追放魔王はどこにいる?
魔法の存在する世界
神がこの世界を創生してから1万年、その間、絶えることなく人間と魔族は争い続けてきた。
あるとき、世界中がある話題で持ちきりとなった。
人間や魔族はもちろん、この世界に住む数多の種族の間で、老若男女、性の区別のない者全てがその話題を口にした。
――魔族の国、オルレウス魔王国の魔王が、弟に魔王の地位を奪われ国を追放された。
先代の魔王からその地位を継いで、わずか7日後のことであった。
追放されし魔王は、果たしていずこに向かうのか。
ある者は恐れ、ある者は歓喜し、ある者は期待しながら、追放された魔王の行く末に注目していた。
人間の国スペリアム王国。
人間が治める国の中で、最も広い領土を有する大国である。
スペリアム王国は、その広域さから領土を6つに分け、首都がある領土以外は領主と呼ばれる一族が国王に代わって治めていた。
そのうちの1つ、スペリアム王国の南東に位置するバルト領。ここは、スペリアム王家の傍系に当たるバルト家が代々治めている地域であった。
スペリアム王国のある大陸の東側は魔族の領域であり、バルト領は魔族の領域と接していたが、バルト領最大にして領主の住まう街ベルディは、魔族の領域との領界から数百キロメートル離れているため、そうそう魔族が現れることがなく平和な街であった。
ベルディの街の北側は丘陵地となっており、そこに領主の威厳を示すかのような巨大な石造りの城が厳かに鎮座していた。
丘陵地は木々が生い茂り、城に向かう者は、木々に囲まれた緑のトンネルの中の石畳が敷き詰められたつづら坂を10分程登る。つづら坂は、小鳥の声や夏にはセミの鳴き声も聞こえ、森の中の小道のような穏やかさがあるが、ふと見上げれば木々の隙間から城を囲む天を衝くような城壁が見え、登城者を威圧する。
そして、坂を上りきると、ようやく数十メートル先に巨大な正門が見え、正門まで続く石畳の両側にはそれぞれ2階建ての大きな建物があり、その左側の建物は下級官吏の庁舎で、バルト領の市民の戸籍や土地、建物などの管理のほか、様々な許認可や助成、福祉的な支援などを行う、いわゆる役所であった。
その1階にある、窓口を構えたとある部署。
4つの机が1つの島となって配置されており、その島を正面に捉え窓を背に配置された5つ目の机では、窓から射す紅い夕の光を背に、恰幅の良い白髪交じりの天然パーマの男が居眠りをしていた。
その男が居眠りをするのは日常の光景であるようで、その部署の職員たちは、男の居眠りを気にする様子なく、それぞれの机に向かって座っている。
居眠りをしている男から見て左側の手前の机には、橙色のボサボサの髪の20代後半の男。支給品と思われる制服の前を開け、シャツの裾をズボンから出し、だらしない恰好で、脚を組みながら新聞を広げて読んでいる。
その正面――居眠りをしている男から見て右側手前の机には、黒髪を七三分けにした目の細い生真面目そうな体格の良い男。身長は190センチメートルくらいあるだろうか。机に向かって黙々と仕事をしている。
その左隣は若い20代前半の女性。丸い大きな眼鏡を掛け、紅い髪をお下げにし、支給品の制服に無理やり収めた豊満な胸を机に乗せて、まだ新しいラメの乗ったネイルを眺めている。
そして、その正面には黒縁眼鏡をかけた濃紺の髪の20歳くらいの青年。机の上の白い書類を眼鏡の奥の黄土色の瞳で真剣に見つめながら、書類にペンを走らせている。
と、その青年の左隣に座るだらしない恰好の男――トリアーレが、思い出したように口を開いた。
「……そういや、噂の『追放魔王』、バルト領内で見たって奴がいるらしいぜ」
斜め向かいの女性――エマが、ネイルからトリアーレに視線を移した。
「噂が立ってからもう2か月だっけ? この辺に来ててもおかしくないわね」
「ベルディには来んなよな、対応が面倒くせえ」
「実際に対応するのは騎士の皆さんでしょう? それに、元・魔王様が窓口に来たところで、あんたは対応しないくせに」
「ははっ、そうだな、魔王が来たら対応頼むぜ、アルト」
トリアーレに声を掛けられた眼鏡の青年――アルトは、書類から目を離しトリアーレを見た。
「は、はあ……」
何とも気のない返事。聞こえていたのかいなかったのか。
トリアーレは、詰まらなそうにアルトの椅子を軽く蹴った。
「お前なあ、もう少しシャキッとしろよ、仕事も遅いし、任期付きの臨時職員だってこと忘れてんじゃねえだろうな。そんなんだと、更新されねえぞ」
「す、すいません」
アルトが困った顔をすると、エマが助け船を出した。
「アルトはまだ1か月ちょっとなんだから仕事が遅いのは仕方ないでしょ。それに、ミスは少ないし、仕事を覚えれば早くなるわよ、ね?」
「は、はい、頑張ります」
エマに励まされ、アルトは少し笑って返事をした。
面白くないのはトリアーレ。
「まあ、せいぜい気を付けようぜ、追放魔王がもう街に入って来てるかも知れねえからな」
と、意地の悪い笑顔で脅すようにアルトに向かって言った。
「そうですね……でも、魔王がどんな奴か分からないと気を付けようがないですよ」
アルトが困ったように返すと、トリアーレは記憶を掘り起こすように天井を見た。
「あー……確か、『月夜の空の如き髪と金色に輝く瞳』、だったか?」
「へえ、なかなかロマンティックねえ、ちょっと見てみたいかも」
エマがうっとりとした表情で虚空を見つめた。
と、そのとき、庁舎の外で金属音とともに足音が鳴り響く。
トリアーレとエマが居眠りする男を余所にその背後の窓際に駆け寄った。ここまで会話に加わらず1人黙々と事務作業をしていた体格の良い男――カボスも思わず窓を向く。
「騎士ですか?」
カボスが聞くと、トリアーレが頷く。
「ああ、5、6、7……8人が街に下りてく。まさか、本当に魔王が来たわけじゃねえよな? ハハッ」
トリアーレが事件を予感し、楽しそうにしていると、庁舎内に朗らかなチャイムが鳴り響いた。午後5時半――就業時間終了の合図である。
「んあ……?」
ずっと居眠りをしていた男――課長のレイモンドが、目を開けた。そして、涎を拭ってから腕を上げて身体を伸ばし、
「ん……ああ、今日も良く働いたな、さあ帰るか」
と言うと、手についた涎を大きな腹を包む制服で拭いながら立ち上がり、
「お先、皆も早く帰りなよ」
とトリアーレら4人を置いて帰ってしまった。
「あの親父、寝てばっかりの癖に、何が『働いた』だ……ふん、俺らも帰ろうぜ」
トリアーレが吐き捨てるように言った。
陽が沈みかけ、西の山々に紅い空が吸い込まれていく中、下級官吏のアルトは、大きなショルダーバックを肩から下げて繁華街を歩いていた。
アルトの家は、下級官吏の庁舎から歩いて40分ほどの、ベルディの街の西の外れの小高い丘の上にあった。
アルトは1か月と少し前にベルディに移住してきた。静かな場所と、広い家を希望し、家賃の額との折り合いがつく家を探したところ、今の家が見つかった。職場まで徒歩で40分以上かかるのは天気の悪い日などは気が滅入ることもあるが、この家以上に自分の希望条件に合致する家はないし、新しい街を歩くこと自体が楽しかったこともあり、アルトはこの家に非常に満足していた。
今歩いている繁華街を抜けると住宅街となり、そこから15分ほどでアルトの家が見える。
と、香ばしい香りを纏った肉の焼ける匂いが鼻に触れた。アルトの腹が物欲しそうに唸る。
ふと見ると、その匂いはドアが開け放された食堂から漂っていた。
アルトは、唾を飲み込みながら引き寄せられるように食堂に向かって歩いて行き、中に一歩踏み入れるや、違和感に脚を止めた。
店内は、カウンターのほか、広いスペースに10個ほどのテーブル席がある。が、カウンターには誰も座らず、テーブル席は、まるでカウンター席から距離を取るようにカウンター席から離れたところばかりが埋まっていた。
アルトは不思議に思いながらも、1人でテーブル席に座るのは気が退けるので、カウンター席に向かって歩いて行くと、カウンター席の1つに、食事の乗った皿とビールが半分残ったジョッキが置いてあることに気付き、アルトはその席から右に1つ開け、足元にショルダーバックを置いて椅子に座った。
すると、背後のテーブル席が微かにざわめいた。
アルトは中指で眼鏡の位置を直しつつ一度背後を見回してから、再び誰もいない左の席を眺めた。
皿の上の料理はまだ湯気を立ち登らせている。注文した客はトイレにでも行っているのだろうか。
と、アルトが考えていると、
「ご注文は?」
カウンター越しに、小太りの中年の女性店員がアルトに声を掛けた。
心なしか、誰も座っていない、食器の残った席を気にしているように見える。
「あ、ランページ・ボアのソテーのセットでお願いします」
「パンは焼く?」
「はい、お願いします」
店員がカウンターの奥の厨房に引っ込むと、アルトはショルダーバックから1冊の本を取り出して読み始めた。
背中に他の客の視線を感じながら、アルトが本のページを1枚めくった直後、左の席の客が戻って来た気配を感じ、一体どのような人物であろうかとアルトはチラリと左を向いた。
アルトが視線を向けたのとほとんど同時であった。
「よう、あんた、この街の人かい?」
その客がアルトに声を掛けてきた。
「え、ええ……」
アルトは虚を突かれたように返事をし、中指で眼鏡を上げながらその客の風貌を観察した。
闇のように黒い髪の男。金色に輝く瞳でアルトを真っ直ぐ見ている。年齢はアルトと同じくらいであろうか。旅装であるが、身なりはよく、高い階級の人間であることがうかがわれた。
「そうか良かった、実は俺、この街が初めてでさ」
背後の客たちが、その男とアルトの会話に耳を傾けているのがアルトにも伝わって来たが、アルトはそのことを億面にも出さずに男と会話を始めた。
「そう……ですか、どちらから?」
「東の方さ」
「東……というと、まさか魔王国……」
アルトが言うと、店内が静かにざわめいた。
が、男は無邪気に笑い、
「ははは、そう言えば、自己紹介がまだだったな、俺の名前はオレスだ、あんたは?」
と不自然に話題を変えた。
アルトは、オレスと名乗る男を訝しみながらも名前を名乗る。
「自分ですか? 自分は……アルト、と言います」
「アルト……アルトね」
オレスは少しの間、アルトの名前を口の中で繰り返しながら何かを考えていたが、再び気さくな様子に戻った。
「それはそうと、さっきも言ったとおり、俺はこの街が初めてで、ついさっき着いたばかりなんだが、どこか安くて良い宿はないか?」
「宿ですか? そうですね、旅人向けとなると、この近くなら黒猫亭か、ヨシヤスの宿当たりですかね」
「へえ、あんた詳しそうだな、後で案内してくれよ」
「え、はあ……良いですけど……」
「はは、あんた、いや、アルトは良い奴だな、すまない、助かる」
そう言って嬉しそうに笑うオレスの背後、店の入口の外に、オレスを監視するように2人の男が立っていることにアルトは気付いた。
その2人の着ているものは、騎士の制服。店の外から身を隠しながらオレスを観察しており、アルト以外はその2人に気付いていないようだ。
アルトが、ただならぬ事態を感じていると、
「はい、お待ちどう」
と女性店員が厚めの肉に玉ねぎを刻んだ香ばしいソースの掛かったランページ・ボアのソテーと、小さな器のサラダ、琥珀色のスープ、そして焼き目のついたバケット2切れを運んで来てアルトの前に置いた。
「ありがとうございます」
アルトは手に持ったままであった本を閉じて脇に置くと、湯気で眼鏡を曇らせながら、まずはバケットを一口サイズにちぎって口に入れ、目の前の料理に手を付けた。
オレスは、アルトが料理を食べ始めたあたりで自分の頼んだ料理を食べ終え、アルトにとりとめのない話を振りながら、ビールをもう1杯注文しつつ、アルトが食べ終わるのを待ち、アルトが食べ終わると、しわくちゃの紙幣で2人分の代金を支払った。
「そんな悪いですよ」
アルトが申し訳なさそうな顔をしたが、オレスは、
「構わない、案内料だと思ってくれ」
と笑って店から出た。
アルトが店の店員や客の視線を感じながらオレスの後に続いて店を出ると、オレスを監視していた二人の騎士はどこかに移動したのか、いなくなっていた。
「とりあえず黒猫亭に行きましょうか。こっちです」
今度はアルトが先に立って、オレスを案内して歩き始めた。