月影に導かれし記憶-1
夜の庭園に、月の光が静かに降り注いでいた。銀の光は穏やかに広がり、すべての輪郭を柔らかく滲ませていく。
夜気は冷たくもなく、温かくもなく、ただ澄んでいた。風がそっと草花の間をすり抜ける。
揺れる香り――それは、ひっそりと咲く花々が夜に囁く淡い吐息。
遠くでは、葉がこすれ合う音がかすかに響く。
ひとひらの花弁が静かに宙を舞い、淡く輝く月光に溶けていった。
邸を包む静寂は深く――蝋燭の揺れる気配すら感じられるほどだ。
灯りはひそやかに脈打ち、影を長く伸ばしている。
時の流れが緩やかにほどけ、世界が静かに眠る。
この庭園に満ちているのは、ただ――夜の息遣いだけ。
ヴォルフガングは、木造のベランダの縁に腰掛け、沈んだ目で遠くの森を見つめていた。
その視線は、ただ景色を追うのではない。思考の奥へと沈み込むように、月明かりの下に影を落としていた。
隣では、兄エドアルトが無言で立ち尽くしている。その瞳は静かだが、その中には何かを測るような鋭さがあった。
卓に座り、指を組むベールフェルト公爵。その額には深く刻まれた皺があり、月光がその陰影を際立たせる。
彼は語らずとも、沈黙の奥に思考を潜ませている――
そして、それはまるで、この夜の静寂に溶け込むかのようだった。
ようやく、その静寂を破るようにして、公爵が口を開いた。
「お前は……あの日のことを、どこまで覚えている?」
低く響く声。それは問いであると同時に、彼自身の確認でもあるようだった。
ヴォルフガングは、目を細めた。
「あの日……?」
その瞬間、空気が僅かに冷える。
「帝都が焼けた、あの夜だ」
父の言葉が、鋭く空間に落ちた。
胸の奥がざわめく。
記憶の奥底に沈んでいたはずの光景が、影のように揺らめき始める。
何年も何十回も夢に見た夜。
だが、思い出せるのは断片ばかり――曖昧で、不完全な記憶。
夜空が赤く染まっていた。
誰かが叫んでいた。
鉄の匂い。血の匂い。
兄の腕に抱かれ、必死に走ったこと。
遠くで――
父の声が響いていた。
それは届かぬ声だった。
「……断片的に。燃える屋敷。剣戟。逃げる途中、兄上が……血を流していた」
胸の奥が痛む。
「俺は、何もできなかった」
悔しさが、喉の奥を締めつけるように蘇る。
それは遠い過去のはずなのに――
焼け付くような痛みだけが、鮮明だった。
公爵は静かに椅子から立ち上がった。その動きには、迷いはなかった。
卓上に組まれた指をほどき、背筋を伸ばしながら、ゆっくりと語り出す。
「お前が七歳の年だった」
低く、深く響く声。
「夜半すぎ、突然、帝都の南門からヴェルディア四世の私兵団が侵攻してきた」
言葉の端に、遠い記憶の冷たさが滲んでいる。
「彼は女帝エルフーレン陛下の兄であり、表向きは陛下に従順だった――だが、それは欺瞞に過ぎなかった」
公爵の瞳がわずかに細められる。
「裏では忠実な兵を抱え、陰謀を巡らせていたのだ」
その名を聞いた瞬間、ヴォルフガングは微かに眉をひそめた。
ヴェルディア四世。
建国王の血を継ぐ由緒正しき血筋――
だが、帝国にとっては“決して玉座に就いてはならぬ男”。
冷酷な策謀家。
その名には、帝国の歴史に刻まれた不吉な響きがある。
「火を放たれたのは、我が公爵邸の南棟からだった」
父は静かに語る。
しかし、その声の奥には、燃え盛る夜の記憶が潜んでいた。
「私はただちに執務室から飛び出し、お前とエドアルトのいる寝室へ向かった。……すでに外には兵がいた」
そこで見たのは――
帝国軍の制服ではない。獣の紋章を刻んだ私兵だった。
「……帝国軍ではなく、個人の傭兵……?」
ヴォルフガングの声が低く響く。
公爵は頷く。
「そうだ。女帝の知らぬところで動いたに違いない」
確かな断言。
ヴォルフガングは拳を握りしめた。
この夜、自分たちを襲ったのは“国家”ではなかった。
それは、ただの個人的な権力欲による暴走だったとしたら――。
血に染まった夜の真実が、わずかにその輪郭を見せ始める。
「私は、エドアルトにお前を託し、地下通路を通じて西の林へ逃がした」
公爵の声は低く、しかし揺るぎない。
「私は残り、屋敷の兵たちと共に時間を稼いだ」
言葉に滲むのは、過去の決断の重み。
「……あの時点で、私はすでに“この家系が帝都から消える”覚悟があった」
月光がわずかに揺れる。重い沈黙が流れた。
ヴォルフガングは、父の瞳を見つめる。冷徹で非情な男――そう思っていた。
だが、あの日。
彼は逃げ遅れたのではなく、自ら残ったのだ。
それは、幼き自分が知らなかった“父としての選択”だった。




