この街に、名を遺して-1
レオンたちは、オーケルベーレの屋敷の門をくぐった。 扉の内側には、外の光よりもわずかに温度の低い空気が満ち、長く磨かれた石床が靴音をやわらかく受け止めている。
石階段を上がり、玄関扉が開かれる。内側は、昼間の陽を拒んだまま、厳粛な薄明かりに満たされていた。案内役の足音が控えめに先導し、レオンたちはひとつの空間へと導かれていく。
応接間。それは、あらゆる言葉が“駒”になる場。
レオンたちが立ち止まった先、重厚な二枚扉が静かに開かれた。磨き上げられた黒檀の板に、流麗な金の象嵌がささやかに光を返す。鋳鉄の蝶番が短く、しかし確かに鳴った。それはただの金属音ではない。まるでこの屋敷そのものが、言葉なき問いを開いたようだった。
その奥から、漆黒の靴音が厚く織られた絨毯の上にゆるやかに踏みしめられる。
沈んだ色彩の中で、それはかすかなリズムとなり、あたかも空気の密度を測りながら音を運んでいた。 揺れぬ姿勢。計算された間合い。そこに立つ人物の存在は、まるでこの空間にとって“最初の答え”であるかのようだった。
応接間の扉が静かに閉じられたとき、空気にはひときわ濃い静けさが宿った。ランプの光が壁の金彩をかすかに照らし、室内の空気をゆるやかに巡る香が、訪問者を迎え入れる“無言の手”のように漂っていた。
その静寂を破ったのは、朗らかに空間を横切る声。
「おお、来たね。さあ、掛けたまえ。……ん?この香り、セシリア嬢が選んだのかな?なかなか趣味がいい」
明るさと余裕を帯びた口調だった。だがその“軽さ”は、熟考を重ねた者にしか纏えぬもの。
声の主はメルセドーラ辺境伯、オーケルベーレ。この街の顔にして、数多の戦と駆け引きをくぐり抜けてきた老獪な貴族。
陽光を吸い込むような深緑の上衣に、金のチェーンをあしらい、その佇まいは絢爛を避けながらも、“権威”そのものが歩いていると錯覚させる風格を備えていた。
言葉には笑みが混じるが、目元だけは涼やかに揺るがない。まるで声は陽光で、視線は影――そんな対極の二重奏。背後に控える老執事もまた、館そのものの記憶を纏うかのように静かな存在感を放つ。
すべてが過不足なく整えられた空間の中、レオンたちは、今回もオーケルベーレの言葉の先にある“真意”の気配を読み取ろうとしていた。
「伯爵、今日はお時間をいただきありがとうございます」
その言葉は、空間の張りつめた静けさにすっと入り込み、まるで濃いインクが水面に一滴落ちたように、応接間の空気をゆるやかに変える“起点”となった。
レオンは礼を述べると、仲間たちへと静かに目配せし、その所作はまるで、言葉にならぬ結束を確かめ合う儀式のようだった。そしてゆっくりと肘掛け椅子へと腰を下ろす。硬さを感じさせないその動きには、疲労でも油断でもなく、「ここで交わす言葉に意味が宿る」と知る者の慎重さが滲んでいた。
窓の向こうには、赤く染まりかけた空が、イェブールの屋根という屋根に沈みゆく夕の記憶を落としていた。瓦の輪郭が炎の余韻を帯び、遠くの尖塔にさえ影が浮かぶ。
壁際の棚には、琥珀色の蒸留酒が静かに並ぶ。ラベルの筆致も瓶の縁も、すべてが“選び抜かれたもの”の佇まいをしており、香と記憶を封じ込めたガラスの群れが、この館の主の趣味と“忘れぬための備え”を語っていた。
中央の楕円形のテーブルは、磨かれた木目が灯りを柔らかく撥ね、その存在だけで「ここはただの談話の場ではない」と告げていた。数多の決断と、名前を持たぬ策謀が交わされてきた場所――政治の影も軍事の火も、ここから生まれ、街の呼吸を変えてきたのだろう。
そして今また、その席に、ひとつの別れと始まりを携えた者たちが座ろうとしていた。




