4.アカネ、なぞときをする
壁に書かれた" ホ ニ ト イ ハ ロ ヘ "の文字。
それ以外には、何の文章も書かれていない。
白色の壁を、何かで削って書いたみたい。
うっかり見落としてしまいそうなほど、目立たない。
さっきも、あったのかな。
ひとまず写真は撮ったけど。
「いろは歌だったら、イロハニホヘト?」
それなら簡単だけど、あまりにも簡単すぎる。
ひねりがない。別になくてもいいけど。
「んー、そうねェ……」
アヤトキが、ガサガサと紙を広げた。
そこには、"正しく並び替えよ"以外の文字はない。
「んんー……音楽に関係あるハズよねェ、きっと」
「音楽って言っても。いろは歌なんて、歌えないよ」
おばあちゃんなら歌えそうだけど。
いろはにほへと、ちりぬるを、だっけかな。
わかんない。そもそも正解か不正解かもわかんない。
アヤトキは人差し指と中指で唇をいじりながら、紙とにらめっこしている。
「……ならびかえ、ならびかえねェ……」
何も、ひらめかない。
ピアノの部屋に向かって歩き出すと、アヤトキもついてきた。
本当にひとりになりたくないっぽい。
「あ。もしかして、ピアノで弾けってこと?」
「そーなのォ? ピアノは弾ける?」
「弾けない」
「ダメじゃないのー」
ピアノの部屋に辿り着く。やっぱり誰もいない。
アヤトキは、多少きょろきょろしながらだけど、今度はちゃんと入ってきた。
「アヤトキは?」
「ピアノ? やだ、無理よー。せいぜい音階がわかるくらいね」
「だめじゃん」
ダメダメコンビすぎる。
ピアノの前に立つと、楽譜が立てかけられていることに気づいた。
さっき、こんなのあったかな。
楽譜に気づいたアヤトキは、手元の紙を折りたたみながら笑った。
「楽譜は読めるけど、弾けないのよねェー。指がついて来ないの」
「習ってたの?」
「そーよ。ちょっとだけね。でも、嫌になって、すぐやめちゃったのよ」
「ふぅん?」
習っていたなら、簡単な音くらい弾けそうなものだけど。
そうでもないのかな。
ピアノなんて、クラスの誰かが弾くものであって、自分でどうにかするものじゃない。
少なくとも、私は習おうだなんて、そもそも思わない。
楽譜だってそうだ。一番下の線がミから始まるのが、引っかかって既に嫌だ。
「……あら?」
「なに、どうしたの?」
「もしかして……音階かも」
「え、何が?」
「さっきのアレよ」
ああ、文字のことか。
スマホをいじって、撮ったばかりの写真を出した。
"ホニトイハロヘ"
これ自体に、意味なんてなさそうだけど。
「これ?」
写真を見せると、アヤトキはうなづいてピアノのイスに座った。
そして、鍵盤に手を乗せる。
「音階ってねェ、アルファベットに置き換えられるの。確か、日本語だと"いろは"になったハズ……」
「うん? ドレミじゃなくて?」
「ドレミは、もともとイタリア語なのよ」
へえ、知らなかった。私的には、完全に豆知識。
アヤトキは、鍵盤に指を添えて何か考え始めた。
「んんー……確かねェ、ドが、ハ、だったのよ」
「うん? イロハの順番じゃないの?」
「そう、違った気がするのよねェ」
だからキライなんだ、音楽。
いちいちこう、とにかく難しいんだよね。
アヤトキが、ドレミファソと順番に鍵盤を押す。
それくらいなら、私だってわかる。幼稚園のとき、鍵盤ハーモニカさせられたもん。
「これが、イロハね」
そう言いながら、ラシドの音を順番に出された。
「えっと、じゃあ……は、に、ほ、へ、と、い、ろ、は、ってこと?」
正しい順番っていうのが、音階の方なのか。
それとも、いろは歌の方なのか。
「そーゆーことになると思──」
アヤトキが頷きながら、ドレミファソラシドを鳴らした直後、真後ろでガシャンッと何かが落ちた。
ビクッと肩が跳ね上がる。
振り返ると、音楽家の肖像画がひとつ落ちていた。心臓に悪い。
「あーあぁ、割れちゃってる……」
しかも、額縁が外れて表のガラスが割れていた。
これはもう、どうしようもない。触ったわけではないけど。
割れた肖像画は、白い髪のおじさん。
見たことはあるけど、誰だったかな。名前は、全然だめ。思い出せない。
アヤトキを振り返ると、ピアノの下に潜り込んでいた。
「地震かッ!」
かなり窮屈そう。あの身長じゃ、狭いだろうとも。
「だだだ、だってェ……ホントーに怖いんだものっ、仕方ないじゃないっ!」
「もー、いいから出てきて」
「やだっ、もうっ、引っ張らないで!」
スキンヘッドオネエ、めんどくさすぎる。
腕を持って引っ張り出してやった。
「ここ絶対お化けがいるのよォッ!」
「いない!」
半べそオネエを全力で否定してやった。
意味がわからないことは起きるけど、おばけとか妖怪とか考え始めたら怖い。
とにかく全力で否定するしかない。
音がきっかけで落ちたなら、何かありそうだけど。
でも、割れた肖像画そのものには何もなかった。
見落としてるかもしれないけど、ビビるアヤトキには二度目の調査とか無理そうだし。
「ハニホヘトイロハで、ドレミファソラシド、だよね?」
「そ、そうねェ」
「じゃあ……」
もう一度、写真を見た。
書かれていたのは、"ホニトイハロヘ"で、これをドレミに直すとして。
「えぇっと、ホはミで……ミ、レ、ソ、ラ、ド、シ、ファ、かな? 弾いてみて」
そう言った瞬間、アヤトキはものすごい勢いで立ち上がった。
「ドはふたつあるのよッ!」
「いいからっ! どっちも弾けばいいじゃん!」
「やっ! アンタが弾いてちょうだいっ!」
「わかんないんだもんっ」
「教えるからっ!」
声を荒くしたアヤトキは、私を無理やりイスに座らせた。
掴まれた肩が、すごく痛い。
確実に、ばか力だ。痛いったら痛い。
「ここからドが始まって、順番よっ! じゅんばんっ!」
教え方は、引くほど雑だった。
でも、アヤトキがやってくれないなら仕方ない。
これがヒントというか、手段かもしれないんだから、やらないと進めないわけだし。
「じゃあ、いくよ。えっと、ミ、レ、ソ……」
「違うわっ、そこはファよッ」
「えぇ? もう、じゃあ、ミ、レ、ソ、ラ、え、どれだっけ」
「んもうっ、早く終わりたいのにーっ」
アヤトキがうるさい。
だって、ドレミの順番で覚えてるから、それが入れ替わるとどこかわかんないんだよ。
ピアノ弾けない人、あるあるだと思うんだけどなぁ。
ちらりと視線を向けると、アヤトキは両手で頬を覆っていた。
かわいこぶんなし。
「こうよっ、ミレソラドシファ!」
手を伸ばしてきたアヤトキが、口でいいからすばやく鍵盤を押す。
すると、手が離れた直後に、また背後の壁から肖像画が落ちた。
今度は少し覚悟していたから、驚きはない。
アヤトキが、ものすごい速さでピアノの下に潜り込んだこと以外には。
「……」
他人がこれだけビビっていると、むしろ冷静になれそう。
立ち上がって肖像画のところに行く。
やっぱり割れちゃってた。
「あーあぁ、また壊れて……ん?」
今度は、白いものがはみ出している。
屈んでよく見ると、肖像画と額縁の間に何かあるみたい。
割れたガラス片に触らないように額縁を持ち上げると、肖像画の裏から紙が出てきた。
「アヤトキー、紙が出てきたよ」
「誰の!?」
「髪じゃなく」
肖像画から髪の毛が出てきたら、もっと悲鳴とか出すだろ。
ピアノの下に引っ込んでいるアヤトキのところに戻ると、怪訝そうな顔をされた。
屈んでピアノの下を覗き込む。
すっごく狭そう。
「アンタ、よくへーきね……」
「まぁ、うん。誰かさんがね、過剰反応するからね」
平気ではないけど。
全然平気ではないけど、仕方がない。
本当だったらやって欲しいけど、動けそうにないし。
ため息をつくと、アヤトキはハッと目を見開いた。
何だよ。
「も、もしかしてッ、アンタが仕組んだんじゃ……」
「そういうこと言ってると、ガチで置いていくからな」
永遠にひとりで震えてろ。
立ち上がると、アヤトキはすぐに這い出てきた。
「やだっ、うそうそっ、うそよアカネちゃん。愛してるわっ」
「やめて気持ち悪い」
リアクションが極端すぎる。
きれいに折られた紙を広げると、そこにも文字が書いてあった。
「……"ひとつ目の頭文字、最初の声がふたつ。音を奏でる影"?」
何だこれ。
どういう意味だろ。
アヤトキにも見せると、首を傾げたあとに横に振られた。
「"ひとつ目の頭文字"ってことは、イニシャル? Aかな……」
「やだっ、アカネちゃん冴えてるわっ」
「んで、"音を奏でる"っていうのは、楽器だよね……」
「いいわっ、アカネちゃん! デキる子ねっ!」
「合いの手いらないんだけど」
持ち上げようとしているのかもしれないけど、逆効果すぎる。
隣から紙を覗き込んでいたアヤトキが、ぐっと姿勢を戻す。
一気に顔が遠くなった。
やっぱり、背が高い。
「残りは、"最初の声"ねェ……ド?」
「Aとド?」
「エド……?」
「ないな」
そんな名前の楽器があるなら別だけど。
少なくとも、和系の楽器は見当たらなかった。気がする。
楽器の写真を順番に眺めつつ、アヤトキにも画面を見せてみた。
「江戸時代の楽器とか?」
「やァだー、そこまでの知識はないわ」
「まず、知識がある人って思ってないから」
むしろ現時点だと、ただの怖がる人だよ。
スキンヘッドでチャイスドレスでアネエでビビりだよ。
もう個性が渋滞して大変なことになってるよ。
「江戸時代に海外で生まれた楽器だったら、もう全くのお手上げねェ」
「ホントにね。楽器の影に、何かあるのかな? 動かしてみる?」
「嫌よッ、不正解で何かされたらどうするのッ!?」
「誰にだよ」
いきなり大声になるの、本気でやめてほしい。
何かされるって誰にだよ。誰もいないっての。いて欲しくないっての。
写真をひとつずつ流して楽器を一巡りする。
名前の知らない楽器は、こうやって見ても何も思い出せない。
だめだ。ヒントがない。
「ドって、別の言い方ある?」
「さっきやったじゃないの。いろはのハよ」
「エハ?」
「ハエ?」
ないな。
ハエの置き物とかあったならまだしも。
いや、いやだな。ハエの置き物。趣味の悪さがずば抜けてる。
ハエがモチーフの楽器とか、あったとしても思いつかないしなぁ。
「やだ、待って。"最初の声がふたつ"だから、ハハ?」
「母? ママってこと?」
だとしても、ドとの繋がりは不明だけど。
ママ。母。マザー。
言い方を変えても、ピンと来ない。
「アタシ、ママがふたりいるのよね」
アヤトキがいきなり重たいことをぶっこんで来た。
「そういうヘビーな話いらない」
「実家とお店に」
「そっちのママかよ」
結構余裕あるな、オネエ。
怖がってるのはうそなのか、もしかして。
「真面目に考えてよ」
「考えてるわよォーっ、ちょっと和ませようとしただけじゃないッ」
「和むかッ!!」
オネエジョークなのかもしれないけど、全く和まなかった。
一瞬、ガチで重たい系の話かと思っちゃったくらい。
はーっと、長めにため息をつく。
すると、アヤトキはちょっと真面目そうな顔をした。
「でも、ドの言い換えは有り得そうねェ……アルファベットだと、Cね」
「AC?」
そんなのCMくらいしか思い浮かばない。
首を傾げると、アヤトキは鍵盤を撫でて、ひとつの音を何度か鳴らした。
「ACCだとしても、やっぱり意味わかんない」
「アカネちゃん。さっき、どうしてAだと思ったって?」
「聞いてなかったの? イニシャルかなって」
頭文字って書いてあったから、そうかと思っただけ。
それが正解かなんて、全くわからないし。
アヤトキは、まだ少し難しそうにしていたけど。
急に勢いよく顔を上げた。
「……アコーディオンだわッ!」
「そうなの?」
言われても、全くピンと来ない。
でも、アヤトキは自信満々だ。
ぐっと握りこぶしを作ってから、廊下へと向かう。
私も、その後を追いかける。
「どうしてアコーディオン?」
「楽譜上で、アコーディオンを表す略記号がA.CCなの。だから、もしかしたらって」
「なるほどー」
なんとなく、そうかもしれないって気持ちになってきた。
いいぞいいぞ。順調っぽい。
楽器の部屋に入ってすぐ、アヤトキはアコーディオンを探し始めた。
これでなかったとかだったら、また解き直しになっちゃう。
私はどれがアコーディオンなのかわかんないから、見てるだけ。
「ちょっとォー、探してよォッ」
「だって、どれかわかんないもん」
「アコーディオンカーテンに似たヤツよ!」
アコーディオンカーテン。
何だっけそれ。
わからないのが顔に出たみたいで、アヤトキは「もうッ」と向き直ってきた。
「ジャバラになったカーテンよッ、見たことあるでしょ!」
「じゃばら?」
「わかんないのッ!? やだもうっ、ジャネギャッ!」
やっぱり、あれは悲鳴なのかな。
両手で頭を覆って仰け反ったアヤトキは、つかつかと歩み寄ってきた。
この時間に探したほうが早いと思う。
「蛇腹折りよ。山折り谷折りを繰り返すのッ」
「あー……」
「ついたて! パーテーションよっ!」
「パーテーションって、折ってなくない?」
「……」
アヤトキ、とうとう心が折れたっぽい。
ぴんと来ない私も悪いけど、アヤトキの説明も悪いと思う。
がくりと頭を下げたアヤトキだったけど、すぐに顔を上げた。
回復が早い。
そして、また部屋の奥に向かって探し始めた。
私はそれを、入り口から見て待っている状態。
「これよッ!」
ガバッと何かを持ち上げた。
ピアノの鍵盤がついた、箱みたいなやつだ。
どこが、ジャバラなんだろ。
「カーテンって?」
「これを広げたら、ジャバラになってるのよ。見てなさいッ」
部屋の中央まで戻ってきたアヤトキが、箱の側面を持って左右に広げた。
すると、その中から本と鍵が落ちる。
そのまま、左右に広げた部分はパコッと取れちゃった。
「……」
「……」
揃って沈黙。
不法侵入なうえに、器物損壊になっちゃった。