脂の声、金の指輪
倉庫の奥から、男が現れた。その姿は、灯りの隙間から滲み出るように、ゆっくりと空気を押し分けてくる。
太った体に、宝石を散らしたような指輪がいくつも光り、その指先は、まるで金で編まれた蜘蛛の脚のように、静かに揺れていた。
顔は笑っていた。だがその笑みは、温度を持たなかった。目の奥には、計算の光が宿っている。それは、誰かの心の隙間を測る者の、冷たい秤のようだった。
「おや、エイザ殿じゃないか。今夜は珍しいですな」
その中年の男、ボルベバが、にこやかに声をかけた。その声は、脂のように滑っていた。聞く者の耳に、ぬるりと絡みつく。
エイザも笑みを返す。
「ボルベバさん、今夜はお時間を取らせて申し訳ない」
「なに、なに。大事なお客様をお連れいただいたんだろう?」
ヘレンが小さく会釈する。その動きは、信頼という名の橋を渡る者の、静かな一歩だった。
「初めまして、ボルベバと申します。この倉庫の責任者をしておりましてな」
ラヴィがメモ帳を手に、必死に小声で囁く。
「ちょ、ねぇ、ねぇ、今の人、顔に“怪しい”って書いてあるじゃない!絶対怪しい!」
「しっ。ラヴィ、声」
セシリアが軽く手で制す。その手の動きは、夜の帳に風を通す者の、静かな警告だった。
そして倉庫の奥では、紫の光がまたひとつ、箱の中で脈打っていた。それは、夜の王都に潜む“何か”の心臓のように――静かに、確かに。
倉庫の明かりの中で、ヘレンは少し緊張した面持ちだった。その表情は、夜の冷気に触れた花のように、わずかに震えていた。
灯りは高い天井から降り注ぎ、木箱の山と帳簿の列を金色に染めていた。それは、整然とした“事業”の顔をしていた。だがその奥に、誰も見ない“意図”が潜んでいた。
ボルベバは、慣れた調子で言葉を繰り出す。その声は、脂のように滑り、空気に甘い香を残した。
「こちらは研究用の鉱石を輸入しておりましてね。今は国内の魔導学会や軍事技術庁に試験的に提供しています」
「まあ……すごいですわね」
ヘレンの声は、驚きと敬意の間で揺れていた。
「ええ、それだけではありません。いまや国外にも販路を広げようとしておりまして。大陸外の鉱脈――そこから得られる鉱石は、質も価値も段違いです。投資してくださる方には、確実な利益をお約束します」
その口ぶりには、まるで香水のような力があった。言葉が空気に溶け、耳に届く前に心を撫でていく。
ヘレンの瞳に、一瞬、安堵と期待が混じる。彼女は倉庫内を見回す。
男たちは真面目に働いている。箱の山は整然と並び、帳簿も揃っている。それは確かに“事業”に見えた。そしてヘレンは、信じたいと思った。
「見ての通りですよ、ヘレンさん」
エイザが柔らかく言う。その声は、絹で包んだ刃のように、優しく、しかし鋭かった。
「ここなら安心して資金を預けていただけます」
「……ほんとうに?」
「もちろんです。ボルベバさんは、この道では信頼のある方ですから」
「恐縮ですな」
ボルベバが満足げに笑う。その笑みは、金の指輪のように光り、重く沈んだ。
「これでまた、大陸の学術が一歩進む。そういうことです」
その言葉に、リリスの眉がわずかに動いた。
(学術――ね。表の看板には都合のいい言葉)
リリスの胸の奥には、静かな警鐘が鳴っていた。それは、誰にも聞こえない音だった。
ヘレンは、手提げ鞄から封筒を取り出した。中には小切手と契約書。
その手は震えていたが、どこか決意もあった。それは、夫の記憶に触れる者の、静かな祈りだった。
「わたし、少しですが……あなた方の事業拡大に投資させていただきます」
ボルベバの目が輝き、エイザはその手を取り、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、ヘレンさん。あなたのご支援があれば、我々の研究は必ず実を結びます」
「本当に……感謝いたします」
ボルベバも続ける。
「この国の未来のために、あなたのような方が必要なのです」
倉庫の明かりが、ふたりの笑顔を金色に染めた。
だが、レオンたちの影は、その光の外に沈んでいた。彼らの胸中には、温かさよりも冷たい予感が広がっていた。
カインがエクリプス・コアを握りしめる。杖の中の星粒が淡く明滅した。その光は、真実を告げる者の、静かな警告だった。
「……この輝き、やはり魔力濃度が高すぎる。軍用の精製レベルよ」
「彼女は、完全に信じてしまったわ」
セシリアが小さく言う。
「罪のない人ほど、善意の仮面を見抜けない」
リリスが呟く。
「でもこれはまだ始まりにすぎない」
レオンは静かに息を吐いた。その吐息は、夜の帳に溶けるように、静かに空気を裂いた。
「ここで動くな。今は証拠を掴む」
レオンの藍の瞳に、光がひとすじ走る。その光は、冷たく、まっすぐだった。
ヘレンは封筒を差し出し、エイザがそれを受け取る。
ボルベバがにやりと笑い、分厚い手でヘレンの手を包んだ。
「ヘレンさん、本当にありがとうございます。あなたのような方がいてくださるから、私たちは進めるのです」
「……どうか、夫のような研究者たちの役に立ちますように」
ヘレンの言葉は、祈りのように小さく、消えていった。その祈りは、金色の光に包まれながら、静かに罠の中心へと沈んでいく。
そして、ふたりの男――エイザとボルベバは、同時に深く頭を下げた。
「本当に感謝いたします、ヘレンさん」
その瞬間、倉庫の灯が揺れ、外の風が扉を叩いた。
リリスの胸に、嫌なざわめきが走る。ラヴィが思わずメモ帳を握り直し、息を止める。
ヘレンの微笑みは、安堵に満ちていた。それが、どれほど危うい安堵であるかを知らないまま。




