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死に翳った瞳を、震える指が閉じる。
「……行きましょう、ウィリ」
長い、沈黙があった。
「ソーリャさんの意志を無駄にしないで! この橋は、もう落ちるわ!」
女の手を払うように、男は立ち上がる。振り返った瞳に、焔を映して。
「街を、出るぞ」
「え……ええ」
瞬間、抜剣の残響と共に、男の姿は消える。
女はそれを追って……咄嗟に振り返った。緋に沈む、もう一人の女の肢体を。同じ男を巡って、運命を絡ませた片割れを。
「あなたの幸せを奪って……ごめんなさい。きっと平和な世界に、するから……」
声を惑わせて女は首を振る。
どういう事情にせよ、彼女はソーリャから、素朴な幸せを得る可能性を奪い去った。これから彼女には、ついて回るのだ。自分は惚れた男を取り戻すため、その恋人を見殺しにしたのではないか……という己への疑念が。
永遠に。
走り去る二人。
橋は傾き、ソーリャと呼ばれた体が、燃える川へと沈んでいく。
残るのは、水面を揺れる焔だけ。
『……聞こえる?』
崩れた橋のたもとで一部始終を見終え、影は呟いた。
『応答して。こちら、ソーリャ』
――……聞こえている。任務は完了だ。サルベージは、もう少し待て――
指輪が、明滅する。今、目の前で自分の肉体が沈んだのに、指だのいうのは変な話だが。
『目標は時空間特異点とやらに到達したってことよね?』
――ああ。お前を事象確保できているのが証拠だ。万が一、次元潜行したまま損傷限度を超えた場合は、本当に死んでいる――
その時、川を迂回した兵隊たちが集まって来た。橋の残骸を覗き込みながら、喚き散らす。
「奴らは川に落ちたか? 一人は確かに撃ち抜いたぞ」
「馬鹿が。あれはギャラガーが使っていた異邦女だ。何の手柄にもならん。……クソッ! 川下を漁って連中の死体を探せ!」
自分を撃ち殺した相手が、自分に気付かないまま目の前ではたかれている。どうにも滑稽だった。
『なるほど……今のあたしは、幽霊ってわけね』
――感覚だけが残った、一切の干渉が不可能な状態だ。実際には、お前はそこにいないのだからな――
『アンタと同じか』
――あの二人が気になるなら、臨場感のある脱出劇を特等席で愉しんで来い。半年もねんごろになった相手だしな――
『もういいわ。ここで死ぬはずだった英雄は、舞台に上がったんでしょ?』
――そうだ。彼は破滅をもたらす帝国を打倒して、世界を救う……これにて物語は完成した。お前の仕事は完璧だった――
『運命の女神様の使徒は大変だわ。記憶もおぼろなのに、目覚めた途端「英雄という言葉を知っているか?」とかほざかれた時は、自分の正気を疑ったのよ』
――消失次元から人体を再生した影響が不明だったからな。仕方ない――
……英雄。
それは圧政から人々を解放し、竜や怪物を屠り、厄災を祓う……後に語られる壮大な舞台の主役。
この世界が選んだ男こそ、ウィリアール・ギャラガー。
ソーリャは最初から、その全てを知っている。
――さて、お待たせした。こちらに戻すぞ。誇るがいい。お前は、運命を軌道に戻したのだ――
そして全てが虹色に澱み、ソーリャの意識は溶けた。