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――『英雄』という言葉を知っているか?――
ソーリャは思い出す。
まどろみの中、女に語り掛けられた言葉を。
『俺は、英雄なんて柄じゃない。腕が立つとか言われるが、街の地下を這い回って魔物退治が関の山さ』
同じことを自分が問うた時、男はそう答えた。
『いいえ、あなたは英雄よ。あたしのこと、兵隊から護ってくれたもの』
長い金髪を指に絡ませて、頬に触れると無精ひげがちくちくする。押し付け合った胸からは、逞しさが伝わって来た。
『当たり前だろ。君はレジスタンスじゃない。猿にだってわかる。連中は君の尻や胸をまさぐりたかっただけだ』
『異邦女のためにそんなことする男なんて、この街にはいないわ』
『人をどつかない分、マシってだけさ。だって……俺も、君の尻や胸をまさぐりたいからな』
くすくす笑い合いながら、二人は足を絡ませた。
勤め先の酒場の二階。暗い下宿の一室。この、骨の軋むベッドの上で。
今、この部屋に男の姿はなく、鼻腔を燻る黴と埃の微かな臭いだけ。
薄いストールをかき寄せて、ソーリャは窓から街の通りを見下ろしている。
途端、閃光が闇を裂き、石壁に火花が散った。
「居たぞ! あの男だ!」
目を瞬いて焼き付きを払う間に、兵隊の怒号が轟く。迷路のような石畳の街並みに、軍靴と魔導銃の擦れる音が満ちていく。
「追え! 取り囲め!」
並ぶ窓は暗く沈み、人々は巻き添えを恐れ縮こまるばかり。明りは、大通りを睨む魔力灯だけ。
『こちらは帝国首都、治安維持部隊です。ただいま西部地区第四市街にて、武装勢力による暴動が発生しており……』
お決まりの文句に続き、甲高い警報が響き始める。
そんな中、ソーリャはいつか指で硝子になぞった『英雄』という文字を見つけた。
(「これは……今はもうない国の文字。通じはするけれど」)
それは世界に求められ、偉業を成す男のこと。
だが生まれついて輝きを放つ者など、いやしない。
暗い圧政に覆われたこの世界は、どこまでも続く夜と同じ。夜空さえ、工場の魔導炉の煙に霞む。
だがそこに燈るちっぽけな綺羅星に、人々が希望を重ねれば、やがて闇を祓う太陽にもなる。
それが『英雄』。破滅を払い、未来をもたらす兆し。
窓に映る、異邦から流れた酒場女とは、違う存在……。
「展開しろ。始末しろとのお達しだ……!」
目を下げると、トラックから降りる兵隊たちが、通りを封鎖していた。
目に痛いサーチライトが輝くと、よれたトレンチコートの男と、ダブルのジャケットの女が照らし出される。
「トーム・ルシード改め、レジスタンスのウィリアール・ギャラガーだな!」
「そっちの女はユーリエ・シャルミット! 面はもう割れたぞ! 諦めて投降しろ!」
聞き覚えがある名前だった。
ウィリアールとユーリエは、帝国の支配に反抗する指名手配犯の名。そしてトーム・ルシードは、ここで自分を抱いた男の名だ。
「そう言われて投降した奴っているのか? 前例を聞かせてもらいたいね……!」
「挟まれた! やるわよ、ウィリ!」
放たれる閃光を前に、二人は身を舞わせる。男の剣が光を弾き、女の拳銃が蒼い光を閃かせる。二人はまるで竜巻のごとく、兵隊を薙ぎ払いながら封鎖を食い破る。
それでも。
『俺には、君を愛する資格なんてないんだ。色々、隠していることがある。いずれ……狩り出されるだろう』
一昨日、男はこの部屋でそう呟いた。死を覚悟した声で。
『……言わないでいい。何かワケがあるって、わかってたから。だから、ねえ……一緒に逃げよう。あたしと』
抱き留めて訴えたが、彼はゆっくりと首を振って肩を押し戻した。
そして今、自分のことを巻き込むまいと、死闘を演じている。
ソーリャは、右の人差し指の指輪に口づけをして、懐中時計を開いた。
「……こちら、ソーリャ。現在時刻は23時43分……聞こえる?」
やがて、指輪の紅玉が明滅し、女の声が頭の中に反響する。
――聞こえている。こちらも同時刻を観測。齟齬はない。指定の時刻まで、約一時間だ――
「街の外へ最終便は午前一時。西区中央広場にウィリアール・ギャラガーを辿り着かせる手筈よね?」
――そうだ。ここを境に警備は厳しくなる。今夜が、脱出の最後の機会だ――
「了解したわ。行動を開始する」
声の気配が遠ざかる。
ソーリャは窓に背を向け、ドアノブを掴んだ。
遠い、闘いの響き。この先は、死地。
自分は、ただの女だ。戦闘技術も特殊能力も、何もない。彼と共に歩む道はない。物語の彩りがせいぜい。
(「それでも……覚悟を決めろ。あたしの『英雄』を舞台に上げるために」)
震える手で、ノブを捻る。
運命に、身を投じる時だ。