帝都に沈む祝福-2
そのとき――
控えていたメイドが静かに部屋へと足を踏み入れた。絹の裾が揺れる音さえも抑え込むような、慎ましき歩み。
彼女はひざまずき、銀盆を恭しく差し出す。
その上には、二つの杯と一本の赤ワイン。燭台の光を受け、深紅の液体が鈍く輝く。
「陛下」
メイドは静かに告げる。
「陛下のご健康と繁栄を祈念して、王家御用達の葡萄園から選ばれた特級ワインをご用意いたしました」
その言葉は、まるで祝福の儀式の一環のように響いた。
エルフーレンは微笑み、優雅に頷く。
「ありがとう、下がってよいわ」
その声音は柔らかく、それでいて帝位の威厳を宿している。
メイドは恭しく一礼し――
音も立てずに、静かに部屋を後にした。
残されたのは、銀盆の上の杯と赤ワイン。
深紅の滴が、帝都の運命を映すかのように揺らめいていた。
ヴェルディアは器用にワインの封を解き、ゆるやかに傾けた。
深紅の液体が流れ出し、杯の底に沈み込む。血のように深く、紅のように艶やか――それは夜の闇を映し込むかのようだった。
エルフーレンはふと、その色に僅かな違和感を覚えた。
しかし、彼女は微笑みを崩さず、それをそっと指で包み込む。
「乾杯しよう」
ヴェルディアの声は静かだった。
「お前の新たな一年と、帝国の繁栄を祝って」
エルフーレンは軽く息をつく。
「ええ。……兄上に、そして帝国に」
二人は杯を合わせる。金属同士が触れ合い、澄んだ音が密室に静かに響く。
そして――
エルフーレンは、一口をゆっくりと口に含んだ。静かに、ゆるやかに、紅の滴が舌に広がる。
その余韻の奥に――
ほんの少しの、苦みが残る。
不意に、ヴェルディアがその顔を変えた。
眉を吊り上げることもなく、口調すら穏やかなまま――
だが、そこには確かに「別人」がいた。
「なあ、エルフーレン」
その声は、先ほどまでの兄のものではない。
「お前は、帝国の未来をどう描いている?」
エルフーレンはわずかに戸惑いながら、慎重に言葉を選んだ。
「……未来? 民が平和に生きられる国をつくりたいと、いつも思っているわ」
ヴェルディアの微笑みは崩れない。
「なるほど」
赤黒い液体が杯の底に揺れる。
「それがお前の“王としての答え”か」
そして――
「だが、私は違う」
その言葉が落ちた瞬間、エルフーレンの中で何かが弾けた。胃の奥からこみ上げる痛み――灼熱が突き刺さる。
「……ぅ、ぐっ……あ……な、に……」
エルフーレンの指がわずかに痙攣し、その手にしていた杯が、甲高い音を立てて地面へと落ちた。
視界が歪む。
喉を焼く激痛が走り――
口を開くと、血とともに赤黒い液体が溢れた。
滴が石畳に落ち、祝宴の歓声とは別の音を立てる。
その瞬間――
帝都の祝福は、静かに闇へと崩れ始めた。
「な……兄、上……?」
エルフーレンの声はかすれていた。
その指が震え、かすかに宙を掴もうとする。
だが――
ヴェルディアは微笑みすら見せず、ただ静かに告げる。
「もうよい、エルフーレン」
その声音は、夜の闇よりも冷たかった。
「お前の時代は、ここで終わりだ」
その言葉は、どこまでも冷酷で、それでいて美しかった。
「帝国は変革を求めている」
蝋燭の炎がゆらめき、紅の影を床に落とす。
「平和など幻想だ。必要なのは、圧倒的な意志と力――」
ヴェルディアはゆっくりと杯を置く。
「民は、優しさよりも恐怖に従う」
エルフーレンは、震える指先でヴェルディアの腕をつかもうとした。
しかし――
その手は、空をかすめるように失われていく。
力が抜け、膝が折れる。
崩れる身体。
その紅の滴は、石畳へと落ち、静かに滲んだ。
「兄、上……どう、して……」
エルフーレンの声は、かすれ、震えながら、空へと散る。
ヴェルディアはただ、じっと見下ろしていた。その目には、哀れみはない。
「どうして? それをお前が問うか?」
ヴェルディアは静かに、言葉を紡ぐ。
「お前が皇帝である限り、私は常に“従う者”でしかない」
蝋燭の炎が揺れる。
それは、帝都が動き始めた証だった。
「それがどれほどの屈辱か……いや、お前には分からぬだろう」
ヴェルディアの指が杯の縁をゆるくなぞる。彼は背筋を伸ばしたまま、静かに息を吐いた。
「ベールフェルト公爵に罪を着せる段取りは整っている」
淡々とした言葉。
しかし、それは夜の闇とともに帝国を呑み込む策謀だった。
「お前の死を嘆く民衆の前で、私は“忠義の兄”として仇を討つ英雄となる」
ヴェルディアの唇がわずかに歪む。
「そして帝国は、私の手に落ちる」
静寂が満ちる。
炎が揺らめき、床に落ちた杯の紅い滴が――
帝国の未来の色を、鮮やかに滲ませていった。
女帝は、血に濡れた唇を震わせながら、かすかに目を見開いた。
「そんな……ものの……ために……」
エルフーレンの声はかすれ、崩れゆく意識の中でかろうじて紡がれる。
「あなたは……この国の……本当の役割を……わかっていない……」
彼女の指先がわずかに痙攣する。
だが――
ヴェルディアは、それを冷徹に断ち切る。
「黙れ、エルフーレン」
その声音は低く、静かで、それでいて決定的だった。
「お前は……もう、“皇帝”ではない」
その瞬間――
部屋の外から、歓声が響いた。
戴冠記念を祝う最後の花火が、夜空へと弾ける。
緋色の閃光が窓を染め、女帝の倒れた身体を照らし出す。
ワインに濡れた絨毯の赤と、夜空を焦がす火の花。
祝祭の華やかさと、沈みゆく命の色が奇妙な調和を描いていた。
花火の余韻が消えゆく中――
帝都の祝福は、静かに闇へと沈み始めた。
ヴェルディアは、その様子をしばし眺めたのち――
唇の端をゆるく歪める。
「さて……次は、ベールフェルトだ」
その言葉は、まるで幕が降りる予告のように静かだった。
夜は深まり、帝都クライペダの祝宴はなおも続いている。
杯が交わされ、音楽が響き、笑い声が絶えぬ華やかな光景――
しかし、その光の裏で。
「理性」という片翼を失った巨鷲は、静かに牙を研ぎ澄ましていた。
そして、その影の中で、次なる狩りが始まろうとしていた。




