拳の余白
一方、庭の周囲では、ルガスたちがヴィジラントの取り巻き十人と交戦していた。
鋼のような肉体を持つルガスは相手の拳を体で受けながらも、隙を見逃さず、反撃の軌道を正確に刻む。
撃たれながらも構築される一撃、それがルガスの型だった。
剛腕が振り抜かれ、拳が相手の顔面にめり込む。骨が軋み、呻きとともに敵がうずくまった。
だが、ルガスは表情を崩さない。わずかに顎を引き、静かに言う。
「……次」
その声は、嵐の中心のように揺るがぬ静けさを湛えていた。
シグルドは本来、弓を操る狙撃手だ。
だが、拳を使うことにも、いささかの迷いはなかった。
相手の体勢、呼吸、重心の揺れ。一瞬の動きさえ、シグルドの目からは逃れない。
踏み込みの速さは控えめだが、そこには計算された間合いがある。
相手の拳を半歩でいなし、すぐさま逆の脇腹へ一閃。
鋭く、そして必要最小限。
剣は要らない。致命を必要とせず、機能を奪うだけで十分だった。
まるで風のように、位置を変え続けるシグルドに手は届かない。
翻弄された敵が背を見せた瞬間、シグルドは回り込み、脚を絡め、重力を利用して静かに倒す。
砂が跳ねた。相手の息が漏れる。
そして、 倒れた男の視界の上に影が差す。
シグルドは何も言わない。ただ、静かに告げる。
「終わりだ」
その声は、冷たくも澄んでいた。
フレイヤは唇をゆるく湿らせながら、静かに指先を掲げた。
燃え上がる炎の衝動が胸奥に疼く。
けれど、今日は燃やさない。
焼き尽くす火よりも、“痺れさせる雷”を選ぶのは、たやすくない抑制だった。
フレイヤの周囲に、わずかに揺れる静電の膜。
雷系は得意ではない。だが、それでも彼女は使う。意図して、冷徹に。
「少しだけ……感じてみて」
囁くように魔素を捻り、空気が弾ける。稲妻の糸が地を這い、神経を貫くように取り巻きを襲う。
誰もが息を呑む。
雷光は爆ぜず、内側を焼かず、ただ“奪う”。力でも動きでもなく、抗う感覚そのものを。
取り巻きたちは魔法の衝撃に怯えながらも、フレイヤの眼差しに宿る“余白”に気づく。
これは本気ではない。それゆえに、恐ろしい。
フレイヤは楽しげに唇の端を上げる。
未熟な雷でも、これほど舞えると、自らに言い聞かせるように。
そしてまた次の一閃が響く。それは火ではない分だけ、冷たく、容赦がない。
エレーナは剣を帯びぬ。それは必要がないからだ。
その動きは研ぎ澄まされ、拳と踵だけで戦場を制する。
前衛ヒーラー。回復役などという言葉で収まる存在ではない。
相手のわずかな動作に目を光らせ、次の攻撃の気配が生まれるより前に、拳で軌道を弾く。
攻めるというより、“逸らす”ことに長けているのだ。
足運びは静かで無駄がなく、わずかに傾いた重心を見逃さず、回し蹴りが脇腹を穿つ。
そして時折、静かに顎を突き上げる。
それは、倒すためではない。主導権が既にこちらにあることを、無言で示す動作。
敵の体勢が崩れたその隙に、彼女は一歩進む。
すでに戦意を失った者を見下ろし、冷淡に。
「……以上だ」
その言葉が落ちると同時に、空気が少しだけひやりと凍る。
庭は、もはや拳闘の頂上決戦と化していた。
石畳には鮮やかな飛沫が散り、血と汗が混ざり合う。
頭上の梢は風を孕み、茂った樹影が静かに揺らめく。その陰影すら、この戦いの熱に引き寄せられているかのように。
やがて、取り巻きたちは一人、また一人と膝をつき、最後の挑戦者が地に沈む音が、乾いた鈍音となって庭に響いた。
それは決して派手ではない。だが確かに、すべてを終わらせる音だった。
しばしの沈黙の後。
「……終わったか」
ルガスの低く、地を這うような声が空気を割る。
取り巻きたちは呻き声を漏らしながらも、誰一人として立ち上がろうとはしなかった。
それは敗北ではなく、完全な“服従”だった。
ヴォルフガングとヴィジラントの拳が交錯し、石畳が幾度も衝撃に軋む。
泥の飛沫、血の飛沫。何度目かの打ち合いの果て、二人は荒く息を吐いた。
顔面に一撃を受けたヴォルフガングの口元には血が滲み、左頬が腫れ始めていた。
しかし、動きに鈍りはない。
ヴィジラントの方も、呼吸が浅くなっていた。右脇腹に受けた拳の余韻が、なおも身体を引きずる。
そして、再び同時に踏み込み、互いの拳が振り抜かれる。
それはまるで、最後の閃光のような瞬間だった。
ヴォルフガングの右拳が、ヴィジラントの鳩尾を鋭く突く。同時に、ヴィジラントの拳がヴォルフガングの肩を抉るように叩く。
一瞬、空気が止まった。
次に動いたのは、ヴィジラントの膝だった。
重力に引かれるように崩れ落ち、その巨体が庭に沈む。
ヴォルフガングもまた、膝をつきかける。
だが、踏みとどまる。
深く、息を吐く。拳をわずかに震わせたまま、ヴォルフガングは立ち上がった。
「……分かったよ、ベールフェルトの次男坊」
ヴィジラントは、背中から石畳に崩れ落ちたまま、荒く呼吸を繰り返す。
頬に赤黒く浮かぶ痣、口元に滲む血。殴打の衝撃がまだ骨の奥に残る。
だがヴィジラントの目は曇っていない。身体は打たれていても、瞳は静かに、まっすぐにヴォルフガングを捉えていた。
「俺たちの庭には、俺の支配としての一線がある」
声は低く、だが明瞭だった。
「お前たちは、それを超えた。そしてその先に立っていたのは、確かにお前だった」
言葉を重ねるごとに、敗北ではなく承認としての色が滲む。
場に静寂が戻り、日差しが石畳を照らす。
拳闘の名残が傷跡のように景色に刻まれ、その光は、勝者と敗者の区別なく、ただ静かに降り注いでいた。
戦いは終わった。
だがその空気の中で、これが序章にすぎないことを、誰もが悟っていた。




