再び歩む時-1
月時計の神殿――。
かつて何者かが築き、今はただ時に削られた廃墟。
壁は裂け、天井には幾つもの穴が穿たれている。
まるで、かつて刻まれた時間の名残が、今も息づいているかのように。
だが夜空に浮かぶ満月の光が、静かに降り注いでいた。
その光は、瓦礫の隙間を縫い、砕けた石柱の影を引き伸ばす。
廃墟の静寂の中に、確かに宿る威厳。
そして、その中心にヴォルフガングは立っていた。
長身の影が、静かに夜風の中に佇む。
その白銀の髪は、月光を受け、揺らめく刃のように輝いていた。
その瞳は鋭く、迷いのない眼光が闇を貫くように煌めく。
見下ろす視線には、かつての少年の影はない。ただ、深い決意と、消せぬ哀しみが燃えていた。
一陣の風が、ヴォルフガングの黒衣をわずかに揺らす。
影のように静かに、だが確かに、そこに立っていた。
「……戻ってきたのね」
ふいに、視界の端で燃えるような赤が揺れた。
フレイヤだった。
長い赤髪が、炎のように夜風になびく。
その髪は、月光を受けて輝き――まるで彫刻のように整った顔立ちが、薄暗い神殿の中で際立って見えた。
フレイヤは、一瞬、足を止めた。
ヴォルフガングの顔にただならぬものを感じ取ったのだ。その瞳は、闇の奥に燃え続ける炎のように揺らめき、まるで時間の重みを映し出しているかのようだった。
フレイヤの視線がヴォルフガングを捉える。口元は微かに開くが、言葉は出ない。
ヴォルフガングの背に纏わりつく沈黙は、ただの静けさではない。
それは戦いの余韻。
それは過去の残響。
そして、それは揺るぎない決意の影だった。
フレイヤの唇が僅かに開く。
しかし、言葉が喉の奥で引っかかる。
何かを言おうとして、だがそれを飲み込み、代わりに口元をわずかに歪めた。
「……待ってて。みんなを呼んでくる」
その声は、静かでありながら、どこか芯の強さを持っていた。
赤髪が再び揺れ、夜風に舞う。
そして、フレイヤは神殿の外へと駆けていった。
その後ろ姿は、沈みゆく月の光の中で――
まるで、一瞬の残光のように映っていた。
それから数分後。
ルガス、シグルド、エレーナが神殿へと足を踏み入れた。
瓦礫の上に響く足音が、ゆっくりと沈黙の幕を切り裂いていく。
かつての神聖な静けさが、少しずつ現実の気配へと溶けていった。
そして最後に――
フレイヤが、ヴォルフガングの傍らへと戻ってきた。
赤い髪が微かに揺れ、月光の下で静かに輝く。
彼女の動きは、決意を秘めながらも柔らかく――
まるで、この場所の時を再び動かそうとするかのようだった。
ヴォルフガングは静かに、仲間たちを見渡す。
「……思い出したんだ」
低く、しかし明瞭な声。
「自分が、何者なのか。何を背負っているのか。そして――何が奪われたのか」
沈黙。
仲間たちは言葉なく、ただその言葉を待ち続けていた。
「俺は……今は亡きベールフェルト公爵の息子だ。」
その瞬間――
わずかにルガスの眉が動く。
だが誰も口を挟もうとはしなかった。
ヴォルフガングの瞳がわずかに鋭くなる。
この言葉を告げることが、ただの事実の提示ではなく――
ヴォルフガングの決意そのものだった。
「十数年前、帝国で何が起きたのか。真実を……見てきた」
ヴォルフガングは語り出す。
かつての帝都、クライペダでの出来事。
女帝エルフーレンの死。
父への冤罪。そして、屋敷を焼き尽くす炎。
兄・エドアルドが、自分を守り――そして、倒れたその夜。
話の終わり、ヴォルフガングの声には熱がこもっていた。
だが――
その奥には、深く静かな悲哀が滲んでいる。
「……俺は確かに、生き延びた。でも、生き残っただけじゃ足りない」
言葉がわずかに震える。
「知らなきゃならない。今、帝国がどうなっているのか……そして、この命に課された意味を」
その声は、夜風に溶けるように静かだった。
だが――その言葉には、復讐心以上に強い何かがあった。
瓦礫の隙間を抜ける冷たい風が、僅かに彼の髪を揺らす。
ヴォルフガングは、まっすぐ前を見据え――
その瞳には、迷いのない決意が燃えていた。
シグルドが静かに口を開いた。
「つまり、次はシィグルダ帝国に向かうということか?」
ヴォルフガングはわずかに息を整え――
そして、頷く。
「ああ」
ひと呼吸。
「けど……これは俺の個人的な戦いだ」
その声には、わずかに硬さが滲んでいた。
「みんなを巻き込むつもりはない。」
仲間たちは、一瞬だけ沈黙する。
だが、その空気は――
ただの同意ではなく、それぞれの胸に宿る思いの揺らぎだった。




