『カフェテリアの恭順』
嗜好品と風景。
とある大学構内、昼下がりのカフェテリア。
先輩と後輩の、短い会話。
あるいは、『耽溺ちゃんと退廃くん』♯3.5
登場人物
■恵樹
「道 恵樹」。大学4回生。
本の虫。憧れられがち。
出典:BAR「猫町」/『ブラック・ウォッチのみぞ知る』、他
■君子
「保科 君子」。大学2回生。
外面は良い方。
出典:『耽溺ちゃんと退廃くん』、他
―黎和3年12月某日―
―嗜好品と風景。
―とある大学構内、カフェテリア。
―白い、まだ新しいテーブルに腰掛けて、一人の女性は本を読み、もう一方、後輩である女性の前には、カップ&ソーサー。
―陽射しは緩やかである。
君子:
道先輩は、本当に本がお好きなんですね。
恵樹:
…………今更に過ぎる問いだと、思うけれど。
君子:
問いというより、感想を口にしただけ、なのですが。
こうして、珍しく陽射しが暖かい日のカフェテリアでも、中世絵画のように本を読んでいらっしゃいますから。
恵樹:
比較的オーソドックスな、時間とロケーションの活用法だと思うけど。
君子:
且つ、オーセンティックだと思います。
それだけに、様になる方はとても少ないですね。
恵樹:
……貴女って。
存外、直截的に物を言うわね。
君子:
実はそうなんです。隠していますが。
―ふふ、と淡く笑み。
―ペラ、と頁の捲られ。
恵樹:
……本が好き、と言われると、少ししっくり来ないの。
生活に染み込んだ、謂わばルーティン。
習慣、と言い換えても、
君子:
活字中毒、という奴でしょうか、世に言う。
恵樹:
……あまり好きな言葉では無いけれど。現象としては当て嵌まるわね。
君子:
お邪魔してすみません。
恵樹:
いえ。
もう読み終わる、というか、読み終わった事を確認しているだけだから。
君子:
確認?
恵樹:
読み落としや、読解に齟齬が無いかどうか。頭を更にして、突き合わせを行うの。
ある意味機械的な作業だから、初読の時のような感心や没頭は必要無い。
君子:
なるほど……、そういった工程を。
恵樹:
琴線に触れた本ほど、ね。
感動が、誤読や勘違いの産物であっては悲しいから。
君子:
そのままにしておいた方が、幸せという場合もあるかもしれませんね。
恵樹:
……私の価値観に於いては、そのようには表現しないわね。
―眼鏡の奥の光が、僅か細められ。
恵樹:
出会いという物は、禍福を等しく授けてくれる。
期待をして、希求をして、その果てに落胆や、失望があったとしても。
それらもまた……、経験が与え給うた果実の1つだ、と。
思えば、
…………、
―刹那言い淀む。頁を捲る手は淑やかである。
君子:
思えば?
恵樹:
……気が紛れる、わね。
君子:
何かありましたか。
恵樹:
……、何も。
私には何も無く。そして当然の帰結として何も無い、というのが。
私の目下の問題なのだから。
君子:
禅問答、或いは落語の無理問答のような。
恵樹:
思わせぶりに話しているだけ。
……存分に気にしてくれて良いのよ。どうせ、墓場まで持っていくつもりだから。
君子:
うふ、ふ。「魅力とは即ち謎である」、とはよく言ったものですが。
その意味で道先輩は、非常に魅力的な方ですね。
恵樹:
誰の言葉?
君子:
作りました。今。
恵樹:
…………。
道理で聞いた事が無いと思った。
―ぺらり、と頁。
恵樹:
謎というか。
秘密なんて、誰もが持っている物だものね。
君子:
…………、ええ。
恵樹:
貴女にだって、このカフェテリアに座っている、誰にだって。
人に言わずにおくと決めている事の、一つや二つ。
君子:
勿論。
或いは……、百や、千ほど抱えている人も、
恵樹:
当然、居るでしょう。
貴女や私のように、古い、大きな、抱える物の多い家に生まれた人間ならば尚更、ね。
君子:
ウチなどは。成り上がりですから。
恵樹:
そうであるなら、そうであるなりに。
秘密主義は癖のようなものね。
君子:
ありのままでは生きて行けませんから、ね。
恵樹:
自分だけが、……若しくは極近しいと思える他人とだけ、共有する秘密を持つ事で……、
私たちは均衡を保とうとしている。
君子:
……ええ。
本当にそう、です。
ある意味、単純な、反抗ですね。
恵樹:
否応なく押し付けられる、価値や、規範や、記号に対しての、ね。
いじらしくも涙ぐましい。
子供が秘密基地を作ったり、自分だけの宝物を、机の裏に隠しておくようなもの。
君子:
……、……。
―頁が捲られ、後輩はス、と茶を含む。
君子:
でも……、
道先輩をして、「自分には何も無い」、だなんて言われてしまうと。
もんどり打つしか無い人たちも、多いかもしれませんね。
恵樹:
どうしてかしら。
君子:
学業に於いても、またその、容貌に於かれても……、類稀なるものをお持ちですし。
皆さん、見ていらっしゃいますね。それとなく、チラチラと。
―目線だけを、周囲に巡らせ。
恵樹:
特に嬉しく思っていないわね。不遜にして。
君子:
ええ。存じ上げています。
恵樹:
それと、半分ほどは……、貴女を見ているんだと、思うけど。
君子:
いえ、私などは。
……ともあれ、道先輩は。
我が恩行大学の誇る、古書研究会の姫、ですから。
恵樹:
それ、……、
端的に言って、物凄く不本意、というか。
嫌、なんだけど。
君子:
うふふ、ふ。
そうでしょうとも、本当に。ええ。
恵樹:
およそ謂われて嬉しい類のあだ名では無いわね。
貴女の「聖女」も、大概だけど。
君子:
どう考えても恥ずかし過ぎますから、ね。実態に則していませんし。
恵樹:
貴女の実態を、私は知らないから何とも言い難いけれど……、
そもそも、人の実態や実像なんて、他者が容易に捉えられるような物ではないものね。
君子:
だからこそ、イメージやレッテルや、認識が簡単なタグを何種類も紐付けして、どうにか既知の物として捉え得るよう、対象を、己の認識もろとも編纂する。
古来より人はそうして、目の前の世界に「カタをつけて」来た、と。
面迫教授の講義を聞いて、私はなるほどと思いました。
恵樹:
元来、ヒトという動物の認知はそのようにして成り立っている訳だものね。
君子:
利害と二元論とを軸として、眼前の汎ゆる事物を、白と黒とに弁別する。
そうでもしなければ、
恵樹:
この星の自然は余りに大きく、広く、茫漠とし過ぎていて。
私達の脆弱な脳髄では、ありのままを受け入れては生きて行けない。
君子:
人間は言語によって思考し、そして言語とは記号、信号……、
好悪の二分化を繰り返す事で高度に体系立てられた、条件反射の連なりである、とするなら、
恵樹:
パブロフの犬ね。
私もあの論には大いに、共感を持っている。
君子:
そうで、あるなら。
実態に則さないレッテルや、不本意なタグ付け。
外面をして、その人の本質として扱われるという事も。
避けられない宿命、という事でしょうか。
恵樹:
ええ。全く以て、その通りだと思うわね。
……従って、
―パタリ、と本が閉じられる。
恵樹:
秘密を持つ事もまた、宿命という事。
君子:
人類の?
恵樹:
そう。
……あるいは、己の内にあるという、自分だけが捉え得る自我や実存といった概念の方こそが。
活字によって与えられた、お仕着せの妄想なのかもしれないけれど。
君子:
活字によって、ですか。
恵樹:
ええ。
言語と言い換えても良いけれど。
活版印刷が発明されて、多くの人々が文字を読み、「物語」というモノに触れられるようになるまでは……、
己以外の他者に、自我や、思考や、今日人格と呼ばれているような物が存在すると、想定出来る人間の方が稀であったと言うし。
君子:
それで、社会や共同体が成り立つものでしょうか、
恵樹:
今の私達には想像もつかないわね。
けれど元来、本当はそれでも問題無いのかもしれない。
君子:
自我や内面なんて、無くても?
恵樹:
少なくとも。
秘密を抱える事でバランスを取ったりする必要は、無くなるかしら、ね。
君子:
…………。
考えて行くと深みに嵌りそうですね。
恵樹:
ここから先は、余暇に興じる問答では無いわね。
休めなくてはいけないわ。
私達の、なけなしの脳髄を。
君子:
うふふ、ふ。
……確認作業は、お済みになったんですか。
恵樹:
ええ。
概ね……、致命的な読み違えをしては、いなかったみたいね。二日前の私は。
君子:
何よりです。
よろしければ、何か飲み物を。
恵樹:
気を遣わなくても、
君子:
いえ。閑雅に読書をされる先輩を見かけて。
お邪魔と知りながら、ふらふら寄って来たのは私ですから。
恵樹:
……、そう。
君子:
先日メニューが変わったんですよ。
(立ち上がりつつ)一冊お持ちしますね、少し、
恵樹:(遮り)
ここに座って本を読む私は、
―す、と、纏う空気が僅かに揺れた、ような。
君子:
……はい、
恵樹:
淑やかで、或いは凛として。
文字とイメージの世界に没頭する、整然とした、怜悧な精神の持ち主に見えていた?
君子:
…………。
それは、もう。
恵樹:
卑屈で嫉妬深くて。
恨みがましく諦めの悪い、馬鹿な女には、見えていなかったかしら。
君子:
…………、何も、存じ上げませんが……、
―後輩は僅か、昏く笑む。
君子:
安心、されてください。
後ろ暗い、匂いの強い臓物は。
少しも露わには、なっていませんよ。
恵樹:
…………そう。
なら、良かった。
君子:
はい。うふ、ふ。
―す、と、細く長い指で眼鏡を整え。
恵樹:
……少し、変わったわね。保科さん。
君子:
そう、でしょうか。
地が出ているだけだと思いますが。
恵樹:
皮肉めいているというか。諧謔味が増したというか。
それも地金の部分?
君子:
感染ったんだと思います。
恵樹:
感染った。
―後輩は、何とも言えぬ表情。
君子:
最近、よく、……お話する、方から。
恵樹:
……、そうなの。へえ。
嫌味な人間とか?
君子:
かなり。
喋る泥みたいな人です。
恵樹:
辛辣。
あと……、そうね、
君子:
まだどこか、
―ふ、と気色を変え、
恵樹:
色気が出てきた。
君子:(虚を突かれ)
ぃ、色、気っ?
恵樹:
血色も明るいし。肉付きが良くなって、細いのにグラマーだし。
ますますモテそうね?
君子:
……、……、とても、
文学部の姫君の口から出る言葉とは、思えませんね。
恵樹:
一般感覚を引き寄せてみたのよ。もう少し卑俗にも出来るけど。
君子:
遠慮しますっ。
……そんな事を、ええ、されますとですねぇ……、
恵樹:
何かしら。
―嫌味なく、しかし皮肉めかして、後輩は言う。
君子:
道先輩のイメージが、崩れてしまいますよ。
私の中の。
恵樹:
…………。
―眼鏡の奥の目が、ニヤリと曲がり。
恵樹:
それは、大変。
では……、カモミールティーを、頼めるかしら。
聖女さま?
君子:
うふ、ふふ……。
―恭しく膝を曲げ、
君子:
はい……、何なりと。
姫様。
―暗転。
―【終】