《モルグの羽根》から倉庫へ
夜のリオフェールは、まるで息をひそめるように沈んでいた。
街灯がひとつ、またひとつと灯り、薄紫の夕空を背景に、通りの影が長く伸びていく。
雪は降っていない。だが、空気の質はそれに似ていた。冷たく、乾いて、微かに光を散らす――まるで、誰かの秘密が空気に溶けているような夜だった。
カフェ《モルグの羽根》の扉が静かに閉まると、音が世界から抜け落ちたようだった。その一瞬の沈黙を縫うように、レオンたちは歩き出す。
先を行くのは、エイザと老女ヘレン。
ふたりの姿は、街灯の光の中に淡く浮かび、細い通りの奥へと消えていく。その背中は、まるで夜の帳に吸い込まれる影のようだった。
レオンは軽く息を整えながら、背後の仲間たちに視線を送った。
「間を詰めすぎるな。だが、見失うな」
短く、確実な声だった。その言葉は、霧の中で道を示す灯火のように、静かに空気を裂いた。
エルザが頷き、赤い髪を夜気に揺らす。
「了解。前衛は私が行く」
エルザの声には戦場の緊張があった。だがその足取りは、獣のように静かだった。
夜の石畳に、彼女の影が滑るように伸びていく。
リリスは、わずかに笑って肩をすくめる。
「ふふ、夜の尾行なんて久しぶり。カフェよりずっと性に合ってる」
「声が大きい」
カインの冷たい一言に、リリスは舌を出して肩をすぼめた。そのやり取りさえ、夜の静けさに溶けていく。
ラヴィは、少し遅れてついてくる。小柄な体が荷袋に埋もれ、息が白く上がる。
「ねぇ、ねぇ、これってまるで潜入取材ってやつじゃない?」
「“まるで”じゃなくて、完全にそれよ」
リリスが囁く。
「ただし、バレたらあんたの記事は遺稿になるけどね」
「ひどっ……!」
しかしラヴィの瞳は、怖れよりも興奮で輝いていた。その光は、夜の帳に差し込まれた火種のようだった。
エイザとヘレンは大通りを外れ、裏手のわき道へと入った。
石畳が濡れている。どこかで水路が溢れたのか、足音が鈍く響いた。
頭上の看板が軋む音と、遠くの鐘の音。
リオフェールの夜は、昼の喧騒の代わりに、機械仕掛けのような音で満ちていた。それは、都市が眠る代わりに、静かに動き続ける証だった。
先を行くエイザは、まるで夜に慣れているかのように、迷いのない足取りだった。その歩き方には、目的地を知る者の確信があった。
ヘレンはやや足を引きずるようにして、彼に遅れがちについていく。その姿は、導かれる者の不安と信頼が交差する、静かな影だった。
リリスがその様子を見て、低く呟いた。
「……誘導してる。彼女の不安を“守られている”感覚にすり替えてる」
「たしかに」
レオンが頷く。
「あの歩き方、道順、間の取り方……すべて計算されてる」
その言葉は、罠の輪郭をなぞる者の、静かな確信だった。
カインの指がエクリプス・コアの表面をなぞる。透明な魔力の粒が、微かに杖の内部で揺れた。その揺れは、夜の空気に反応するように、静かに脈打っていた。
「この先、魔力反応があるわ。精錬鉱石か、もしくは……」
「兵器開発関連の素材、ね」
セシリアが囁く。その声は、夜の静けさに差し込まれた警鐘だった。
「だとしたら、偶然とは思えません」
そして、リオフェールの夜はさらに深まっていく。
影は濃くなり、光は細くなる。その中で、罠は形を持ち始めていた。誰もが静かに歩きながら――その中心へと、確かに近づいていた。
路地の終わりに、ひとつの建物が姿を現した。それは、まるで夜の底に沈んだ記憶のように、静かに佇んでいた。
倉庫だ。分厚い木の扉に鉄の補強。夜気を吸い込んだ屋根の影が重く沈み、その輪郭は、星の光さえ跳ね返すほど鈍く濃かった。
扉の上には、古びた金属の看板が掲げられていた。錆の縁が月光に照らされ、文字が浮かび上がる。
――オレクシア商会。
その名は、まるで誰かが忘れさせようとした記号のようだった。
ラヴィが目を細める。
「聞いたことがない名前ね。最近できたのかしら」
「私も記憶にない」
ラヴィたちを待つ間に、関連する情報を調べていたカインが答える。
「公的な商業登録には載っていなかったはず」
「つまり、“できたばかり”じゃなくて、“見えないように作られた”会社ね」
リリスの声には皮肉が滲んでいた。その言葉は、夜の空気に小さな棘を立てるようだった。
倉庫の中では、十人ほどの男たちが忙しなく動いていた。
木箱が運ばれ、封印が解かれ、灰色の鉱石が顔を覗かせる。その鉱石は、まるで地の底から引き上げられた罪の結晶のように、冷たく沈黙していた。
手袋をはめた男が一つを持ち上げると、紫色の光が淡く反射した。その光は、夜の闇に溶けることなく、逆に空気を染めた。
リリスの目が鋭く光る。その瞳は、夜の帳に差し込まれた刃のように、倉庫の奥を切り裂いた。
「……あれ、なんだ?」
言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。紫色の光が、木箱の隙間から淡く漏れ、 まるで沈黙の中で脈打つ心臓のように、倉庫の闇を染めていた。
「危険な代物か」
レオンが低く呟く。その声は、刃の背で空気を撫でるように静かだった。
「あんな鉱石は見たことない。闇取引か何かかしら」
カインが続ける。その言葉は、倉庫の壁に染み込んだように重く響いた。まるで、石造りの空間がその罪を記憶しているかのように。
その鉱石は美しかった。だがその美しさは、破壊の予兆を孕んでいた。
それは、魔力を孕む鉱石。その存在が、倉庫の空気を一段深く沈めていく。
そしてその時、倉庫の扉が開いた。 音は小さかった。だが、確かに空気が変わった。
ひとりの男が姿を現した。
その影は、灯りの中にゆっくりと溶け込み、 まるで倉庫そのものが彼を生み出したかのようだった。




