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捨て猫を拾ったら、悪魔が憑いていました。すっごく非現実的なんだけど、そう言う他しかたがない。拾った黒猫にショコラって名前をつけて、可愛がっていた夜。突然そいつは現れた。
背中には蝙蝠の羽、黒い長髪の隙間からは尖った耳、ニィっと笑う口には鋭い犬歯。悪魔だって理解した時には、襲い掛かられて背中を床に打ちつけてた。ショコラが威嚇する声を聞きながらここで死ぬんだと目をぎゅっと瞑ったよね。
三十手前でやっと自分の店を持てたのに、ここで死ぬなんてっとか、これは何死になるんだろうとか、頭の中は大混乱。「志穂」って美声に私の名前を呼ばれて、何で名前を知っているのと半泣きになった。
だけど、待てども待てどもその瞬間が来なくて、焦らしプレイなのって薄目を開けたら、不思議そうな顔で見下ろされていた。一瞬顔がきれいすぎて、命の危険があるのに見惚れてしまった。イケメン好きな自分を怒りたい。そして悪魔は顔を近づけると、犬のように嗅ぎだしてぽつりと、「甘い匂い」って。
そこから私は何を思ったのか、早口で自分がパティシエであることを話し、興味がケーキにそれたことをいいことに、持って上がっていた余りもののケーキを代わりに差し出した。すると、悪魔はたいそう気に入り、その日から毎晩現れてはケーキを食べるのだ。
そんな奇妙な生活が一か月ほど続いていた……。
「ぎゃっ」
お腹の上に痛みを感じて、私は目を覚ます。もうそんな時間かぁと思いながら、寝返りを打てない幸せな重みに目を開けた。
「んあ~。ショコラ、おはよ」
喉を鳴らしながら体の上を歩いてくる肉球の感触が、薄いタオルケットごしに伝わって来て愛しい。ぬっと顔を覗き込んでくるショコラは、丸い目で早くご飯を用意しろと催促している。今日も可愛いなぁとにやけ、撫でようと手を伸ばしたら体の上から飛び降りていった。地味に痛い。
ショコラは拾った時点で、すでに立派な大人だった。痩せていたのが可愛そうでたくさんご飯をあげていたからちょっとぽっちゃりしている。そんなところも可愛い。
「今行きますよ~」
ショコラを拾ってからは目覚ましいらずで、しっかり早朝に起こしてくれる。窓の外はまだ薄暗いけれど、これが私のいつもの起床時間。眠い目をこすりながらベッドから出て、身支度の前にショコラの餌をあげる。最初に猫缶ばかりあげていたせいか、キャットフードがお気に召さないらしく食べてくれない。贅沢な猫様だ。
あくびをしながら猫缶を開けてお皿に移していると、まだかと鳴く声がする。
「はいはい、少々お待ちください」
猫を飼っている友達からは甘やかしすぎたと呆れられたけど、可愛いのだもの仕方がない。猫の前では人間なんて下僕にすぎない。
「はいどうぞ」
ショコラの前に三ツ星ツナを置けば、むしゃむしゃとおいしそうに食べてくれる。その様子を見ているだけで目元は緩むし、へへへと変な声も出る。猫がいるだけで人生幸せだ。小さい頃から猫が好きだったけど、なかなか飼えなかったから捨てられているショコラを見た時は運命だと思った。
(まぁ、悪魔がくっついてくるとは思わなったけど……)
考えたくない現実に引き戻されかけたので、慌てて目を逸らす。私は頭を起こすために顔を洗い、軽く朝ごはんを食べた。そして朝の仕込みのために支度をする。
「ショコラはお留守番ね」
行く前に一撫でと手を伸ばしたら、ショコラはご飯を出した私にはもう用はないとでも言うように、お気にいりの猫ハウスへと向かった。宙に浮いた手が虚しいけれど、こんなことではめげない。
「さぁ、今日もおいしいケーキを作りますか!」
気合を入れてから、二階のドアのカギをかけた。ショコラが下に降りないように、ホームセンターで買って付けたものだ。下の厨房へ降りると、休憩室で仕事着に着替える。パティシエという仕事上、猫の毛には敏感にならないといけない。
パティシエは子どものころからの夢で、フランスのパリで五年間修業した。半年前に日本に戻って、この店をオープンさせたばかりだ。
(おいしいケーキ、おいしいケーキ)
私は開店時間に間に合うように、せっせとケーキを作っていく。材料を混ぜあわせていくのはけっこう重労働だけど、オーブンを開けてうまく焼けたら飛び上がりたくなるくらい嬉しい。デコレーションも全く同じものはできなくて、その日ごとに顔が違うのが面白い。
店が開いたら、常連さんや、お祝い事があってケーキを買う人、予約をしてくれた人が来てくれる。まだオープンして半年だから、あまり知名度はないけれど、地域の中で上手くやっているとは思う。
(まぁ、もう少しお客さん来てほしいけどね)
暇な時間もあるし、もっとたくさんの人にお店のことを知ってもらいたい。SNSもしているけれど、そう簡単に客足に繋がるようなものでもなかった。少し時間が空いたので、スマホを取り出しておすすめのケーキの写真をSNSにあげる。
(今日のおすすめは、ふわふわのシフォンケーキっと)
シフォンケーキはこの店の人気商品で、私の得意なケーキの一つ。何より、お母さんがシフォンケーキが大好きすぎて、私の名前を志穂にしたから、お姉さんみたいなケーキがだと思っている。ふわふわなのにしっとりした食感がたまらないし、形も可愛らしい。
そうして新作のケーキを試作したり、急遽注文が入ったケーキを焼いたりしていたら、あっと言う間に閉店時間になる。陽が落ち、店の後片付けを終わらせると、私はため息をついた。
(今日も、残っちゃったや……)
大きな皿の上に売れ残ってしまったケーキを乗せていると、売ってあげられなくてごめんねと悲しい気持ちになってくる。余ったなら食べればいいのだけど、パティシエは重労働とはいえ、毎日味見もあるしケーキばかり食べたくない。何より太ってしまう。
(けど……あいつに食べさせるのも、どうかと思うんだけど)
厨房の灯りを落とし、仕事着から部屋着に着替えると二階へと続く階段を見上げた。ただの一直線の階段なのだけど、この先にボスでもいるような雰囲気が漂っている気がする。少し上がるのをためらっていると、そんな私の気配を察したのかドアを爪でひっかく音がした。その中にグラスを弾く音が混じる。早く来いと言うことなのだろう。
(私は使用人か!)
使用人どころか奴隷ぐらいにしか思われていないような気もする。私は仕方がないと腹をくくり、階段を上るのだった。そして鍵を開けて部屋に入れば、足元にショコラがすり寄って来て、薄闇の中に気配が動く。