ゾア──名を呼ぶだけで沈む夜-1
「っ……まさか、《変異種ダートウルフ・ゾア》……!?」
ネリーの声が、か細く震える。その喉から漏れた名が、空間の重さを変えた。闇の底で、空気が軋む。その名を口にした途端、洞窟全体の重力が変わったかのようだった。
「下級じゃない……中級、それも上位の――あの“喰らう闇”なのか!」
冷静なリオットでさえ、矢をつがえた指にわずかな汗が滲む。眼の焦点がぶれる。
獣の輪郭が、空気と溶け合って揺らいでいた。その巨体は、本来あるべき狼の姿を拒み、別の“何か”へ踏み出しているようだった。粘液が滴る音が、ぽたり、と空間を刺す。
「みんな、行くよ!」
カレンの声が、剣より鋭く洞窟に走った。一筋の光――そう思わせるほど、彼女の気迫が暗闇に刃を描く。
だがその号令よりも速く、黒い咆哮が空間を断ち切った。
「ギィ、アアアアッ!!」
ゾアが跳んだ。重力の法則を嘲笑うように、洞窟の天井すら届きかねない弧を描いて。
「くっ――!」
テッサが前へ。盾が閃く。だが、その衝撃は凶星のごとく――地面が呻き、鎧ごと彼を跳ね返す。
「テッサッ!」
地が揺れた。風が乱れた。そして、《小鳥の矢筒》は、試練という名の真なる爪痕に、ついに触れたのだった。
闇が揺れた。風も音も届かない洞の中で、ただ“衝撃”という現実だけが肉体を揺らす。
「テッサ!?」
ネリーの声が震える。倒れた盾戦士へと駆け寄ろうとしたその時、地鳴りのような感覚とともに、ゾアの足元――土の裂け目から、牙にも似た細長い触手が這い出した。
そしてその瞬間、空間が“切り裂かれた”。
細長い触手がわずかに動いた――たったそれだけの予兆だったはずなのに、岩肌を滑るような異音とともに、その影は残像を引いてネリーへ襲いかかっていた。
空気が反応する前に、距離がゼロになる。その動きはもはや“飛びかかる”というレベルではない。意思と殺意が、空間を短縮して現れたようだった。まるでそれは、“腐った地”そのものが敵意を持ったかのように、ネリーの足元へと接近する。
「……っ、なにこれ……!」
その触手が空を切る寸前――
「ネリー、下がって!」
リオットの声が叩きつけられ、ほとんど反射で矢が放たれる。鋭く伸びた触手――否、地を這っていたかに見えた“腕”のような異形を、寸前で撃ち抜いた。
が、ゾアはすでに次を読んでいた。矢の軌道と射手の位置、それを“本能のままに”ではなく、“計算された破壊”として跳躍した。
「――っ! くそっ!」
リオットの目がようやくその動きを捉えた頃には、その巨大な爪が闇から飛び出し、彼の脇腹を斜めに裂きつけていた。
刹那、洞窟の静寂を破って血飛沫が舞う。そして洞内に残ったのは、意志を持つ獣の“読み合い”ではなく、一方的な狩りが始まったという事実だった。
闇がうねる。腐臭と湿気が混じった空気を吸うたびに、肺が凍るようだった。 それでも、カレンの足は止まらない。
「……もう、やるしかない!」
小さく息を吸い、剣を構え直す。指先に滲む冷たい汗ごと、恐怖を刃に込めた。だが、それは逃げるための剣ではない。――守るための刃。仲間を、信頼を、名もない明日を支える“矢”であるために。
カレンは斜面を駆け下りた。踏み出すごとに石が転がり、草を裂く音が夜気を裂いていく。視線の先にいるのは、闇そのものを飼いならしたかのような異形。《ゾア》の瞳が彼女を捉えた瞬間、空気に血の匂いが増す。
「こっちだ、化け物!」
叫びと同時、閃光のような一太刀が奔る。剣の軌跡はまっすぐだった。意思のかたちそのものだった。
一閃。
刃先がゾアの肩をかすめ、甲高い金属音を残す。だが、――その鱗は剣を拒んだ。まるで鋼よりも深く閉ざされたその装甲に、カレンの剣は傷ひとつ刻めなかった。
火花だけが、わずかに空を照らす。その光の中で、カレンの瞳が燃えるように揺れていた。恐怖はまだそこにある。だが、それよりも濃い“意志”が――すでに彼女を戦いの中央へと導いていた。




