その名の重さ、民のぬくもり-1
冷たい北風が沼地の表皮をめくるように吹きすさび、湿った土と枯れ草を舞い上げる。空は曇りがちで低く、重く、太陽すらその姿を曖昧にしていた。
かつての戦場――クラウベルの外縁に広がる湿地帯は、いつも風が最初に泣く場所だった。戦の前触れは、剣よりも先にこの風が告げる。
ヴォルフガングはその土地の息遣いを知っている。クラウベル領主となって以来数か月、彼は幾度となく“境界”に立ってきた。
威力偵察にきたシィグルダ帝国の先遣部隊。夜の闇に紛れる盗賊ども。道なき森から現れる魔の者たち。どれもが、民の暮らしに揺らぎをもたらす存在だった。そして彼は、誰よりも速く剣を抜き、誰よりも遅くそれを収めた。
その日々は、ただの記憶ではない。振るった剣の重みと、肩へ積もった疲労と、骨に残る震えの一つひとつが、今やヴォルフガングという男の肉に、静かに沈殿している。
風が過ぎるたび、ヴォルフガングのなかに一閃の記憶がよぎる。
剣戟の軋み。怒号。敗者の沈黙。そしてそのすべてを越えてなお、クラウベルに灯りを残すという選択。
「気を抜くな。帝国の偵察部隊だ」
ルガスが槍の穂先を高く掲げ、風の中に鋭く突き出した。霧の向こう、かすかな地響きが荒野の皮膚を打つ。
「帝国軍か……」
ヴォルフガングは鋭い眼光で地平を見つめた。白銀の髪が灰色の霧に揺れ、黒衣の裾も風に翻る。家宝の剣は今も背中に収められているが、彼の目はすでに勝利を見据えていた。
午前の陽光がまだ低い時間帯だったにも関わらず、帝国の前触れは、遥か沼地の彼方からも伝わってくる。馬の蹄音、重い甲冑の軋む音、そして兵士たちの低い声が、地面を震わせる。
集まったのは数十名の偵察部隊——騎馬隊に軽装の歩兵と弓兵。彼らの顔には油断も驚きもない。ただ、「ここがベールフェルト家の領域であるか」を確認し、必要なら破壊する……そんな威力偵察の任務感が漂っていた。
対するクラウベル側――その中心となるルガス、シグルド、フレイヤ、エレーナ、ヴィジラントが先鋒となり、ヴォルフガングがその最前列に立つ。
沼地を渡る風が乾いた草をなぎ倒し、微かな湿気を孕んで地表を這う。その奥に、ひずんだ金属音――鎧が擦れあう音が、じりじりと風をかき分けながら近づいてくる。地面はまだ凍みが残る硬さを保っているが、その上を通る蹄と靴底が、“意志の通路”として踏み鳴らされていた。
「ここは、我らがクラウベルの地!偵察なら帰れ。侵略なら、ここで終わりだ!」
ヴォルフガングの声が真冬の気配を切り裂く。その声には、ただの防人としてではなく、「公爵家当主」としての威厳があった。
帝国軍は一言も返さない。だが歩兵の一人が静かに体重を後ろ足に移し、長槍の穂先がわずかに地を掠める。騎兵は馬の鼻先を風下に向けて並び、弓兵の指はすでに矢筈に触れていた。
軽装とはいえ、その構えに迷いはない。彼らもまた、「任務」を生きている。
ルガスの槍が朝霧を裂いて閃く。歩兵が革鎧越しに吹き飛び、後方の弓兵が巻き添えを食って前線に押し出された。土煙が低く立ちのぼり、視界が白くかすむ。
ヴォルフガングの声がその霧を断ち割るように響く。
「構えを崩すな――押し返すぞ」
シグルドが的確に矢を放ち騎馬の肩に当て、フレイヤの呪文が敵の手を鈍らせ、エレーナが密着戦を仕掛けて歩兵数人を排除し、ヴィジラントが重斧を叩きつける。
そして、最後にヴォルフガングが剣技を見せた。家宝の剣を抜き、圧倒的な重厚さを見せつけながら――帝国騎馬を一喝。大声と身体の圧で一人を屈服させ、騎馬そのものを押し返す。戦う相手には、十分に「クラウベルの主」であることがわかった。
帝国の将校が白旗を上げ、撤退の旗が立ち、沼地へと隊列は散っていった。




