ムスカリ
雨の日は嫌いだ。外が暗いと、気分も沈むからだ。それに、道端なんか歩いていれば、道路にできた水たまりの上を走る車に水をかけられる。朝からそんな目に遭えば、その日1日が最悪な日になってしまう。
そして今日も、雨がふっていた。もっと悪いことに、その日は土砂降りだった。
大学、行くの面倒だな…。
警報の一つでもなってくれれば、と思いながらも、ただでさえ単位の危ない俺がこんな日にでも大学に向かわないと、この先が思いやられる。だから、仕方なく、一人暮らしのアパートから、電車にのって20分ほど離れた大学に、しぶしぶ足を運んだ。
俺は、東京にある、そんなに偏差値も高くない、普通の総合の大学の経済学部生だ。実家は田舎で、まあよくある、“東京にあこがれて”東京に出てきた一人だ。俺の場合、みんながそうするから、という理由もなくはなかったんだが。経済学部を選んだ理由は、俺が理系で、なんとなく将来につながるだろうと思ったからだ。俺自身、これといった夢もなくて、大学に入れば何か変わるんだろうと、そう思っていた。だが、大学に入って3年。未だに何もみつかっていない。それに、受講する授業に対する興味も薄く、だから大学に入ってすぐは、授業をサボることも多かった。そのツケが今まわってきている、といった感じだ。このままでは就職どころか、卒業すら危うい。
あまり社交的でない俺は、友達が少ない。大学では、入学したての頃出会った、新田晃という、お人好しのパリピが、よく俺にからんでくるくらいで、他はこれといった知り合いがいない。俺自身、人の名前を覚えるのが苦手で、その上人の顔をあまりみないから、同じクラスの生徒の顔も名前も覚えることができない。授業をサボりがちだった1年の頃なら、なおさらだ。新田の場合は、俺が毎回名前を忘れるので、その度に聞くから、いつのまにか覚えてしまった。
こんな俺だから、もちろんこの21年、彼女がいたことがない。まわりはカップルだらけで、正直うらやましいとか、そういうのはなかったけど、よく入れ替わる組み合わせには、違和感だった。
俺も、いつか彼女をつくって、やりたいことが見つかって、就職して、結婚して、子どもができて、なんてことのない、普通な人生を歩んでいくんだと、そうおもっていた。だが、今の状況からは、そんな未来も描けない。何もない俺は、したい仕事もみつけられない。いつしか、すぐに直面することになる、就職活動とやらに、嫌悪感を感じるようになっていた。みんなスーツをきて、髪を整えて、就活をする者は、みんな同じように説明会に行き、狙っている会社にこびを売りに行き、試験や面接などでできあがったプロットをそのまま語ることで、晴れて内定をもらえる。俺のような人間は特に、社会的な目ばかり気にして、みんなと同じように、興味もない仕事についてもそれを止めることすらできなくなる。
そして最近では、自分が生きているのかもわからなくなってきた。社会に流されるまま、自分の人生を歩んでいる自分は、本当に生きているといえるのか。だからといって、自分には何もなく、それがさらに俺を追い詰めている。雨の日は特に、その悩みを倍増させているような、そんな気さえするのだった。
「よぉ、湊!今日はちゃんと来たんだな!」
今日初めての授業で一緒になってしまった新田が、講義室の椅子に座っていた俺の背をたたいて、隣にすわってきた。
「それにもっと珍しく、授業に間に合ってる。外が大荒れな理由も納得いくわ~。」
新田は授業の準備をしながら、そういった。
「そういやおまえ、就職のめぼしとかついてんの?」
新田は聞いてきた。今一番聞かれたくないことだった。そんなこと、新田にわかるはずもないが。
「いいや。」
俺は答える。
「そっかー。俺もまだだなぁ。まあでも、どっかは拾ってくれんだろ!」
新田は笑って言った。いつでもおまえはのんきだな。俺はそう思った。いつだってそうだった。その明るさが、そののんきさが、俺を苦しめた。そしてこういう馬鹿を装ったやつが、なんだかんだ、愛想だけで人生を成功させていくことも、俺は知っていた。俺のような性格は、不利でしかないんだ。今ではもう、その性格を直そうとする努力もやめてしまったのだが。
今日の三つ講義も、つまらなかった。1年のころにサボったせいで、基礎という基礎がきちんと身についていないために、講義が難しかったせいでもある。それもこれも、自分のせいだということは分かっている。だが、状況を改善しようとする態度も、とることはしなかった。興味がない事への努力の理由がなかったからだ。
どうしたって明るい未来が思い描けなかったその日々は、本当に暗かった。いっそのこと、いなくなってしまいたいとも思った。俺がいなくても、誰も悲しまない。金のかかる俺がいなくなれば、親だって楽になる。未来のない俺が、努力を止めた俺が、金をかけられる価値もないと、そう思うようにもなった。情けなかった。情けない負け犬のまま、死んでいくんだろうと、そう思った。
講義が終わり、みんなと同じように始めたが、何度か止めては新しいものをみつけることを繰り返して、3年の今では数ヶ月続いている、アパートの近くにあるコンビニのバイトを終えた夜10時。唯一生きていることを感じさせる空腹を感じ、バイト終わりに夕飯にとカップ麺を買って、バイト先をあとにした。雨は少しましになったものの、まだ降っていた。バイト先からアパートに帰るまでに、散歩ができるような公園がある。俺はいつもバイトが終わると、そこを通って帰るのだ。バイトは基本、夜に終わるか、夜勤で朝に終わるかのどちらかで、公園の中を歩くときはいつも、人がほとんどいない。その日も、人気が全然なかった。だが、公園の舗装された道を歩いているときだった。一番下の、フェンスでしきられた川そばの道から三段になっている丘の、一段目の丘の上の道を歩いていた時だった。一番上の道下の芝生の斜面に、誰かが座っているのがみえた。よくみると、白いワンピースを着た、茶髪の女の人だった。公園の明かりのそばに座っていたので、その容姿がよくみえた。その女の人は、傘も差さずに、雨が降る空をただ見上げていた。不思議に思い、しばらくみてしまっていたようで、その人は俺に気づいて、こっちをみて笑った。すると、何かが俺を刺激した。俺はそれ以上、その人と目を合わせていられず、すぐに目をふせてアパートまで足を速めた。
一体誰だったんだろう。見たこともないほどに優しく、柔らかく、無垢だったその笑顔は、俺の脳裏に焼き付いていた。
雨の日は続いた。まだ梅雨時期でもないのに、雨が続く四月の中頃の日中は、なんだかじめじめしていた。雨の日の電車など、地獄でしかない。特に東京のラッシュは、拷問だ。田舎出身の俺には、いつまでもなれることのできない苦しさだった。
週に二、三度のバイトもおっくうで、今日も忙しさで、疲労感が他の時間帯の勤務よりも倍増されて終えた仕事の帰り道。いつものようにあの公園の中を歩いていた。そして、俺はまた、目にした。あの女の人を。前と同じように、傘も差さずに雨の降る空を見上げている。なぜか目をうばわれてしまうその姿をじっとみていると、またその人は俺の存在に気づいて、俺を見て、にこっと笑った。まただ。よくわからない何かが、俺の中を刺激する。そして俺はまた、逃げ出した。
それからというもの、俺はあることに気づいた。その女の人が現れるのは、雨の降る日だけで、バイトが22時あがりの日でも、6時上がりの日でも、雨の日ならその女の人が居る。毎回その人をみつけては、笑いかけられ、逃げることを繰り返していた。よくも飽きずに笑いかけてくるもんだな。俺はそう思っていた。
ある日の午後。今日も朝から雨が降っていた。今日は4限までで、16時半には大学をでて、帰ることができた。今日はバイトもないので、そのまま家に帰れる。ふと、あることが頭をよぎった。
あの人は今日もいるんだろうか。
駅からアパートまで行くのに、公園を通ることはないから、俺はいつもバイト帰りにしかその人をみなかった。このような時間帯でも、いるんだろうか。俺は気になって、今日はまっすぐ帰らずに、遠回りして公園の中を歩いて帰ろうと思った。
駅を出てしばらく歩き、公園に入る。そしていつも女の人が居る川のそばの丘のところにさしかかった。すぐにわかった。その人が、いつもの場所で、空を見上げて座っていたのだ。いつもは暗がりの中、街灯に照らされていたためか、明るいうちにみる彼女はいつもと少し違ってみえた。今日はばれないように、立ち止まらず、顔をふせたまま通り過ぎよう。そう思って、一番上の段の道沿いにすわっている彼女から一番離れた、川のそばを歩いて通った。と、
「雨は嫌い?」
という女の人の声が聞こえた。俺は驚いて、立ち止まり、とっさに女の人の方をみた。そこには今、その人と俺しかいなかったからだ。やはり、その人は俺の方をみて、いつものように笑って言ったようだった。
「こんなに素敵な日はないのにな。」
呆然とする俺をよそに、その人はまた、空を見上げていった。
「君はそう思わない?」
女の人は俺をみていう。
「…ああ」
答えざるをえないとおもい、俺は小さくそういった。
「どうして?」
その人は聞く。
「ぬれるから。」
俺は適当にそうこたえた。すると、その人は笑って、
「雨に濡れるの、嫌いなんだ。」
といった。
「すっごく気持ちいよ。」
そういってまた、空を見上げる。
「それに、べたべたするすし。」
俺は付け加える。
「なにそれ。」
その人は笑った。曇りのないその純粋な笑いは、笑顔は、いつも俺の中の何かに影響した。そして同時に、その場から逃げ出したくなるのだった。だから俺は、いつものように、その場から逃げた。無愛想な俺に、もうさすがに笑いかけたり、話しかけたりしてこないだろう。足早に歩きながら、俺はそう思った。
だが、その人は再び現れた。雨も降らなくなって二週間たったある五月中頃の日。連日の雨で、少し降らなければ久しぶりに感じる雨が降って、俺は傘をさしながら、いつものように夜勤終わり、朝の6時の東京を歩いていた。そしていつものようにあの公園を歩いていくと、やっぱりそこにはあの女の人が居た。今日は早々と俺を見つけては、俺に笑いかけてきた。今度は俺から話しかけよう。そのときなぜかそう思って、俺はいつもと違い、女の人の座る一番上の道を歩いて行った。
「雨は嫌い?」
その人はまた俺にそういった。
「嫌いだよ。」
今日はきっぱりそう答えた。するとその人は少し寂しそうに、ふ~ん、といった。俺はなにげに、その人の上に俺の傘をさした。すると、その人はすねたみたいに、頬をふくらませて怒ったように、
「どけてよ。」
といった。子どもみたいなその顔に少し笑いそうになりながらも、俺は真顔を耐え抜いて
「風邪引くぞ。」
といった。
「風邪なんか引かない。」
その人はそういいながら、横にずれて、また雨の下に座った。すると、またいつもの顔に戻った。そこまで雨が好きな理由も、よくわからなかった。
「雨が嫌いな人、いっぱいいるけど、雨は恵みの雨なんだよ。」
女の人はそういった。農作物を育てる人にとってはそうかもしれないが、俺からすればその恩恵もよくわからない。むしろ、気分にもマイナスに影響するものだと思っている。
「雨の日はいつもここに来るの?」
俺は聞いた。すると、その人は首を横に振った。
「いつもここにいるよ?」
その人は言った。俺にはその意味がわからなかった。俺が見るのは、雨が降る日だけなのに。
「君もここに座ってみればわかるよ。」
女の人は地面をたたいて、俺にそういう。ここにすわれば、雨が好きになるとでもいいたいのか。よくわからないが、俺はいわれるまま、その人から1人分くらい空けた隣に腰掛けた。
「こうやって、上をみあげて、目をつむるの。そしたら、とっても気持ちがいいよ。」
俺は言われるまま、顔を上げて、目をつむった。小降りの雨粒が、俺の顔に当たっておちる。細かい雨を、顔全体で感じとる。
「ね?気持ちいいでしょ?」
女の人はいった。正直、気持ちいいのか、よくわからない。
すると、急に人の気配がなくなった。俺は目をあけて、隣をみた。そこには、あの女の人がいなかったのだ。いつの間に…。俺は不思議に思いながらも、立ち上がって、アパートまでの道のりを歩いて行った。雨はいつのまにかやんでいた。
それからというもの、バイトの帰りでも大学の帰りでも、俺は雨が降る度にその人の所に足を運ぶようになった。行ったところで、何を話すでもなく、女の人はいつも俺に“雨は嫌い?”と聞く。きっと俺が、雨が好きというまで聞きつづけるつもりなんだろう。
だが、次第に雨が降る日は、気分が少し上がるようになっていたことに気づいた。それは、表にも出ているようだった。ある日、新田がいつものように俺の隣に座ってきては、
「おまえ、今日は機嫌がいいな。」
といってきた。なぜそんなことをいうのかと、不思議そうな顔をすると、新田は、
「だって今日は俺の方見ておはよっていったじゃんか。」
といった。いつもどんな風に挨拶してたなんか、そもそも挨拶してたかなんて、覚えていないが、今日は確かに、機嫌がいい気がする。
今日は夜勤だから、大学が終わるといったん家に戻った。そして夕飯などを済ませ、仮眠をとってから、俺は出勤した。雨はまだ降っていた。このまま朝まで降り続かねぇかな。そんなことを思う自分も現れた。
そして望み通り、バイトが終わる時間、かなり小雨にはなっていたものの、雨は降っていた。俺は急いで退勤し、あの公園に急いだ。傘はささず、夢中でそこに向かっていた。そして公園のあの場所にたどりつくと、やはりあの人はそこに居た。俺はいつものようにその人が座る一番上の道を通り、その人の所まで行く。だが、今日はいつもとなにか違った。俺はそれにすぐに気がついた。いつもは早々と俺を見つけてはほほえみかけてくるのだが、今日は俺が真横にきても、俺の方をみず、そして雨雲を見上げてもいず、ただ川の方に目を向けて、ぼーっとしている様子だった。俺はその人の隣に座り、不思議に思って少しその人を見ていたが、その人は俺の方も、他のところにも目を向けず、ただぼうっと川を見ていた。
「どうしたの。」
やっと俺が声をかけるとその人は、はっとして、俺の方を見た。そしていつものように笑って、
「なんでもないよ。」
といった。なんでもないわけがない。だっていつもと違うじゃんか。俺は心の中で言った。
「もうすぐ毎日が雨の日だね。」
その人はいった。梅雨に入ることをいっているんだろう。大好きな雨の日が毎日になるのに、その人は心の底から喜んでいる感じがしなかった。
「雨、好きなんでしょ?」
俺は言った。
「うん、大好きだよ。」
その人は笑って言う。
「君も好きでしょ?」
そして俺を見てそういった。今日は“雨は嫌い?”という質問でなく、そういう質問だった。俺が段々と、雨の日に気持ちを高ぶらせていることを知っているかのようだった。
「嫌いだって。」
俺は素直に答えることもできず、そう答えた。
「嘘。だって君、いつもここに来るじゃない。」
女の人はすかさずそういう。
「それはバイトがあるから…帰り道なんだよ。」
少し動揺してそう答えた。すると、その人は、ふ~ん、と、雨が嫌いだという俺を信じていないようなそぶりで答えた。
「私は好きだよ?君とここでお話するの。」
その人は、前を見たまま、そういった。
「君は私とお話しするのも嫌いなの?」
そして、俺をみてそう聞いてきた。俺は思わず、
「そういうわけじゃ…」
と答えた。
「じゃあ、好き?」
その人は質問を責めてくる。その圧に、俺は恥ずかしさを感じながら、その人から目をそらして、
「ああ。」
といった。すると、その人が笑ったのが横目で分かった。
「やっぱりね。」
女の人はいった。
「でも、もうすぐでお別れだね。」
その人は突然そういった。俺は驚いて、その人の顔をみた。川の方をまっすぐみながら、どこか寂しそうなその横顔だった。
「なんで?」
俺は聞いた。
「本当はもっと前に眠るはずだったんだ。だけど君がきてくれるから、君とお話ししたくて、つい起きちゃうんだ。」
その言葉の意味がわからなくて、俺は少し混乱していた。眠る…?
「何言って…」
俺が聞こうとすると、その人は何かに気づいたように、あ、といって空を見上げた。
「雨、やんだね。」
俺の言葉を遮って、その人は俺をみてそういった。俺は空を見上げる。本当だ。そして、またあの感覚があった。ふっと人の気配が消える感覚。隣をみると、やはりあの女の人はそこにいなかった。なぜか雨がやむと、姿を消してしまうその人は、一体何者なんだろうか。そして、どうしていつもここにいるんだろうか。謎が多いその女の人のことを考えていると、ふと、芝生の上に、一本の花が咲いているのに気がついた。白くて丸い小さい花が、茎の上の方にいくつもついているような、小さい花だった。こんな所に、なんで…。
そのとき、おかしな仮説が頭をよぎった。この花が、あの女の人だとしたら…。夜勤終わりで頭がぼーっとしているから、よくわからないことも思いつくのだろうか。そのときはその程度としか思っていなかった。だが、帰り道、そのことを考えれば考えるほど、本当にそうかもしれないとさえ思えてきた。
よく考えれば、不思議な点はあった。あの女の人は、いつも同じ白いワンピースを着ていること。雨の日にしか出会わないこと。雨の日はいつ行っても、そこにいること。薄着で雨に打たれ続ければ、いつかは風邪をひきそうなものだが、そういった感じはまったくないこと。そして、そういえばいつも裸足であったこと。もう一つ挙げるならば、あの人はいつか、“ずっとここにいる”といっていた。あの花なれば、あそこにずっと咲いているんだろうから、そういう発言も変ではない。でも、単なる偶然かもしれないから、今度会ったら聞いてみようか。そう思って、俺は眠りについた。
そしてそれから二日後。その日は豪雨だった。授業があるものの、俺はあの女の人が気になって仕方なかった。だから俺は大学には向かわず、朝から公園に向かった。やはり、その人はそこにいた。だが今日は、いつもとも、この間とも違った。いつもの場所で、芝生の斜面に、その人は倒れていたのだ。俺は急いでかけつけ、その人に傘をさし、
「おい、大丈夫か?」
と体をゆすった。そして、驚いた。肌が氷みたいに冷たかった。俺は急いで上に羽織っていた上着をその人にかぶせ、上半身を起こした。
「おい!」
俺は必死に呼びかけた。すると、その人はうっすらと目を開けた。
「大丈夫か?」
俺がもう一度言うと、その人は俺だと気づいたようで、いつものように笑おうとした。だが今日は、力もなく、ちゃんと笑えないようだった。
「やっときてくれたんだね。」
その人は小さな声でそういった。
「氷みたいに冷たいじゃねぇかよ。家はどこだ?送ってくよ。」
この人は花なんじゃないかとかいう考えは、そのときには頭になく、俺はそういった。
「ここだよ。」
その人は言った。
「もうだめみたいだから、最後に君に会いたかったんだぁ。」
その人は変わらず力のない笑顔のままそういった。
「何言ってんだよ!早くしねぇと…」
俺がその人をだきあげて背負ってどこか屋根の下に運ぼうとしたときだった。その人が、俺の腕をつかんだ。そして首を横に振った。
「いいの。ここでいいんだよ。」
女の人はそうしきりにいう。そして、俺は花のことを思い出し、辺りをみた。そこにはあの花がなかった。となると、やっぱりこの人が…?
「君にまた会えるといいな。」
さっきよりも小さな、力のない声で女の人はそういった。
「…このままここにいたら、来年も会えるかなんて、保証ねぇだろ?」
俺は聞く。この人が花であるという仮説がほんとうだとしたら、ここにずっといれば、いつ踏まれるかも、いたずらされるかもわからない。だったらもっと安全な場所に…。
「きっと大丈夫だよ。君にはまた、会える気がするんだぁ。」
その人はいった。
「俺と一緒にこいよ。」
俺は考えるよりも先に、そう発していた。すると、その人はさっきよりも力強く笑ったのだ。
「ありがと」
そう言って、その人は目をつむった。
「もう寝るね。」
そういって、その人は口をとじた。そして、もう話さなくなった。寝息をたてながら、俺の腕の中に横たわるその人は、本当に寝ているみたいだった。本当に、人間みたいだった。俺の仮説はやっぱり、よくわからない妄想が作りだした、非現実的な空想だったんだろう。一瞬、本当にそう思った。だが、その考えも、すぐに打ち破られ、俺の仮説は真実だった事を知った。女の人が眠ってしまうと、いきなりその人が白い光につつまれた。その不可思議な光景を目にし、何も考えることもできず、ただ唖然としていると、その形は段々小さくなり、地面に吸い寄せられるようにして俺の手から離れた。そして俺が気をとりもどすころには、俺の手には俺の上着以外、何もなかった。そして足下をみた。そこには、しぼんで小さくなった、以前俺がここでみた花らしきものが、そこにはあった。そこで、全てにつじつまがあったのだ。やはりあの人の正体はこの花であり、己を成長させる雨の日だけ、人間の姿で俺の前に現れた。雨の日しか現れないのではなく、彼女はずっとそこにいたのだ。
そして、俺は決心した。まずは、この激しい雨でつぶれるかもしれないと、俺はいったん傘をそこに置き、上着を着直し、アパートに急いだ。財布を手に取り、近くの店により、鉢植えと土、肥料など、植物と言えば思いつくものをかい、それをもってまたあの公園に戻った。幸い傘はまだそこにあり、その花を守っていた。人間の姿だったら、傘が邪魔とか言ってまた怒られるんだろうな。そんなことを思いながら、俺は慎重に、その花を掘り起こした。そして鉢植えにうつして、それを傘の下でかかえてアパートに戻った。びしょぬれのままであるのは気にせず、どこに置くべきか、悩んだ。まず、なんの花なのか。そこから調べる必要があった。俺は必死に調べ、そしてたどり着いた。ムスカリ。それがこの花の名前だった。どうやら、日当たりと水はけのいいところを好むらしく、とりあえずはベランダに置くことにした。だが、大変なのはこれからだ。そもそも表の芝生の所に、恐らく自然に生えてきて咲いていた花であるのに、このように鉢に植え替えてちゃんと生きていられるのだろうか。それからというもの、調べごとが絶えない日々だった。連れて帰ったはいいものの、死なせてしまえば罪だ。
君にまた会えるといいな。
あいつは最後にそういった。俺だって、おなじこと思ってるんだから。おまえを死なせるわけには行かないから。だから俺は、今までにないほどに、夢中になって調べ物をしていた。四六時中、ムスカリのことを調べていた。
そして、あることを知った。ムスカリの開花時期は三月から五月中旬。あいつは確か、もっと前に眠るはずだったといっていた。そして、俺は今その意味を知った。
そうか、そうだったんだな。
おまえは無理してたんだな。俺と、俺なんかと話すためだけに。
それとも、俺が行くとわかっていたから、俺のために眠らずに居てくれたんだろうか。それなら悪いことをしたと思う。来年、また会ったら、謝らなきゃな。俺は反省した。
そしてもう一つ、知ったことがある。ムスカリの花言葉である。。それは、「絶望」「失意」。正直、あの人からはイメージのつかない言葉だった。だがさらに、ムスカリには花言葉があった。それは、「明るい未来」。まるで俺が見えていないものだった。ある言葉は俺に当てはまり、あるものは俺とはほど遠い言葉である。
だが、ふと俺は、それはあの女の人が俺に言いたいことなんじゃないかと、そう思った。間違いなく、自分に都合良く解釈しているだろうと、他人が見ればおもうだろう。本当にそうだと、俺自身も思う。あの人は、俺の心の内をしっていて、俺が前向きになれないことを感じとっていたとしたら、彼女は俺に、未来は暗くなんかないと、そういってくれているような気がした。俺がそう考えるのにも理由があった。ムスカリの他の花言葉。それは、「通じ合う心」。彼女には他人の心が、言葉を交わさずとも分かるという意味なのだろうかと思ったからだ。少なからず彼女と話をしたものの、俺のおいたちや、今の状況については一切話していない。聞かれなかったから、話す必要もなかったのだが。それでも彼女は知っていたんだろうか。
ムスカリについて調べれば調べるほど、俺は彼女に聞きたいことも増えていった。そんななかで、もし彼女が俺の心情を、状況を知っていて、そのことを伝えようとしていたのなら、俺も何もせずにはいられなかった。来年彼女にまた会ったときに、今のままの俺では示しがつかないと思った。そう考えてからというもの、俺は将来のことも真剣に考えるようになった。今度はもう少しまともな人間になって、あの人と話がしたい。なにもかも諦めるのは、まだ早い。そう思えるようになった。変わるなら今しかないと思った。このまま終わらなくてはならないことはないと思った。人に流されるのではなく、自分がしたいことを、自分にできることを、必死に考えようと思った。
「おまえ、最近変わったよな。」
あるとき新田にそういわれた。本当は自覚しているが、俺は、そう?といった。
「ああ、そうだよ。なんかあったの?」
新田は俺が変化したタネを明かしたいらしかった。
「なんにも。」
俺はそう答えた。どうせ、いったところで信じないだろうから、俺はムスカリの女性のことについては誰にも話さなかった。
それから月日が流れて俺も無事に進級できることとなった。思った通り、新田も進級したようだ。そして、今年は就活の年。あれから色々考えて、俺は地元に戻ることにした。親に話すと、
「あんた、東京で働きたいゆっとったんに、どうしたん?」
と、思った通り言われた。東京で働きたいと言っていたのは流れで、なんていえるはずもなく、適当に流した。
そして、新しい目標もできた。あれからムスカリのことを調べていると、花に興味がわき始めたのだ。だから、いつかは花に関係する仕事がしたいと思うようになった。それまで、会社に入ってお金を貯めながら、花の勉強を続けようと思った。初めはもちろん、なかなかうまくいかないだろうが、仕事がなれてくれば、色々と余裕が出てくるだろう。
そして、三月になった。そろそろ、ムスカリが開花を始める頃だ。今のところ、枯れてはいないようだから、恐らくうまく開花してくれるだろうと、そう思っていた。だが、3月に入っても、ムスカリはなかなか開花しない。俺は焦っていた。もしかして、枯れているのか…?いや、そんなふうにはみえない。3月に入って毎日、手が空けばムスカリをみていた。開花してくれ….。そう祈りながら、ムスカリをみていた。
そして、3月の終わりになってしまった。明日からもう、新学期が始まる。だが、ムスカリはまだ、しぼんだままだった。もしかして、本当にだめなのか…?俺は肩を落として、ベランダのムスカリから離れて、部屋に入った。そのときだった。
「雨は嫌い?」
懐かしい、その声が後ろで聞こえた。俺が振り返ると、そこには、あの女の人がいたのだ。
ムスカリが咲いたのだ。
俺は、今までの手入れが間違っていなかった喜びと、ムスカリが開花した喜び、何よりその人にまた会うことができた喜びに、言葉が出なかった。その人は、あのときのように、優しく、柔らかく、無垢で透き通るような笑顔で、俺の方をみていた。気づかなかったが、雨がぽつぽつと、ふってきていたのだ。
「嫌いだよ。」
俺も笑って、そう答えた。
「でも、おまえと話すのは好きだな。」
あのとき素直になれなくていえなかった言葉を、再び会うことができたその人に言った。すると、その人は笑って、
「私も。」
といった。
「やっぱり会えたね。」
その人は言う。
「大変だったよ。」
俺はそういいながら、ベランダの入り口に座った。
「ありがとう、私を守ってくれていて。ずっとわかってたよ。」
そう言われ、なんだか恥ずかしくなって、
「ね、寝てたんじゃねぇの?」
と、動揺して言った。
「うん、寝てたよ。でも、わかってた。夢の中で君の声が聞こえてたんだ。」
確かに、話しかけたりしてたかな…。思い出しては、また恥ずかしくなりながら、
「そっか。」
といった。
「おまえ、わかってたの?俺が考えてることも、全部。」
そして、俺は一番聞きたかったことを、その人にきいた。すると、その人は笑ったまま、
「君とお話ししたいのは一番だったけど、君のこと、心配だったんだぁ。」
といった。やはり、わかっていたんだ。俺が全部に嫌気がさして、絶望していたことを。
「最初から?」
俺は聞く。その人はうなずいた。
「でも君は優しいから。悲しい顔してるのはもったいないよ。」
そしてそういい、
「でも、今はもう大丈夫みたいだね。」
と付け加えた。やはり、花言葉は花の性格であり、特質であるのか。その人は全てを見通していた。
「ああ、なんとか、な。」
俺は答える。
「もしかして、俺のために頑張ってくれてたの?」
そしてもう一つ、聞きたかったことを、その人に聞いた。
「だってあのときの君、そのまま飛び降りそうな顔してたんだもん。」
たとえは、間違ってるような、あながちあってるような、そんなものだったが、どっちにしろ、この人は俺のことを心配していてくれた。
「…ごめんな、無理させて。」
俺は謝った。
「何言ってんの。私だって、君ともっとお話ししたかったんだよ?」
その人は笑ってそういった。俺もほほえんで、ああ、と答えた。
「未来がなくなるんじゃない、君が未来をみていないだけだよ。」
突然、その人はそういった。
「人は絶望すると、そのときの感情だけで、自分にはもう未来がないっておもうけど、なくなったって思うなら、また作ればいいじゃない。もしかすると、なくなったんじゃなくて、見えてなかっただけかもしれないからさ。」
そう語った後にその人は、
「まあ、今の君に言ったって、仕方ないけどね。」
といって笑った。
「去年の俺にきかせたいよ。」
俺もそう言って笑った。
それから、またあの頃のように、その人は雨の日に姿を現した。そのたびに、あの頃よりもたくさん話をした。この1年を埋めるように、雨が降る時間は雨の下で話した。再び来る眠りの時間まで、とりとめのないことを、たくさん話した。
そして、その日は再びやってきた。まだ眠りたくないというその人を、今年は俺が説得した。寂しくないように、毎日話しかけるからというと、その人はなんとか、わかった、といって、再び眠りについた。もうむちゃはさせたくなかった。けど、俺は知っていた。花によれば、ムスカリは三度目をさまさないものもあることを。そして、二度目すら奇跡であったことを。でも、それでも、無理はさせられない。来年も目を覚ましてくれることを信じながら、また世話をするのだ。
それから本格的に就活がはじまり、俺は実家に帰ることも多くなった。そのたび、ムスカリのことを気にするが、急いで戻っても、無事で居てくれていた。そして就活も順調に進み、内定を貰い、俺は計画通りに地元の会社に就くことができた。
卒業式は、初めはでないでいようかなど思っていたものの、いつからか出ようと思うようになり、出席した。卒業するときは、興味もなかった学部に入ったため、なんの思い入れもなく、思い出にも残らないんだろうと思っていたが、新田のおかげで、楽しいことは経験できた。新田は最後まで俺と居てくれた。新田はこのまま東京で就職するらしく、遠くはなってしまうが、また遊ぼうなと、そういってくれた。こんなにもいい友達だと、もっとはやく気づいていればよかったと、今更後悔しているが、あの頃の俺にはそんな余裕もなかっただろう。
四年間住んだアパートを引っ越す時、もちろん、ムスカリを持ってでた。車でむかえに来てくれた親父と、荷物をつめ、車にいれて、四年間住んだ東京をあとにした。
「その花、どうしたんや?」
親父は帰り道、俺に聞いた。
「ああ、育ててるんだ。」
俺は答えた。
「おまえ、花なんか好きやったか?」
妥当な質問だ。
「最近、好きになってさ。」
俺は答えた。そうか、と答える親父にも、俺はあの女の人のことは話さなかった。
俺の人生を変えたその人のために、その命がつきるまで、俺は絶対に守り抜くと決めた。そしていつかまた、出会える日のことを思いながら、その人に示された明るい未来に向かって、確実に進んでいる。
今日も透明な雨が降っている。