
セシリアは、いつものように祈りの部屋に座り、静かに目を閉じた。
心の中で、次々と浮かんでは消える想い。
それらは、王都で見た光景や仲間たちとの思い出、そして、彼女が冒険者として迎えた数々の試練が絡み合った結果だった。その想いは、水面に映る揺らめきのように、彼女の意識に漂っている。
「私は…何を恐れているのだろう?」
セシリアは自分に問いかけた。その答えは見つからなかったが、ただ一つ、確かなことがあった。それは、彼女がここにいる間に、もう一度自分と向き合う時間が必要だということだ。
彼女は過去の選択を振り返った。自分が強くなりたいと願った理由、仲間たちを守りたかった理由。しかしその一方で、王都での激しい戦い、仲間を救うための犠牲――その全てがセシリアの心に重く残り、次々と迫り来る試練に、心がどこかで疲れていたことを、セシリアは否定できなかった。
疲れた心が時折痛む中で、彼女は再度、自分の迷いについて静かに考えた。
その問いへの答えはすぐには見つからなかった。しかし、霧の中を歩くような気持ちで、何が本当なのかを掴もうとする彼女の心には、希望の灯が小さく揺れていた。だからこそ、今この場所で、もう一度自分と向き合い、未来への道筋を見つけたいと願っていた。
そのとき、彼女の目に一冊の古びた祈祷書が映った。
擦り切れた表紙からは、微かに昔のインクの香りが漂ってくる。それは、セシリアがかつて修道院で使っていたものだった。手に取ってページをめくると、そこには彼女がかつて信じていた「神の教え」が書かれていた。
だが、それは今の彼女にとっては、ただの言葉に過ぎないように感じた。
「これで、本当にいいのか…?」
セシリアはもう一度深く息をつき、心の中で繰り返すように言った。
「私は、私の道を進むべきだ」
仲間たちとともに戦った記憶が胸に浮かび、その絆が彼女の決意を支えていた。
その決意が、彼女の胸の中で固まり始めた。たとえその道が険しく、霧の中に続く山道のようであったとしても、その先に微かに見える光が彼女を導いているようだった。そして、仲間たちとともに進む道が、彼女にとって最も大切なものだと気づいた瞬間だった。
その夜、セシリアはクラリッサと食事後に話をしていた。食事を終えた後の部屋には、静かな夜の空気が広がり、窓から差し込む月の光が二人を柔らかく包んでいた。
「あなた、少し顔色が良くなったように見えるわ」
クラリッサは微笑みながらお茶を手渡し、その手がセシリアの手にそっと触れると、温かさが静かに伝わった。セシリアはそれを受け取ると、少しだけ顔を曇らせる。
「おかげさまで、何か踏ん切りをつけることができました」
顔を曇らせながらも、その奥には小さな希望が芽生えているのを彼女自身も感じていた。
セシリアはお茶を一口飲みながら、心の中に溜まった思いを吐き出すように話し始めた。部屋には静かな夜の空気が広がり、窓から差し込む月の光が二人を柔らかく包んでいた。
「ここにいると、心が落ち着きます。修道院にいると、何も考えずにただ祈っていたあの頃に戻れる気がして……」
クラリッサは静かにうなずき、セシリアの言葉に耳を傾けていた。
「時には立ち止まって、自分を見つめることも大切。あなたはすでに、答えを見つけ始めていると思うわよ」
その言葉に、セシリアは深く頷いた。心が軽くなるのを感じながら、静かに目を閉じた。
「マザー、私……いえ、何でもありません。ただ……」
「いいのです。セシリア。無理に言葉にせずとも。けれど、貴女が何かを知りたがっていることくらい、私にはわかりますよ」
クラリッサはゆっくりと立ち上がり、古い祈祷書を棚から取り出した。古びた革表紙には擦り切れた跡があり、手に取ると微かなインクの香りが漂った。
「もし神が、あなたに“名を与えられなかった生”を与えたとしたら、それはきっと、貴女自身がその意味を見つける旅に出るためなのでしょう」
セシリアは、そっと目を伏せる。胸の奥には、言葉では表せない小さな痛みと希望が交差していた。
「……私は“誰か”だったのでしょうか?」
クラリッサは静かで深い声で答えた。その言葉は、まるで静かな泉の水が心に染み込むようだった
「その問いに答えるのは、きっと私ではなく、あなた自身なのだと思います」
クラリッサはひとり、静かな部屋の隅に座っていた。外の風が木々を揺らし、その影が部屋の床に揺れる中で、薄暗い月光が彼女の顔を優しく照らしていた。
セシリアが寝静まったことを確認したクラリッサは、手のひらで何かをしっかりと見つめていた。それは、セシリアが修道院に預けられたあの日、一緒にクラリッサに託されたものだった。
クラリッサは静かに目を閉じ、何度もその物を手のひらで感じながら、胸の奥に湧き上がる温かさと、それに伴う切ない痛みを感じながら、あの日のことを思い返していた。
長い年月が経ったが、その日の感情は今も色あせることなく、心の奥で温かく、そして痛みをともなって蘇る。
顔を上げると、静かな月光が彼女の目に映り、そのまま静かに月を見上げた。
月明かりの中で、クラリッサの心はどこか遠く、過ぎ去った時間の中に閉じ込められているようだった。
セシリアは修道院を出る準備を整えた。
修道院の鐘の音が静かに響き渡り、朝の柔らかな光が彼女の決意を照らしていた。もう一度、王都での仕事に戻るときが来た。しかし、その決意は以前とは全く違っていた。
「これが私の選んだ道。たとえその先に何が待っていようとも――。」
彼女は、ただの「守り手」ではなく、共に戦う仲間としての覚悟を胸に刻んでいた。
「神よ、私は進みます。私の道を、私自身で切り開いていくために」
セシリアは、修道院の静かな庭を最後にもう一度見つめた。
静かな庭には、花々が風に揺れており、朝の陽光が柔らかく彼女の背を包み込んでいた。深呼吸をすると、彼女の胸の奥には、かすかな希望の光が灯り、それが彼女の歩みを導いているように感じた。
そして、王都へ向かう道を歩み始めた。彼女の足取りは、今までのような迷いを含んでいない。確かな意思を胸に、彼女は新たな一歩を踏み出した。
その道はまるで霧の中に続く未知の山道のようだったが、彼女の足は迷わず一歩ずつ進んでいった。その歩みの先に待っているのは、きっと新しい試練と、もっと強くなるための答えだろう。恐れることなく、セシリアはその先を見据えて進んで行くのだった。




