灰色の靄の向こうに
クラウベルの朝は、灰色の靄に包まれていた。
湿った空気が石壁を濡らし、屋根の隙間から落ちる水滴が静かに地面を叩く。
その音は、町の鼓動のように、ひそやかに響いていた。
宿屋「石竜亭」は、町の中心部からやや外れた場所に佇んでいた。
かつて軍用の詰所だった頑丈な石造りの建物。
冷たい外気を遮る分厚い壁、鉄の格子が戦の名残を刻んでいる。
今では旅人や商人も泊まる、町でも有数の宿屋。
しかし、その扉の奥には、ただの休息以上のものが潜んでいた。
その一室に、五つの影が静かに朝を迎えた。
「湿気がひどい。布団が重い」
窓辺で背伸びしながら、フレイヤがぼやいた。
寝癖のままの赤髪が、朝の光にゆるく揺れる。
その奔放な性格が、髪の隙間から漏れる吐息にさえ滲んでいる。
「このあたりは沼地が多いから仕方ない」
シグルドは淡々と返す。
すでに身支度を整え、矢筒の中身を点検していた。その仕草は、戦場に戻る兵士のように無駄がなく静かだった。
「湿気だけじゃねえ」
ルガスが、口数少なくぽつりと呟く。
「窓の外、昨夜からずっと狩人の焚き火の煙が漂ってきてる。狩場が近いな」
朝の冷気に混じる煙の匂い。遠くの森が、まだ夜の名残を手放していないようだった。
ルガスは腕をゆっくりと回しながら、僅かに視線を動かす。まるで、気配を測るように。
「……この町、あたしたちが来るのを知ってたような気配がある」
短く切り揃えた黒髪の女、エレーナがそう言って宿の廊下を一瞥した。その視線は鋭く、迷いはない。
ヒーラーながらも前衛に立つことの多い彼女は、気配に敏い。
今朝も無意識のうちに、隣室や階段のきしみ音を聞き取っていた。まるで、静寂の中の異変を探る狩人のように。
「当然だろう」
低く落ち着いた声が室内に響く。その声の主は、白銀の髪を持つ男、ヴォルフガング。
黒衣をまとい、無駄のない動作で腰の剣帯を締める。その仕草は寸分の乱れもなく、空間を鋭く切り裂いていた。
宿の質素な部屋に彼の姿は異質でさえある。まるで、戦場の気配を纏ったまま街へと降り立ったかのように。
鋭い眼光が場の空気を張り詰めさせた。
その視線は、ただ見るだけではない――
測り、試し、断じる。
静寂の中に、わずかに緊張が溶け込んでいた。
「この町は、軍と鉱業、そして政治の交差点だ」
窓辺に立つ影が、静かに言葉を落とした。
「ここで動けば、クラウベルの『目』に映る。……それが当然の構造だ」
言葉の奥に、見えぬ警戒が滲む。
ヴォルフガングは窓の外へ視線を向けた。
靄の向こう、かつての公爵家の屋敷がぼんやりと影を落としている。
今は、『預守』の居城。
過去は静かに形を変え、しかし街の心臓を支え続けていた。
「──あそこが、かつてのベールフェルト家の屋敷か」
思わず漏れた言葉は、誰に向けたものでもない。
しかしその瞬間、仲間たちの間に空気の揺れが走った。
言葉なき応答。
過去の名が持つ重みが、一瞬、部屋の温度を変える。
「懐かしいの?」
フレイヤは何気なく問う。
だが、ヴォルフガングは答えなかった。
窓の外、靄の向こうに霞む屋敷。その影が、ただ静かに視界に滲む。
沈黙は短いものではなく、まるで、言葉にできぬ何かを押し留めるかのようだった。
そのとき、階下で、宿の扉が開く音がした。
ほどなくして、足音が階段を上がってくる。重く、迷いなく、宿の主が誰かを案内しているようだった。
やがてノックの音が、部屋の扉を叩く。
「失礼します。預守様の使いの方がお越しでございます」
扉が静かに開いた。
黒ずくめの衣の男が現れる。
見た目は旅商人のようにも見える。だが、その仕草と目の鋭さは、ただの使者ではない。
腰に剣は帯びていない。それでも彼の背筋には、訓練された者だけが持つ緊張感が滲んでいた。
その目が、静かに室内を測る。
「ブラッドレイヴンの皆様に、預守様からのお招きです。正午に、屋敷へお越し願いたい。昼餉も用意されております」
使者の声は低く、静かに響いた。言葉は丁寧だが、余計な装飾はない。
そう言って、男はゆるやかに一礼する。
その動作に迷いはない。習慣として刻み込まれた礼節のように。
「その時間に行くと伝えておけ」
ヴォルフガングの返答は短く、鋭い。
男はもう一度深く頭を下げ、音もなく、足音すら残さず立ち去った。
扉が閉まる。
その音だけが、わずかに部屋の空気を揺らす。
しばし、沈黙が流れた。静かに、しかし確かに。
それはただの沈黙ではなく、戦場の前に訪れるわずかな間のようだった。
「招待ねえ……」
フレイヤが腕を組む。その声には、静かな警戒が滲んでいた。
「こんなタイミングで呼ばれるなんて、都合がよすぎる。用件は何だろうね」
シグルドが短く息を吐く。
「……我々の力量を試したいのか、あるいは別の思惑があるのか」
その声は低く、静かに場に落ちる。
「いずれにせよ、ただの挨拶では済むまい」
ルガスは、腕をわずかに動かす。
「どんなに丁寧な言葉を並べても、迎えが『使い』なら、それは命令とほとんど変わらねえ」
低く響く声。
フレイヤも、ゆっくりと頷く。
窓辺でエレーナが外を見つめていた。
「ベールフェルト家の屋敷に招かれることが、彼にとってどういう意味を持つか──私たちも考えるべきよ」
その言葉に、微かな間。
誰もが一瞬だけ、彼女の言葉に目を向けた。
ヴォルフガングは、ふたたび黙ったまま窓へ視線を向けた。
幼いころ過ごした記憶。
高い天井、白い石壁、父の厳しい背中、母の静かな声。
淡く揺れる幻影。だが、それらはとうに封じたはずのもの。
今、あの屋敷はベールフェルト家のものではない。得体の知れぬ「預守」が支配し、この地の命運を握っている。
それでも、ヴォルフガングの帰属の記憶は、なおそこに残っていた。
「……案ずるな。私情で動くつもりはない」
その声は低く、硬い決意を帯びていた。だが、言葉の奥にわずかに沈む影がある。
「だとしても、私たちはあなたとともに動いてる」
フレイヤの声は、わずかに鋭さを帯びる。
「だから、その私情の“重さ”くらいは知っておきたいのよ」
挑むような口調。だが、その裏にあるのは気遣い。
ヴォルフガングは答えない。
ただ、剣の柄にそっと手を添えた。その指先に、かすかな力がこもる。
沈黙が、瞬間だけ場に満ちる。
「午後までは時間がある。情報を整理しておこう」
シグルドの低い声が、空気を断ち切る。
場の空気は、徐々に任務へと向かっていった。
やがて仲間たちはそれぞれの装備を整え、昼の"招待"に備え始めた。
クラウベルの靄は、まだ町を包んでいる。
しかし、その向こうにかつての貴族の記憶と、新たな支配者の影が待っている。
そしてヴォルフガングの中に沈む過去も、わずかに揺らぎ始めていた。
目覚めるのか、あるいは、封じたままにするのか。
それは、まだ分からない。




