戦場の記憶、未来への警鐘
エルザが絵画を一瞥し、息を潜めるように言った。
「やっぱり……帝国との戦場の絵が多いのね」
その視線の先には、荒々しい筆致で描かれた戦場の光景が広がっていた。
剣戟の閃光、燃え立つ空、兵の影。絵の中の叫びは声を持たぬまま、静かに広間へと響き渡っているようだった。
「当然よ。メルセドーラ辺境伯領は最前線だもの」
カインが淡々と答える。銀髪が光を受けて揺れ、青の瞳は冷静に絵画を見据えていた。
「絵に残さなければ、忘れられることもある」
その言葉は氷のように澄み、しかし奥底に微かな熱を含んでいた。
セシリアが小さく頷く。
「……忘れてはいけない記憶ですね」
純白の神官服が静かに揺れ、セシリアの声は祈りのように柔らかく広間へ溶けていった。
リリスは少し顔をしかめ、肩をすくめる。
「まぁ、わたしはあんまりこういう絵は好きじゃないけどさ……。でも、あの人らしいよね。ちゃんと覚えておくっていうか」
紫の髪が光を跳ね返し、金の瞳がいたずらっぽく細められる。その軽やかな声は、重苦しい空気に小さな風穴を開けるようだった。
広間の壁に並ぶ絵画は、ただの装飾ではなかった。それは記憶の鎖であり、忘却を拒む証であり、辺境伯の誇りそのものだった。
光と影の中で、戦場の絵は静かに語り続ける。
「忘れるな」と。「ここに立つ者は、歴史を背負う者であれ」と。
やがて、広間の奥にある開け放たれた扉へとたどり着いた。その向こうからは、外界の静けさとは異なる空気が流れ込み、まるで舞台の幕が上がる瞬間のように、場の緊張を揺らした。
「やぁやぁ、これはこれは。よく来てくれたねぇ」
飄々とした声が響く。その声は広間の天井に反射し、軽やかでありながらも重厚な余韻を残した。
椅子にふんぞり返り、足を組み、堂々たる体躯を揺るがしながら笑う男。
立派なカイゼル髭は光を受けて金と白の筋を描き、まるで威厳と洒脱を同時に象徴する紋章のようだった。その存在感は、広間の絵画に描かれた戦場の英雄たちをも凌ぐほどであった。
その人物は、メルセドーラ辺境伯、オーケルベーレ・メルセドーラ。
「辺境伯様、お久しぶりです」
レオンが前に出て礼をする。藍の瞳は静かに光を宿し、声は礼節を保ちながらも確かな親しみを含んでいた。
「うむうむ。固い挨拶はいらんさ。昔からの仲じゃないか。さぁ座れ。旅の話を聞かせてくれよ」
オーケルベーレに促され、レオンたちはソファに腰を下ろす。その瞬間、柔らかな布地が身体を受け止め、緊張をわずかに解いた。
香り立つ茶がすぐに運ばれる。
湯気は白い糸のように立ち昇り、広間の冷えた空気に温度を与える。その香気は、冷えた指先を柔らかく包み込み、まるで長い旅路の疲れを癒す小さな祝福のように感じられた。
戦場の記憶を刻む絵画の下で、飄々と笑う辺境伯と、旅の疲れを癒す茶の香り。重厚と軽妙、緊張と安堵が交錯するその場は、まるで歴史と未来が同じ広間に座しているかのようであった。
レオンは、順を追ってこれまでの出来事を語り始めた。その声は低く、広間の静けさに溶け込みながらも、確かな律動を刻んでいく。
エルディア魔塔国――
その魔塔国を治める三塔家――
ローエル塔家が管理していたエルディア大石碑――
語られる名はひとつひとつ、石に刻まれた文字のように重みを帯び、聞く者の胸に響いた。
セシリアがエルディア大石碑に触れたことで明らかになった結界術の術式の一部。そして、まだ欠けている部分の存在。その言葉は、まるで未完成の旋律が空気に漂うように、広間に緊張を残した。
カインの手に今もあるエクリプス・コアもエルディア大石碑から姿を現したこと。漆黒の杖に収められたその光は、語られるたびに淡く脈動し、まるで記憶そのものが呼吸しているかのようだった。
そして――ローデリック。
帝国と密かに手を組み、新型魔道砲の研究を進めていたこと。それがどれほど危険なものだったか。
レオンの声は一瞬沈み、広間の空気は重く澱んだ。戦場の絵画に描かれた炎と影が、まるで語りに呼応するように揺らめいて見えた。
語りはただの報告ではなかった。それは記憶を呼び覚まし、未来への警鐘を鳴らす儀式のようだった。
仲間たちは息を潜め、茶の香りすら遠のいたかのように、ただその言葉に耳を傾けていた。
話を聞きながら、オーケルベーレの表情は穏やかだった。だが、その眼だけは鋭く光を宿し、まるで長年の戦場を見抜いてきた刃のように、言葉の奥を射抜いていた。
「……ふむ。ローデリック君ねぇ。あの家の血筋は優秀だが、時々、道を踏み外す者もいる。だが、身柄を、あの堅物のセドリック君が責任をもって預かると言うなら問題ないだろう。彼は冷静だ」
その声は飄々としていながらも、広間の空気をわずかに震わせる重みを含んでいた。
リリスが、カップを揺らしながら小さく息を抜く。
「本当にね。巻き込まれたこっちは大変だったんだから」
金の瞳が茶の湯気を透かし、軽口の奥に疲労の影を滲ませていた。
エルザが眉根を寄せ、赤髪を揺らす。
「それでも、事態が表沙汰になれば、王国にも影響が出るわ。ローエル家が処理してくれるなら、そのほうがいい」
その声音は冷たく鋭く、広間の絵画に描かれた戦場の影を思わせた。
「うむうむ、そうだねぇ。あそこは古い家だが礼儀も心得ている。君たちはよくやったさ」
オーケルベーレが言うと、そのカイゼル髭が光を受けて揺れ、笑みの奥に隠された威厳を示した。




