沈黙に告げられし座標-1
まるで糸を張ったように整っていた応接間の空気が、その音でかすかに震えた。
《ピンッ》
鋭い異音が一閃、天井の隅にまで跳ねるように響いた。それは決して大きな音ではなかった。けれど静けさのなかでは、雷にも似た余韻を残した。
レオンたち全員の身体が、わずかに硬直する。視線が交錯し、呼吸が揃う。それは本能の反応だった。命を賭した旅で何度も経験してきた、“兆し”に対する備え。
レオンがゆっくりとスマートリングをかざす。その指の動きすら、空気の密度に沈み込むようだった。
スマートリングから浮かび出た画面の中心に、じわりと文字が浮かび上がる。それは、命令でも予告でもない。ただひとつの、静かなる提示。
《次なる座標、開示》
その文字が現れた瞬間、応接間の空気がわずかに揺らいだ。
壁に宿った灯りの粒が微かに脈を打ち、室内に満ちていた“静止の気配”が、次に踏み出すべき何かを予感させるものへと、ゆるやかに変わっていく。
誰も言葉を発さなかった。けれどその沈黙こそが、すべてを悟った者たちの返答だった。
それは啓示――命じられたのではない。歩んできた者たちだけに、そっと差し出された“次の一歩”。
レオンたちがスマートリングを覗き込んだ瞬間、指輪の縁から柔らかな光がにじみ出した。まるで内側に静かに湧く泉が一気にあふれ出したかのように、眩しさではなく、“在ることの予感”を伴った光だった。
やがて、その光は微かな揺らぎとなり、空間にふわりと浮き上がってくる。粒子が集まり、渦を描き、やがてひとつの“輪郭”が生まれる。まるで、誰かが絵本のページを破って立体にしたような見覚えもなければ理屈も通らない、それでいて、なぜか嫌な感じのしない気配。
「……なにこれ……」
リリスが漏らした声には、半ば呆れ、半ば笑いのような脱力が混じっていた。その口元には、まだ言語化できない好奇心の線が浮かんでいる。
現れたのは、いつものパステルブルーとホワイトの毛並みをもつ、不思議な存在だった。体型はまんまるく、ぬいぐるみそのもの。頭にはピンクのリボンがちょこんと乗っていて、両手には小さな杖を握っている。杖の先端からは、星屑のような光粒がこぼれるように舞い落ち、床にも空気にも触れず、しばし漂っては消えていく。
そしてその瞳。子どもが夢のなかで見たものだけが持つ、“理由のないまぶしさ”をたたえた、ひたむきな二つの光。
満面の笑顔を浮かべながら、その存在はくるりと一回転し、明るすぎる声を響かせた。
「こんにちはっ♪」
突如現れたそのキャラクターは、空気の重さも場の緊張も、意に介さない。その“軽さ”は、ある意味で呪文よりも強い。世界を少しズラす力を、その笑顔は持っていた。
突如現れたそのキャラクターが、くるりと一回転しながら手を振った。声は妙に明るく、高音で、耳に残る。
「いまからみんなには――《スタンプラリー》に挑戦してもらうよっ☆」
一瞬の静寂。空気がわずかに震え、誰もが頭の中で言葉を整理しきれずにいた。
「……スタンプ、ラリー?」
レオンの低い声が、応接間の静けさに沈むように響いた。戦場でも揺らがぬ声が、いま、あきらかな戸惑いを帯びていた。
「え、スタンプラリー……ってあれですか? 子どもの遊びの?」
セシリアが目をぱちくりとさせて尋ねると、そのキャラクターはまたくるりと回ってウィンクを飛ばす。
「そーだよっ♪ 大陸中に散らばる名所を巡って、キラキラな思い出とスタンプを集めちゃおうっていう、わくわくイベント☆」
「イベント、じゃないわよ……」
カインが端末を睨みつけながらぼそりと呟く。その横で、エルザが眉をしかめる。
そのキャラクターは気にするそぶりもなく、両手を広げながら満面の笑顔で続ける。
「そうそう、ぼくは旅のナビゲーター、“ミュフィ”だよっ!特別な君たちだけに、こっそりぼくの名前を教えてあげるね。さーて! 記念すべき第一のスタンプポイントは――ここっ☆」
その声に応じるように、アプリの画面がぱっと切り替わる。深い紺の背景に浮かぶ大陸地図。ひと筋の光が上空から差し込むように降り注ぎ――その中心に、静かに名が刻まれる。
《アルヴァン王国・王都ルミナス――システィリア正教の大聖堂の大聖碑》
その瞬間、応接間の空気が一変した。アプリの画面を反射していた窓ガラスの影さえも、わずかに揺れたように思える。
誰かが息を呑んだ。誰かが言葉を飲み込んだ。
アルヴァン王国の王都ルミナスのシスティリア正教の大聖堂。それは歴史と権威の象徴であり、大陸中枢に座する信仰の柱だった。




