《モルグの羽根》、沈黙の観察者たち-2
『でも……そんな大金を、わたしなんかが……』
『いえいえ、ヘレンさんほど信用のある方はそういませんよ。少額からでも構いません。』
『実際に倉庫もご覧になりますか?きっと安心しますよ。』
老女は、わずかに微笑んだ。だがその微笑の下には、「迷い」が確かにあった。
それは、信じたいという願いと、信じてはいけないという直感の狭間で揺れる者の、かすかな震えだった。
エイザの言葉は、優しく、それでいて熟練された手つきで心の隙を撫でていた。その声なき声は、まるで絹で包んだ刃物のようだった。柔らかく、温かく、だが確実に――切り込んでくる。
あれは口調を変えた刃物だ、とリリスは思った。そしてその刃は、今まさに、老女の信頼という名の薄氷に触れようとしていた。
「リリス、どう?」
ラヴィが小声で問う。その声は、琥珀の灯に溶けるように、静かに空気を揺らした。
リリスは、視線を逸らさぬまま答える。その瞳は、光の粒を拾うように、老女の唇の動きを追っていた。
「老女の名前はヘレン。夫が研究者で亡くなってる。今は財産を運用したいらしい」
「運用……?」
セシリアが眉をひそめる。その言葉には、冷たい水面に落ちる小石のような、静かな警戒があった。
「投資ってこと?」
「うん。研究用鉱石を扱う商会に、投資するよう勧められてる。エイザが、その仲介をしてるっぽい」
「研究用の鉱石……」
カインの声が、低く沈んだ。その響きは、霧の奥に潜む予感のように、空気を染めた。
「その商会、どこの国の許可を得てるのかしら」
リリスは首を横に振る。
「それはまだ出てない。けど、言い回しがいやらしい。“信頼できる筋”って言葉を三回も使ってる」
「詐欺師がよく使う常套句ね」
エルザが低く言った。その声は、刃のように鋭く、しかし冷静だった。
レオンは黙ったまま、カップを指先でなぞっていた。その音が、淡い陶器の響きを残す。
レオンの瞳には、すでに複数の推論が並び始めていた。その思考は、静かな霧の中で形を持ち始める影のようだった。
「もしこの鉱石が、ただの商業目的ではなく――」
「魔導兵器の素材として流れている可能性もある」
カインがレオンの思考をなぞるように続けた。レオンはうなずく。
「だが、今は動く時じゃない。彼らを尾ける。それで全てが見えるはずだ」
カフェの中の光が、少しずつ色を変えた。
外はすでに、夕暮れの紫。窓に映る影が濃くなり、焙煎機の金属音が途切れる。
やがて店主が小さなランプに灯を入れると、琥珀色の光が壁を包んだ。その光は、昼の名残を静かに閉じ、夜の物語を開く合図だった。
《モルグの羽根》は、夜の顔を見せ始めていた。香ばしい匂いが漂い、外の通りでは、雪に似た冷気が流れ込む。
窓際のリリスが、その風の動きを感じ取りながら囁く。
「行く気だね。あの二人」
確かに、中央のテーブルでは、エイザが身を乗り出していた。
ヘレンの鞄の上にそっと手を置き、何かを約束するように微笑む。その笑顔には、作られた温かみがある。
リリスにはわかった。あれは、“信頼”を装った罠の表情。柔らかく、優しく、しかし確実に心の隙間へと滑り込む刃。
ヘレンは、両手で鞄を抱き直す。不安と期待がせめぎ合う、その微妙な瞬間。その手の動きは、信じたい者の祈りのように、静かに震えていた。
エイザは立ち上がり、外套の裾を整えた。まるで舞台で台詞を終えた役者のように、淀みなく。その所作には、計算された余韻があった。
ラヴィが小声で息を呑む。
「行っちゃう……本当に信じちゃったのね」
セシリアが眉を寄せる。
「止めたいけど、今は――」
「彼らの行き先を突き止める。それが先だ」
レオンの声が、低く制した。
その瞬間、店の鈴が鳴った。夜の空気が、外からひやりと流れ込む。
琥珀の灯りの中で、エイザが軽く頭を下げ、ヘレンに笑いかけた。老女はその仕草にほっとしたように微笑み、扉へと歩き出す。
外には、すでに夜の帳が降りている。街灯が、ひとつ、ふたつと灯り始める。
白い息が空に消えていく音が、微かに聞こえた。その音は、信頼という名の橋を渡る者の、静かな足音だった。




