祈りの扉がひらくとき-2
足を踏み入れた途端、空気が変わった。それは音のない鐘が鳴るような感覚だった。
ひんやりとした静寂が頬を撫で、遠い記憶のような香油と石の香りが、心の奥にそっと届いてくる。光さえも歩みをたたむ場所――聖域とは、そんな風に時を違えているのかもしれない。
大理石の床には金と銀の細工が流麗に施され、宙を映すような艶を宿していた。
天窓から差し込む陽光は、壁一面に彩られたステンドグラスを透過し、ゆらぎながら床へ降りてくる。
その光は、虹のように淡く床に揺れ、歩くたびに色が染まり、変わっていく。まるで旅人の足元に祝福の影が寄り添ってくるかのようだった。
静かに時が層をなして沈んでいく。誰の声も届かぬ静寂の中で、レオンたちはこの聖堂が“語る”ということに、少しずつ気づきはじめていた。
「……こんな空間で祈りを捧げているの?」
リリスが囁くと、セシリアが静かに頷いた。
「ごく稀に。大聖堂は、私たち修道女の特別な修練の場でした。……でも、この中枢区域は、私も足を踏み入れたことがありません」
セシリアの視線は、遠くに伸びるステンドグラスの影を追いながら止まった。その先にある沈黙こそが、彼女にとって祈りと同じ重さを持つものだったのかもしれない。
案内役の修道士は、無言のまま広い回廊を進んでいた。彼の衣の裾が大理石をこする音だけが、静寂のなかにわずかな痕跡を残す。
廊下には淡い香の煙が漂っており、それはどこか記憶の底から立ち上る夢のような匂いだった。
壁に並ぶ燭台は、光の粒を頼りなく灯しては、すぐに揺らめきを返す。その炎は、まるで神託を告げる前の沈黙のようで、歩みを進める者たちの息の音すら、火の揺れに飲まれて消えていった。
「空気が……重いな」
カインが低くつぶやいた声は、回廊の天井に吸い込まれながらも、どこかで響きの残響となって広がっていった。
その響きは、祈りの余韻なのか、それとも未だ沈黙している何かの返事なのか、誰にも分からなかった。
「この大聖堂は、正教の歴史そのもの。願いと信仰が交わる場所です」
セシリアの声は回廊の石壁に優しく染み込み、空気の深みに溶けていった。彼女の眼差しは、壁に描かれた古いフレスコ画に静かに向けられていた。
そこには、天を仰ぐ巡礼者たちが描かれていた。
裸足の少年、白布を纏った母、杖を突く老人。それぞれが、空へ向けて手を伸ばし、静かに目を閉じている。
その瞼の奥にあるのは、言葉にならぬ願い。悲しみ、希望、赦し。すべてが色に還り、壁面の中で小さな光の粒となって踊っていた。
画の上部には、一つの光輪が描かれていた。
それは誰にも触れられず、誰にでも見えるもの。祈る人々の心から生まれる共鳴として、信仰が願いに寄り添い、願いが信仰に宿る瞬間の象徴だった。
ステンドグラスの光が絵の細部に差し込み、時折、巡礼者の指先や瞳に虹色の揺らぎを与えた。それはまるで、大聖堂自身が描かれた願いにそっと応えているかのようだった。
やがてレオンたちは、聖堂の最奥部へと至った。
一対の巨大な扉が、音もなく開かれる。その動きは風より静かで、光より確かだった。
開かれた先には、言葉の届かぬほどの静寂が支配する空間が、広がっていた。そこはまるで、世界が息を止めているような場所だった。




