旅路の始まり
王都を発って二日目の朝、レオンたちは陽光の差し込む森の中を進んでいた。
湿った土の香りが漂い、鳥のさえずりが静かな朝の空気に響く。マリオンは先頭を歩きながら、時折振り返り、道中の注意点や過去の出来事を語っていた。
「封印の谷には、かつてゼルヴァ王国が禁忌とした技術が眠っている。研究者の間では、王国が何らかの『選別』を行っていたという説があるが、詳細は未だに不明だ」
「選別……」
レオンは呟いた。
「それって、俺たちが追っているアプリの選別機能と関係があるのか?」
「そこを確かめるのが、今回の目的だろう?」
マリオンは静かに言い放った。
「甘い考えで挑むのなら、今すぐ王都に戻ることだ」
「相変わらず厳しいねぇ、おばあちゃん」
リリスが口を尖らせながらも、どこか楽しげにマリオンを見た。初対面のときは「口うるさいババア」と思っていたが、旅を共にするうちに、その厳しさの裏にある優しさを少しずつ感じ始めていた。
「おばあちゃんじゃない」
マリオンは目を細め、ポケットから小さな包みを取り出した。
「はい、お前の分だ」
「……え?」
リリスは目を瞬かせた。
「これって……?」
「蜂蜜菓子だ。旅の疲れを取るには甘いものがいい」
「え、なんで私だけ? レオンたちの分は?」
「お前だけ特別だ。孫みたいなものだからな」
リリスは一瞬固まったまま、手の中の包みをじっと見つめた。次の瞬間、頬を赤らめながら、急いでそっぽを向いた。
「ずるい! いや、嬉しいけど!」
「ふふ、単純だな」
カインがクスクスと笑いながら、からかうように言った。
「やっぱり甘いものには勝てないのか、リリス」
レオンも微笑みながら、マリオンの表情に柔らかさがあることに気づいた。彼女の厳しさは、単なる冷徹な性格ではなく、長年の経験と、誰かを守るためのものなのだろう。
「……マリオン、昔からこんな感じなのか?」
「そうだな」
カインが軽く頷く。
「学者としては鋭いが、身内には甘いみたいだな。特にリリスみたいなタイプにはな」
「ほう、ならばお前ももっと真面目に学ぶことだな」
不意に響いた声に、カインはハッとする。振り向くと、マリオンが鋭い視線を向けていた。
「えっ……あ、いや、それは……」
カインは思わず言葉を詰まらせた。マリオンが学者としての威厳を見せつけると、さすがのカインも押され気味だ。
そのとき、前方の茂みがわずかに音を立てて揺れた。風もないのに葉がざわめき、不自然な気配が周囲に漂う。レオンは眉をひそめ、剣の柄に手をかけた。
「……何かいるな」
次の瞬間、黒い影が茂みから勢いよく飛び出してきた。
「魔物か!」
現れたのは狼のような姿をした魔獣。全身を覆う黒い毛皮は陽光を吸い込むかのように鈍く光り、ギラつく瞳が獲物を狙う飢えたような視線を放っていた。牙をむき出しにしながら、低く響く唸り声を上げる。その音は周囲の静寂を裂き、レオンの鼓膜に鈍い重圧を残した。
魔獣は土を掻き、鋭い爪を地面に深く食い込ませると、一気に身を低く構える。その姿勢はまるで次の瞬間には飛びかかる準備を整えているかのようだ。
レオンは緊張の糸を張り詰めたまま、息を殺すようにして相手の一挙一動を見つめた。指先には自然と力が入り、柄を掴む手には冷たい汗が滲む。
「慌てるな。こいつは私がやる」
マリオンが一歩前に出ると、その手元に炎が揺らめきながら灯った。彼女が低く詠唱を紡ぐ声は、周囲の空気を震わせるようだった。次の瞬間、詠唱が完成すると、炎はまるで蛇のように形を変え、唸りを上げながら魔獣へ飛びかかる。
「《炎縛》」
絡みつく炎が魔獣の四肢をがんじがらめに縛り上げると、その動きを完全に封じた。魔獣は身を捩らせるようにして抵抗したが、やがて炎が燃え広がり、短い悲鳴とともに崩れ落ちた。
マリオンは静かに息を吐き、燃え残る炎を背後に、リリスの方へと振り返った。
「す、すげぇ……」
リリスが目を丸くする。
「焔の魔女って呼ばれてたのも伊達じゃないな……」
レオンも驚嘆する。
「まあ、さすがに衰えたがな」
マリオンは静かに息を吐き、小さく笑った。
「おしゃべりが過ぎたな。行くぞ」
その言葉にリリスや仲間たちが頷き、それぞれが昼の日差しの下、まっすぐ前を見据える。
一行は静かな足音を響かせながら、封印の谷へと歩を進めていく。日差しは暖かく、空気には緊張感が漂っている。
目的地で待ち受ける何かを予感しながら、彼らの影がゆっくりと道に長く伸びていった。