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そんなこんなで二週間が過ぎたころ、仕事が終わりいい配合が思いつかなくてローテーブルに突っ伏している私に、薄闇の中から現れたガトーが一枚の紙を突きつけた。
「志穂、俺に感謝しろ。イギリスの悪魔と話をして、ミルクティーの黄金比を吐かせてやった」
「……え?」
イギリスの悪魔って何とか、話って言ったわりには頬に傷があるけど暴力じゃないよねとか、ミルクティーの黄金比って何とか、いろいろツッコミたいところがあったけど全て飲み込んだ。黙って紙を受け取り、目を通す。先ほどの言葉の通り、茶葉、水、ミルク、砂糖の割合、さらに抽出時間は秒単位で書かれていた。
「あ、すごい」
そこには私が試したことのない方法もあり、素直に感心する。ガトーは得意げな顔をしており、すっと人差し指を立てて階段に向けた。
「今から作って来い」
「え、もう夜遅いんだけど?」
「明日は休みだろう。俺は今食べたい。あの悪魔が言うには、そのミルクティーは人を虜にするらしいぞ」
「何その危ない香り……」
確かに明日は休みだし、なんなら明日ゆっくり試作しようと思ったのに。でもガトーが食べたいと言うなら、応えてあげたくもなる。毎日毎日飽きもせずにケーキを平らげてくれるおかげで廃棄はゼロだ。それに、本人には口が裂けても言えないけど、食べている時に穏やかな表情になっているのは嫌じゃない。
私は膝の上に乗っていたショコラを下ろすと、また後でねと頭を撫でて厨房へ降りる。仕事着に着替えれば、パティシエとしてのスイッチが入った。メモを見ながらその通りに紅茶を煮出し、ミルクティーの配合に合うように小麦やバターの割合を変えていく。今までにないほど紅茶は香りが立ち、焼き上がりを待つ間、試しにミルクティーとして飲んでみたら思わず声が漏れた。
「うわぁぁ、幸せの味だ」
紅茶の香りにミルクと砂糖の甘い誘惑。なのに、ほどよい苦みがあって、後味はすっきりする。それに熱すぎないくらいの温度が、ふとんに包まれているようで笑顔になる。
「確かにこれは虜になるわ」
おいしいシフォンケーキができる予感がして、早く焼きあがらないかなとわくわくする。そのわくわくは久しぶりで、まるで初めてケーキを作った時のようだった。
そして焼き上がり、オーブンを開ければ詰まっていた紅茶と生地が焼けたいい香りが飛び出してくる。それを浴びる瞬間がケーキを焼いている中で一番幸せ。無意識によだれが出てきた。作った自分が一番食べたいと思っている。
十分冷ましてから切り分けるとふわふわで、成功だと「ふふふ」と怪しい声が漏れた。深夜のテンションともあって、魔女が薬を作っているような顔になっているけど、楽しいんだからしかたがない。
ちょっとおしゃれな皿に切り分けて、二階へと持っていく。ガトーにドヤ顔でもしようと思っていたけど、中に入った私は飛び込んできた光景に皿を落としそうになった。
「……ええ!? そのテーブルどこから持ってきたのよ!」
なんということでしょう。二時間くらいの間に部屋が模様替えされていた。重厚感のあったソファーとサイドテーブルが無くなり、さらに私のローテーブルまで無くなっている。代わりに部屋の中央には、踏めば柔らかい絨毯に木のぬくもりを感じるテーブル。しかもテーブルの横や足には模様が彫ってあって、難しい横文字が合いそうだ。
テーブルには二組の、これまたお洒落な椅子が向かい合わせに置かれていて、さながら高級レストランだ。さりげなく猫ハウスも豪華になっていて、ショコラはその中で丸くなって眠っている。つい脳内でリフォーム番組のように説明してしまうほど混乱していた。
「漂ってくる香りから、最高のケーキが出来た気がしたからな。最高のケーキには敬意を表し、最高の環境で食べなければならん」
「……意味がわからない」
「ふん、低俗な頭では理解できまい。志穂はさっさとケーキを置け」
席についたガトーの前には、いつものケーキセットが置かれている。私の席にもティーカップが置かれているので、紅茶を分けてくれるのだろう。よく見ればそのティーカップも見たことがないもので、花の模様や縁にある金がまばゆい。
どこから持ってきたかは考えないようにしようと私はお皿を置き、椅子に座った。そしてランクが上がっているケーキ用のフォークを手に取って、シフォンケーキを小さく切る。まだ味見をしていないから、食べるのにドキドキする。置いているだけで紅茶の香りが広がって、私は期待半分、不安半分でぱくりとケーキを口に入れた。
「……うわぁ」
口から鼻に抜ける紅茶の香りは爽やかで深みがある。それは舌の上にも広がって、砂糖とミルクの優しい甘さに包まれる。まるでミルクティーを飲んでいるようなのに、小麦のかすかな香りがケーキだと主張していた。ふわふわで、しっとり、雲を噛んでいるようだ。私が目指している最高のシフォンケーキ。
「おいしい」
思わず笑顔になって、二口、三口と食べ進めた。ガトーは私の顔を見て微笑を浮かべて、ケーキを切り分け口に運ぶ。
「凡庸な舌でもおいしさを理解したか……ほう」
そして無言のまま二口目、三口目と手が止まらなかった。
「あの悪魔を仕留めた甲斐があったな。今までで一番うまい」
「仕留めたって、やっぱり危ないことしたの?」
いつの間にか頬の傷が治っている。
「まさか、いたって穏やかな話しあいだ」
にこやかな笑みを浮かべているけどうさんくさい。そもそも悪魔同士で穏やかって何って思う。でも、掘り下げるととさらに面倒だから大人の微笑で流しておいた。しばらく二人とも無言で食べる。それぐらいおいしかった。
私は食べ終わるとフォークを置き、二つ目のケーキを食べているガトーへ視線を向ける。
「ガトー、ありがとう。おかげでおいしいケーキができたわ。絶対うちの看板商品になるわよ!」
「……当然だ。俺が協力したのだから、それぐらいの結果は出る」
偉そうな言い方だけど、嬉しいのか頬が緩んでいる。最近ガトーの表情が読めるようになってきた。イケメンだわぁと思いながら眺めていると、三つ目のケーキを食べ始めた。本当に底なしだ。
「そんなにケーキが好きなら、今度一流店のケーキを買ってきてあげようか?」
悔しいけれど、材料の違いもあるがスキルもそこまで到達できていない。ガトーも私のケーキばかりだと飽きるかなと思ったのだけど、ガトーは不満そうに表情を曇らせた。
「……別に、俺はお前のケーキが好きだから、いらない」
そう落とすように呟き紅茶をすすった後、ふと何かに気づいたように目を開いた。
「あ、となると、店が人気になってケーキが売れたら、俺の分が無くなるのか……それは困るな、このケーキは門外不出に……それに明日になったら……」
ぶつぶつと独り言のように言っているが、全部聞こえている。でもその内容につっこみを入れるより前に、ガトーの言葉がじわじわと染みこんできて顔が熱くなった。
(……私の、ケーキが好き)
職人冥利に尽きる言葉だけど、お客さんにおいしかったと言われるのとは違う嬉しさがあって、少し戸惑う。
(な、なによ。ガトーなのに、悪魔のくせに……あ、悪魔だから人の心を惑わすのか)
思考が逸れていって、考えはまとまらない。忘れてしまっていた甘酸っぱさが胸の内に広がって、私は慌てて立ち上がった。ここにいたら戻ってこられなくなりそうだ。
「あ、おい。話はまだ終わってない」
「……眠いから寝るわ」
時計は十二時を回っていて、私はガトーと顔を合わせずにそう言うとシャワーを浴びに向かった。いつもは私が寝る準備を始めると、散策してくると言ってガトーは姿を消すことが多い。あの悪魔の姿は他の人には見えないようで、気ままに夜の空を飛ぶらしい。そして朝になればガトーはショコラの中で眠りにつく。
だけど今日はシャワーを浴びて戻るとまだ部屋にいて、珍しくワインを飲んでいた。酔うと味覚が鈍くなるからと、あまり飲まないのだけど実によく似合っている。その絵画のような美しさに一瞬見惚れてしまい、だめだめと頭を横に振った。絶対悪魔は魅了のスキルを持っているなんて思いながら、ガトーの前を横切って寝室へ向かう。
「私は寝るね。ショコラもおやすみ~」
「志穂……」
悪魔と暮らして一か月もすれば置物も同然で、私は気にすることなく彼を残して眠る。ショコラが夜中に布団に入って来ることもあるので、ドアはいつも少し開けていた。大きな欠伸をして、最高のシフォンケーキが出来た達成感を噛みしめながら眠りに落ちていった……。