かくして魔王は追放されり
それは即位から7日目のことであった。
魔族の国オルレウス魔王国の新たな魔王アルトワルス・デ・オルレウスの即位を祝う祝宴の最中、当のアルトワルスは華やかな雰囲気に疲れ、玉座に座って休んでいた。
まだ青年と言った風貌のアルトワルスは、濃紺の髪を軽くかき上げながら、金色の瞳でグラスに入ったワインを眺める。
先代の魔王――アルトワルスの父は、病で床に臥せっている。
既に先は長くないと感じ、まだ意識のあるうちに、4人いる子どものうち、アルトワルスに王位を譲ったのだ。
アルトワルスは、約2年間国を離れて放浪し、つい1か月前に帰って来たばかりであった。
自由気ままに、何にも縛られることのなかった生活から、これから魔王として国を統治しなければならない生活へと変わることに、アルトワルスはただ憂鬱であった。
その心情を表には出さず、胸の内でため息をつき、魔王の証である紋章の留め具が付いたマントを邪魔くさそうに払いながら、アルトワルスはワインを一口飲む。
と、アルトワルスの下に侍従が1人静かに歩み寄り、周囲には聞こえないように耳元に顔を寄せた。
「先代様がお呼びです。至急お越しください」
アルトワルスは微塵も表情を変えず、サイドテーブルに飲み欠けのワイングラスを置くと、無言のまま席を立った。
大きな両開きの扉を開けて室内に入ると、天蓋付きのベッドに前魔王――ベイルワルス・デ・オルレウスが横たわり、ベッドの周りを10人程が囲んでいた。
アルトワルスがベッドに近付いて行くと、ドレスを纏い、すみれ色の髪をオールバックにした女性がアルトワルスに歩み寄る。その女性は、ベイルワルスの2番目の妻で、アルトワルスの継母であるエーデル。
ベイルワルスの最初の妻――正室であるアルトワルスの母が亡くなった後は、エーデルがベイルワルスを支えてきた。
エーデルは、静かにアルトワルスに告げた。
「魔力が微弱になっています。もう時間がありません。真摯にお言葉に耳を傾けてください」
アルトワルスは立ち止まり、目を細めてベッドの上に横たわる父の姿を眺めた。
「アルトワルスか……」
ベイルワルスがアルトワルスに気付き、弱々しく眼を開けた。
「父上、無理をしないでください」
アルトワルスはそう言いながら、起き上がろうとするベイルワルスに近寄った。
ベイルワルスはアルトワルスの手を握ると、振り絞るようにアルトワルスに語り掛ける。
「アルトワルス、聞け。父の最期の頼みだ」
「何でしょうか」
アルトワルスが聞くと、ベイルワルスの口から思いもかけない言葉が出た。
「王位を……ザレスに譲ってくれ……」
「……今、何と?」
さしものアルトワルスも驚きを隠せない。
ザレスはアルトワルスの腹違いの弟。ベイルワルスの言葉を俯きながら聞いているエーデルの子である。
「……ザレスに王位を……一体、何故ですか?」
死の淵に立つベイルワルスに長く言葉を発せさせるのは酷ではあるが、アルトワルスは問わざるを得なかった。
「かつて、私は……エーデルに命を救われた」
アルトワルスが横目でチラリとエーデルを見た。
エーデルは表情を変えずに床を見ている。
今から20年近く前、ベイルワルスがエーデルに命を救われたという話は聞いたことがあった。それが何の関係があるのか。
ベイルワルスは続ける。
「……そのとき、私は恩人であるエーデルに対し、その礼として、妻として迎えることを約するとともに、ある『契約』をしたのだ」
「『契約』……?」
ベルトワルスの言う「契約」は、魔族が交わす「魂に刻む契約」のこと。ただの口約束など、魔族にとっては守るも破るも自由。守らなければならないという倫理観はない。だが、魂に刻む契約は死を賭して守らなければならない契り。魂に刻む契約を破る者は、親子兄弟までも誹りを受ける。
「それは、どのような『契約』ですか?」
アルトワルスは何の淀みもなくベイルワルスに聞いた。
「……どんなことでも1つ……エーデルの望みを、叶えること」
ベイルワルスの口から出た言葉で、アルトワルスは全てを理解した。
アルトワルスは父の手を握りながら、何故か父の姿が自分から離れていくように感じた。
ベイルワルスは息も絶え絶え続ける。
「……そして、先ほどエーデルから告げられた望みは、ザレスをこのオルレウス魔王国の魔王とすること……」
ベイルワルスは死の淵に立つ者とは思えないような力でアルトワルスの手を握り返した。
「アルトワルス、我が息子よ、どうか父の名誉……を……」
そう言って、ベイルワルスは息を引き取った。
「……世界にその名を轟かせたベイルワルスも、老いてはただの魔人……か」
アルトワルスはそう呟きながら、ベイルワルスの手を自身の手から離し、静かにベイルワルスの動かぬ胸元に置いた。
そして、立ち上がりつつエーデルを見た。
エーデルの顔にハラリと前髪が落ち、図ったようにエーデルに哀愁を漂わせる。エーデルは取り繕ったような悲嘆の表情を浮かべながら口を開いた。
「さあ、アルトワルス、ご決断を」
エーデルは凛とした声でアルトワルスに向かって言ったが、内心はアルトワルスに微かな畏れを感じていた。
アルトワルスの眼もとには、何故か憐れむような笑みが浮かんでいた。
エーデルには、アルトワルスの胸の内が図れなかった。
「アルトワルス様、どうかベイルワルス様の名誉をお守りくださいっ」
エーデルの後ろで声を上げたのは蛙のように離れた眼と大きな口の男。腹は大きく膨れ上がり、燕尾服が窮屈そうだ。その横には頭巾を被り、ローブを纏った人物。頭巾の下に見える顔は髑髏のマスク。
「ゲイルードとキメリアか……くく、軍団長が2人もいたか」
アルトワルスは嘲るように笑った。
蛙のような男――ゲイル―ドと、髑髏マスクの男――キメリアは、オルレウス魔王国の最高戦力である軍団長である。8人の軍団長のうち、2人がこの場に居て、おそらくアルトワルスの退位を求めている。
アルトワルスが笑みを浮かべるのを止めて一考していると、エーデルが畳みかけるように口を開いた。
「2年間、あなたが国を離れ放蕩していたその間、ザレスはそれこそ寝る間も惜しんで研鑽を詰み、魔王ベイルワルスを補佐してきました。誰が次期魔王に相応しいでしょうか。誰がオルレウス魔王国を栄えある未来へと導けるでしょうか」
アルトワルスは笑いを堪えていた。
国を思ってのことと言いたいようだが、実の子であるザレスを魔王にしたいというのが当然の親心。むしろはっきりとそう言ってくれた方が魔族らしいというもの。見え見えのごまかしは、アルトワルスには至極滑稽に感じられた。
「ふ……良いだろう」
アルトワルスは承諾した。父ベイルワルスの最期の願いを受け入れた。
既に王位はアルトワルスが継いでおり、前魔王であるベイルワルスの言葉に従う必要などなかったが、国を治めた者が魂の誓いを破ったとの風評は体裁が悪い。
そして、少なくとも軍団長の2人がアルトワルスの王位に反対している。
オルレウス魔王国の政は、魔王の政策を8人の軍団長に諮り、軍団長の意見を参考にして実施する。軍団長の意見に従わなければならないという決まりはないが、軍団長の賛同が得られなければ、政策が上手くいかないこともある。
「望まれぬ魔王では国は治まらん。エーデルの言うとおりだ」
アルトワルスの口からエーデルの欲しかった言葉が飛び出し、エーデルの顔から悲嘆が失せた。
「では、今このときより、オルレウス魔王国の魔王はザレスとなった。アルトワルス、あなたには――」
「この国から出て行こう」
エーデルが言う前に、アルトワルスが自ら宣言した。
ニヤリと笑うエーデルとゲイルード、そしてキメリアを除き、室内にいた者たちは騒然とした。
「アルトワルス様、何も出て行かずとも……」
近くに控えていた年配の侍従が、おそるおそる引き留める。だが、
「俺が国に残ってはザレスもやりにくかろう。それに、余計な火種にならんとも限らん。国を思うなら、俺はこの国から姿を消すべき、そうであろう」
と、アルトワルスがエーデルを見ると、エーデルは笑みを浮かべながら頷いた。
アルトワルスは、魔王の証たる紋章の留め具のついたマントを無造作に身体から剝ぎ取って使用人に投げ渡し、部屋から出ようとすると、
「お待ちください」
とエーデルが呼び止めた。
「まだ、何かあるのか?」
アルトワルスがエーデルを振り向くと、エーデルは部屋の隅にいた杖を持った老人を呼び寄せた。
「このままあなたを野に放てば、いつ牙をむくとも限らない。不安要素は取り除かせていただきましょう」
「なるほど……用意の良いことだな、好きにするが良い」
アルトワルスが自然体で老人と対峙すると、老人はブツブツと呪文を唱え始めた。すると、アルトワルスの身体を拘束するように幾重もの魔法陣が浮かび上がる。
が、老人がしばらく呪文を唱え続けても 魔法陣には何も変化がない。
「どうした? 早くしてくれ。俺は早くこの国から出た方が良いのだろう?」
アルトワルスは涼し気な顔で言った。
「何をしているの? 早くその男の力を封印なさい!」
エーデルが老人をしかりつけるが、老人は汗を流しながら、
「も、申し訳ありませぬ……私の力だけでは、無理でございます!」
と叫んだ。
「ハハ……貴様の力で不足なら……おい、ゲイルード、キメリア、お前たちも手伝ってやれ」
アルトワルスがそう言うと、ゲイルードは眉間に皺を寄せながらキメリアと一度顔を見合わせ、それから2人は老人と3人でアルトワルスを囲むように立って同じように呪文を唱え始めた。
すると、しばらくしてから、ゆっくりとアルトワルスの身体を包む魔法陣が収縮し、ついにアルトワルスの身体へと吸い込まれた。
老人とともに汗をかき、肩で息をするゲイルードとキメリアとは反対に、アルトワルスは変わらずに涼し気な表情のまま、力を確認するように片手を握ったり開いたりしてから、
「では、俺は行くぞ。オルレウスに繁栄のあらんことを」
と言い残し、部屋を出て行った。
「最後まで生意気な男。だが、力を封印することはできた」
エーデルはそう言いながら懐から扇子を取り出して仰ぎ始めた。
「ええ……これで奴の力は10分の1程になりました」
ゲイルードが額の汗をハンカチで拭いながらアルトワルスの出て行った部屋の入り口を見ながら言うと、
「そう……上出来です」
とエーデルは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「さあ、ザレスの魔王即位の準備をしなさい。今やってる式典なんかよりもずっと立派な式典にするのですよ」
ついに愛息子が魔王となる。自分の望みが叶うことに、エーデルの心は狂おしいほどに躍っていた。
城の正面からは出て行けない。もちろん来賓が多数いる客間や応接室の近くも通ることができない。
アルトワルスが人前に出ることで混乱が生じることは容易に想像できるため、エーデルの指示でアルトワルスは人気のない廊下を通って裏口から城から出ようとしていた。
「兄さん!」
ふとアルトワルスを呼び止める声。
「ザレス……」
振り向くと新たな魔王であり、アルトワルスの腹違いの弟ザレスが駆け寄って来た。
エーデルと同じすみれ色のくせっ毛を揺らし、アルトワルスと同じ金色の瞳に、困惑の光を浮かべている。
「兄さん、考え直してください」
ザレスは、アルトワルスが退位することを良しとは考えてはいなかった。
「ザレス……だが、父上の名誉のため、そして、何よりお前の母の希望だ。それに、軍団長も賛同している」
「しかし、この国を治めるべきは私ではなく兄さんです。皆、兄さんがいなかった2年間で私が兄さんを超えたといいますが、私には理解しかねます。兄さんはこの2年間で――」
アルトワルスはザレスに手の平を向けて言葉を遮った。
「力ではない、姿勢だ。俺よりもお前の方が国を治めるに相応しいと、お前が父の補佐をする姿勢が皆にそう思わせたのだ。そして、この俺もお前ならば立派に国を治めることができると思っている」
「兄さん……」
ザレスの眼から涙が一粒零れた。
「私は、いつか兄さんが戻ってくることを待っています。それまで玉座には魔王の証たるマントを掛け、私はそこには座りません」
「フ……好きにしろ」
アルトワルスは静かに笑いながら、ザレスの肩を叩いた。
「では、ザレス達者でな」
「兄さん、いつかまた、お会いできるときを……っ」
ザレスはアルトワルスが廊下の角を曲がり、姿が見えなくなった後も、その場から動かずアルトワルスを思い続けた。
かくして、アルトワルスはわずか7日で王位に幕を閉じるとともに、国外へと追放された。
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