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……凍えるような漆黒の中で、息を吸った。
全身を、冷えた血が巡る感覚がする。
「おかえり。名前は名乗れるか?」
女の声に誘われ、ゆっくりと目を開く。初めてここで目覚めた時と同じように。
「あ、たしは、ソーリャ……」
痛いほど眩しい視界に、人影が滲んでいる。
「ここが何処かはわかるか?」
「次元調査艦『イセカイ』……でしょ? おかえりってほど、馴染んでない、けど」
「結構。意識は正常だな。起き上がれるか?」
「慣らさ、ないと、無理……」
「体感時間で一年もの休眠だからな。よし、こちらで上体を起こす」
ベッドがゆっくり起き上がる。瞬きをすると、見慣れた裸体が目に入った。
白衣の影が、腰まで毛布を掛けて、病人服を膝の上に放る。
「さて、状況を解説する。お前の潜行先……次元NL23、通称『魔導帝国』の修正結果だ。時空間特異点より百年単位で未来を解析したが次元崩壊の兆候は見られない。作戦は成功だ」
「うわあ……起きたばっかりの頭に、心地いい目覚ましだこと……」
「お褒めの言葉をどうも。私も理論が証明されて嬉しい。直接干渉の出来ない中で次元を崩壊のさだめから救うには、間接的に内部から選択を促すしかないと――」
「はいはい……! で、サクラコ? アンタの故郷のニッポンは救えた? 地球は元に戻ったの?」
ようやく首の動かし方を思い出し、項垂れていた頭を持ち上げる。
白衣の影は首を振った。
「残念ながら、我らの故郷は消失したままだ。修正すべき次元がまだまだある。地球の馬鹿どもは、並行世界を発見してから、ひたすら次元転移を試み、干渉を繰り返した。次元間を移動できれば、資源も移住先もいくらでも確保できるとな……」
「で、干渉側がパラドックスの中心と判断されて消失した……でしょ。観測のために次元の狭間に転移してたここを残して。交わらないから並行なんだって、誰も習わなかったわけ?」
「だろうな。地球を再生出来たら、義務教育を考え直すとしよう。とにかくおかげで、干渉を受けた全次元が破滅を運命づけられた。『並行』するのだから、当然だが」
ぐらつく頭で、ソーリャは思い出す。次元の向こうでの会話を。
――貴女の故郷も、もうないのでしょ?――
そうだ。自分たちにはもう、何もない。
だから、取り戻すのだ。消失した故郷を。
「修正対象となる次元の数は解析中だ……まあ、十数かそこらと見ている」
「その全ての破滅を救い、地球次元が存在しないと齟齬が生じるように運命を調整する……か。まだまだね」
ようやく目が慣れてきて、ソーリャはローブに袖を通した。
「だが記念すべき初回は完璧だ。壮大な叙事詩のプロローグとして、最高の悲劇だった。オペレータのマリアなんて、本気で泣いていたぞ」
そう語るのは、やつれて鋭い目をした、異星人のような中年女。白衣の胸元に、『木戸・桜子』と、ほつれかかった金糸の刺繍がある。『英雄』同様、今はどこにもない言葉と文字だ。
「こっちは凄く気持ち悪かったけど。撃たれて、鉄の味がして、身体から力が抜けて、でも痛くない。眩暈がしそうよ」
「お前と物質情報との感覚接続を一部切った影響だ。干渉は最小限にしなければな。潜行用義体は川に沈んだ後、時空間特異点の更新に伴って光子分解させた。物的痕跡は、これで皆無だ」
震える手で胸元の紐を結び、ソーリャはため息をついた。自分は、生きている。サクラコの低く力強い声が、頭痛に響くのがその証拠だ。
「さて。そちらから、聞きたいことは?」
「ウィリアール・ギャラガーはどうなるの? 英雄譚じゃなく、その後の話」
「ユーリエ嬢と結ばれたよ。子供も数人、子孫も繁栄。晩年は共和国首都……つまりあの辺りに酒場を構えて、二人で暮らした。ほら、あの世界で後に編纂された歴史書のレプリカだ。実物のサルベージは干渉になるからな」
サクラコが膝に放った本は分厚く、そして結構、痛かった。
「傑作だぞ。ほら……これだ」
酒場の前で、穏やかに老けた二人を映した白黒写真。
店の看板には『ソーリャ』という文字があった。
「……なるほど。あたしに対する負い目を、二人はずーっと引きずるわけだ」
「上手かった。英雄だけでなくヒロインに負い目を被せたところが、特に。英雄とは、因果の集積した者。そういうドラマこそ、相応しい」
「悪趣味な女神さまね。でも、あなたのそういうところは好き」
「悪趣味? 何言ってる。私は故郷の愚行の尻ぬぐいをし、滅ぶ世界を救ってるんだ。褒められて然るべきだろう?」
「はいはい。そうね……あなたは運命。ウィリは剣。ユーリエは銃を使ってあの世界を救った。あたしは尻を使ってそこに並んだだけか」
だってあたしは、ただの女だもの。
二人は視線を絡ませると、堪え切れずに吹き出した。
「世界を破滅させる大帝国をも滅ぼすケツか。いやあ、お前は理想的なファム・ファタールだ。悪い女め」
「そんな大層なもんじゃないわ。ただ、彼の心を掴んだだけ。騙してもいない」
「ああ、嘘をつかずに無垢な被害者を演じる手腕は、素晴らしい。その価値観を共有する者は少ないだろうがな」
「アンタが言う? ま、いいけど。さて、帝国を打倒する英雄の次は、どんな男を導けばいいの?」
「中世からルネサンス期に似た文明を持つ世界に、魔王と呼ばれる『歪み』を観測した。次はそこだ」
「なるほど。魔王を討つ勇者ってわけね」
「暫くは身体を休めつつ、鍛えておけ。英雄が誰かはまだわからん。よって、どんな偽装で潜行するかも不明だ」
「ただの女は、神秘の魔法も身の丈を超える剣も扱えないもんね」
「より正確には『地球次元の脆弱な肉体は』だな」
「でも全ての世界に、英雄は居る。そしてその物語には、必ず巻き込まれる『女』が要る」
「そうだ。股を開いて血の花を咲かす、物語の『彩り』がな」
サクラコは背を向けた。世界の全てを、嘲笑いながら。
「では、私はそろそろ戻る。お前は自分の演じた虚像を、じっくり堪能してくれ」
そしてドアが、閉じる。
……そう。
自分はせいぜい、端役の女優。英雄にも、ヒロインにもなれはしない。シリーズの主演は、同じ舞台で踊り続けるさだめだから。
だがその女が、演出家を兼ねてはならない法はない。
英雄の慟哭を舌の上で転がしながら、ソーリャは微笑んだ。
(「さよなら。夢を叶えてね、愛しいひと……あたしは次の舞台に行くわ」)
己が演じたのは、この書の序盤で退場する、哀しくも鮮烈な女の偶像。
しかし後の英雄譚は、全てその女が産んだのだ。
悪くない。喉を焼く、蜜のような優越感。
いいお話の夢が見られそう。
文字通り世界を股に掛けながら、男の胸に己を焼き付ける夢を。
起きる時間が来たのなら、また……綴るとしよう。
世界を救う理由を抱いた、『英雄』たちの物語を……――