羽根の休息、そして風の兆し-1
イェブールの静かな丘の中腹にその屋敷は建っていた。灰褐色の石材と深緑の蔦が絡む外壁。幾度の季節風を受け止めたその屋根には、苔がわずかに根付き、鳥のさえずりすら遠慮するような“余白の気配”を纏っていた。
門扉は重く古風で、手入れの届いた鉄飾りがひっそりと誇らしい。だがその奥へ一歩踏み入れれば、敷石の通路に咲く庭草と、ささやかな噴水の音が、訪れる者を無言のやさしさで出迎える。
内装は質素でありながら、風格を宿していた。石灰を塗り重ねた白壁には、オーケルベーレの趣味だろうか、剣と盾の紋章画が数点掲げられ、時折その金彩が光を撥ねていた。
そして応接間―― 分厚いカーテンはすでに引かれ、窓辺には小さな観葉の鉢が並ぶ。室内には、夕暮れを越えた後の深まりゆく静けさが流れていた。空気は穏やかで、灯されたいくつかのランプが暗がりの奥へと金色の息を吐くように、ゆるやかに瞬く。
その明かりが照らすのは、旅路の埃を落とすには少しばかり古びたソファと、手入れの行き届いた木製のテーブル。食器の縁に宿る金は、まるで戦いの余熱を慰めるように、静かな輝きで刻まれていた。
そこに腰を下ろす者たちの疲労は新しく、そして誇らしかった。それは戦場から持ち帰った“存在の重さ”であり、この屋敷という名の静寂が、それをそっと受け止めているのだった。
このイェブールの街外れに構えるこの屋敷も、気づけばすっかりレオンたちの日常に馴染んでいた。 オーケルベーレからの提供――その名の通り“与えられた場”ではあるが、 いくつもの夜明けと疲弊を繰り返す中で、すでに戦う者たちの“根”となりつつある場所だった。
戦地から戻ったレオンたちは、淡々と席に着き、遅めの食事を囲んでいた。食卓に並ぶものは質素だが、どこか心がほぐれる静けさがあった。
「……オーケルベーレ、あいつの依頼はいつも大変だな」
エルザがパンをちぎる手を止め、天井の梁を睨むようにぼそりと吐いた。その声音には、呆れという名の苦笑と、背負い慣れた疲労が薄く滲む。パンの白い断面に、夕餉の静けさが沁みていく。
「ゾアについて与えらえた情報も断片的過ぎたしな」
カインが器を軽く傾け、湯気の奥にある香りを静かに吸い込む。口調はいつも通り。だがその瞳は、まるで不眠の夜の記録棚のように、重ねた調査と交渉の余熱をわずかに残していた。
ゾア――あの変異種の情報は、徹頭徹尾“雲”のように掴みづらかった。過去の報告は断片的で矛盾に満ち、記録のほとんどが途中で途切れている。そもそも“ゾア”という名すら、リリスが旧貴族の魔獣狩猟録の裏注から拾い上げた仮称がギルド内に広まったにすぎなかった。あの洞窟に辿り着いたのも、情報を洗っていた時のレオンの直感によるものでもあった。
「ま、報酬さえよければ文句はないけど」
リリスがニタリと笑う。その笑みの奥で、かすかに額へ残る傷の跡がちらりと覗いた。調査の過程で彼女が潜り抜けた地下遺構、踏み入れた忌み森の気配は――今なお彼女の衣の隙に、微かな硝煙のように残っている。
だが、それでも笑うのがリリスだった。闇を歩いてきたのに、ひときわ軽やかに。
「私は、あの子たちが無事だっただけで、よかったと思うわ」
セシリアの声が、それらすべての沈黙に蓋をするように優しく降る。金のカップを包む彼女の手元には、まだ回復しきらぬ細かな震えがあったが、その瞳には安堵が滲んでいた。語気は穏やかで、けれど確かに《小鳥の矢筒》の名を、心の中でそっと繰り返している気配があった。
窓の外では、静かな夜が街を包んでいた。風は止み、月光だけがそっと石畳の屋根を撫でていた。その光は鋭くもなく、ただ“いまここにある”という事実を照らし出すように、 カーテンの隙間をすり抜けて、応接間の床に淡い銀を落としていた。
また明日、新たな風が吹くだろう。戦火も、依頼も、背負うものも終わりはしない。だが今だけはほんの一瞬でも、“今日を越えた者たち”として、静かな灯を囲むことが、許されていた。
そして、レオン。彼は卓の端に置かれたままのランプの下、一通の小さな手紙を開いたまま黙然とその文字を見つめていた。
紙は少しだけ、角が折れている。急いで畳まれたのだろう。震える手で、何度も書き直した跡もある。そこに綴られていたのは――
『いつか、貴方のように誰かを救える人になりたい』
稚い筆跡。にじんだインクのかすれが、ただの“言葉”を超えて、心そのものが紙の上に座しているような重みを帯びていた。
レオンは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。どれだけの勲章よりも、どれだけの金貨よりもこの言葉の重さには敵わなかった。
なぜ剣を取るのか。なぜ命を賭けて戦場に立つのか。答えはいつも、どこか遠くにあるようでいて、いまこの掌の中にあった。




