《モルグの羽根》、沈黙の観察者たち-1
午後の日差しがゆるやかに傾き、カフェ《モルグの羽根》の窓を淡く染めていた。
琥珀の光は、カップの中の黒い液体を金に変え、壁の時計の針がひとつ進むたび、影は少しずつ長くなっていった。
冬の陽は短い。昼と夜の境界は、いつも思っているよりも早く訪れる。その訪れは、まるで誰かの秘密がそっと開かれる瞬間のように、静かで、確かだった。
レオンは椅子の背にもたれ、視線をさりげなく中央の席へ滑らせた。
エイザと、向かいに座る老女。二人の姿は、静けさの中でひとつの絵画のように浮かび上がっていた。その絵には、色も音もない。ただ、空気の密度だけが、筆の代わりに輪郭を描いていた。
周囲の客たちは、誰もその小さな緊張に気づいていない。
だが、テーブルに並ぶ手の動き、視線の微妙な揺れ、呼吸の速度――それらが作る空気の密度を、レオンの眼は見逃さなかった。彼の眼差しは、戦場で風の向きを読む者のそれだった。
レオンの隣で、エルザが小声で呟く。
「ここからでは……会話の内容までは聞こえないな」
その声には、抑えた焦りが滲んでいた。前衛の戦士としての本能が、情報の欠落を嫌う。エルザにとって、見えぬ敵は最も危険だ。
カインが頷く。
「音の反射が悪い。壁に吸われているわ」
カインは冷静に周囲を見渡し、空間の魔力の流れを感じ取っている。
エクリプス・コアの球体がわずかに淡い光を揺らし、カインの横顔を照らした。その光は、まるで思考そのものの形を持っているかのように、静かに瞬いた。魔力の粒が、沈黙の中で脈打つ知性のように、静かに揺れていた。
ラヴィが、その二人の言葉を聞きつけると、隣のリリスに肘で軽く合図を送った。
「ねぇ、リリス。あれ、聞ける?」
リリスは、わずかに唇の端を上げて、頬杖をついた。
「任せて。耳より得意な方法があるの」
その声は、風の中で囁きを拾う者の、静かな自信だった。
リリスの金の瞳が細まり、光を読むように中央のテーブルを見つめる。その瞳は、音ではなく光を聞く者のものだった。
リリスの世界から、音が消えた。代わりに、唇の動きが――文字となって、リリスの中に流れ込む。
「口の言葉」は、光を通して「意味」に変わる。それは、盗賊の技術ではなく、生存の術だった。
リリスの人生は、音を奪われた夜と、囁きを拾う朝の繰り返しのようなものだったのだから。
静寂の中で育った者は、沈黙の中にこそ真実を見つける。そして今、冬の光に染まるこのカフェで、リリスはその術を使う。誰にも聞こえない声を、誰よりも深く読むために。
老女の唇が、わずかに震えている。その震えは、寒さのせいではなかった。
冬の午後、カフェ《モルグの羽根》に差し込む光はすでに傾き、窓辺の影がゆっくりとテーブルを這っていた。
リリスは指先で卓上のスプーンを回しながら、その銀の軌跡の向こうで、老女の口の形を静かに追った。
音はない。だが、言葉はあった。それは、光の中に浮かぶ文字のように、リリスの中に染み込んでくる。
『……夫がね、研究者で。あの人のおかげで、生活には困らなかったの。でも、もう亡くなって……』
『それで……これから先のことが、不安で』
老女の声なき言葉が、リリスの心に映し出されていく。その表情には、飾り気のない不安があった。
皺の間に刻まれた優しさと、孤独が、痛いほど真実だった。それは、誰かに頼ることをためらいながらも、それでも誰かを信じたいと願う者の、静かな祈りだった。
エイザの唇が動く。その動きは、まるで絹の手袋で刃を包むように滑らかだった。
『お辛いですね、ヘレンさん。ですが安心してください。信頼できる筋から、新しい投資案件がありましてね……』
『研究用の鉱石を輸入している商会なんです。王都でも注目されていますよ』
リリスの目が一瞬、細くなる。
「研究用の鉱石」。その言葉に、背後のレオンの心が微かに反応した。
カインもまた、杖を握り直す。その単語の裏に潜む意味――それが、今の彼らの探索目標と重なっていた。
リリスは続けて唇を読む。
エイザの言葉は、まるで絵筆のように、老女の心に色を差していく。




