マカロン・デイ
1
白を基調とした空間には甘い空気が漂っている。
三月上旬、デパートの地下。
ホワイトデーを意識した売り場には、色とりどりの商品が並べられている。
チョコレートにクッキー、プチケーキ。
ショーケースに並べられたそれらはどれもきらびやかで、普段は甘いものを食べない僕でも、宝石箱を眺めているような気分になった。
ふと見回してみれば、フロアはどこか場慣れしていない男性客が多い。
かくいう僕も、第三者から見れば場違いな男性客の一人なのだろう。
職場でもらったバレンタインデーのお返しを準備するというミッションは、色々とお菓子を選べるという楽しみはあるものの、忙しい仕事の合間を縫って準備しなければならないから、少し億劫ではある。
一カ月前にチョコレートを準備してくれた女性陣も、同じようなことを思ったのだろうか。
学生時代に全くといっていいほどモテなかった僕からすると、仕事を始めて職場で最初にチョコレートをもらった時は、本当に嬉しかった。
職場の同期が代表として渡してくれたチョコレートは、甘いものに詳しくない僕でも知っているような有名ブランドの高級チョコレートで、こんなに素敵なチョコレートをもらえるくらいに自分も大人になったのだと、急に誇らしいような訳の分からない気分になったのを今でも覚えている。
そして、チョコレートに込められた職場全体からの「好意」を、その同僚の個人的な好意であるかのように錯覚したものだ。
結局、錯覚は錯覚でしかなかったのだが、一日だけでも浮かれることができたのは僕にとって幸せだった。
月日は流れ、僕も毎年行なわれるこの事業の意図を理解できてきたつもりだ。
そしてその事業に割かれる労力と効果を思うと、別に辞めてしまってもよいとひそかに思うようになってきた。
普段食べないチョコレートを二月十四日だけは食べるようになるはずもなく、ありがたく頂いたチョコレートは全て妻や娘の胃袋に消える。
僕が一カ月後に準備するお礼は、大多数のその他大勢のお礼と混ざり、それほど歓迎されるわけでもない。
「義理」という言葉だけで片付けるには、この事業に割く労力は、明らかに効果に見合っていない。
ショーケースに並んだクッキーを眺めて、店員さんに聞かれない程度のため息をついた僕は、そこで「それでも」と思い直した。
今年のバレンタインデーはそれだけではなかった。
僕は娘が妻と二人で作ったというガトーショコラを思い出していた。
「お父さんにはあげない」
と、いつも僕を冷たくあしらってきた娘が、ついに僕にケーキを焼いてくれたのだった。
娘としては、別に特別な意図はなかったかもしれない。
小学四年生から塾に通って頑張ってきていた中学受験が彼女なりの成功で終わり、すこし時間ができたから焼いただけという程度のきっかけだったのかも知れない。
それでも、口を開けば憎まれ口ばかりを言うようになった生意気な娘が、妻と協力して焼いたガトーショコラは若干甘さが足りなかったけれども、十二年分の思いが込められているような気がした。
黙って突き出されるように渡されたガトーショコラの味を、僕はまだありありと思い出すことができる。
お礼をするとしたら、義理チョコに対するお礼と同じにはしたくない。
「君は僕にとって特別な人」だという意図が少しでも伝わるお礼にしたい。
口の中でふわりと広がる甘さに幸せをかみしめるような、そんな可愛くて美味しい素敵なお菓子を渡したい。
職場用のクッキーアソートを手早く購入した僕は、ひとつだけあった心当たりをめざしてフロアを移動した。
ただ、ひとつだけ気がかりがあった。
それは僕と娘の間に生じたわだかまりであり、そのことを思うとやっぱり気分は重くなった。
バレンタインデーに渡してくれたガトーショコラは、多少僕の後ろめたさを緩和させてくれたとは言え、まだ僕と娘はお互いにしっかりと話をすることができていなかった。
理由はよくわかっている。
四月から僕が単身赴任することを、娘はまだ許してくれていない。
2
僕の単身赴任が決まったのは昨年の九月だった。
上司から急に呼び出され、何事かと思って駆けつけて、伝えられたのは四月からの異動命令だった。
正直に言えば、その異動先は魅力的だった。
というか、僕が常々望んでいた職場だった。
どうせ仕事をするのなら、僕にしかできない仕事がしたい。
ずっとそう思ってきた僕にとって、その職場でできる仕事はまさに僕のためにうってつけの仕事だった。
他にその職場を希望している同僚もおらず、職場内の変な出世レースから抜け出せるのも魅力だった。
他人を押しのけて多くの仕事をこなし、ひたすら上をめざし続ける生き方は、僕の生き方ではない。
上司の方も僕のそんな意志を察してくれて、今回の異動を斡旋してくれたのだ。
僕は二つ返事で快諾した。
けれど、この異動にはひとつ大きな問題点があった。
その職場があるのは関東圏内とはいえ都心からは遠い。
今住んでいる家から通勤することはできない。
しかし、僕には最近になって職場に復帰した妻と、中学受験を控えた娘がいる。
彼女達に、僕だけの都合で僕についてきて生活を変えろと言うのは、現実的ではない。
特に中学受験で都内の進学校をめざしている娘に、片道二時間をかけての通学を強要するのは、例え家族は同居すべきという大義名分を振りかざすにしても明らかに理不尽が過ぎた。
この異動話を最初に妻に伝えたのは、上司から異動命令が出た翌日だった。
改まって話がしたいと申し出た僕に付き合ってくれた妻は、当然、反対した。
けれど、その一方でこの移動命令が僕にとってずっと望んできた異動だったこと、そもそも「命令」としてくだされている以上反抗は実質不可能であることも分かっていた。
恋人として過ごした期間も含めて実に十五年の歳月をともに過ごした彼女は、最終的に、都内での住居は妻が好きに選んで良いこと、妻は時々抜き打ちで僕の単身寮を訪れること、週末拘束されていなければ必ず東京に戻ってくることを条件として提示した。
交渉において、条件を提示することは半ば承諾の意志を示したことに等しい。
この話し合いは建設的に速やかに着地点を迎えた。
しかし、問題は娘だった。
この時期、受験前最後の夏期講習を終えて追い込みの時期に入った娘は確実にピリピリとしていた。
朝の寝起きが不機嫌なのは言うまでもなく、僕がリビングでするちょっとした世間話にも過剰に反応して怒りをぶちまけることさえあった。
机に向かって勉強しているようで、わき起こる不安に駆られて何も手につかない日もあるようだった。
そんなときに僕が不用意な言葉を言ったとすれば…想像するだけでも恐ろしい。
それでも僕は、娘を応援せずにはいられなかった。
妻との協議の結果、僕の異動話は中学受験が終わるまでは娘に対して秘匿とすることが決定された。
彼女は彼女の闘いを憂いなく全うできればそれでいい。
結果の如何に関わらず、本当に不安定な毎日を乗り切って全力を出し切れたのなら、それこそが最大の財産に他ならない。
そのためにも、父親としては最善の環境作りに協力をしてあげたかった。
そんな僕たちの思いとは無関係に、娘はその強い意志でたゆまぬ努力を続け、ついに運命の二月を迎えた。
第一志望校の受験日にはさすがに緊張した面持ちで、試験会場に向かう表情の険しさに僕は思わず大きな声で「自分を信じて!」と叫ばずにはいられなかった。
振り返った時の娘の、恥ずかしそうなはにかみを、僕は祈るような思いで見つめ返した。
そしてその翌日、彼女は見事に合格を勝ち取った。
合格発表の掲示を見つめながら僕は娘を誇らしく思ったけれど、その一方で必然的に発生する別離を娘にどう伝えるか考えて暗澹たる気分になった。
3
結局、僕が娘に単身赴任の必要性を伝えたのは合格発表の一週間後だった。
合格発表後の余韻に浸って毎日を楽しそうに過ごしていた彼女にとっては、まさに寝耳に水だったのだろう。
僕はなるべく娘にも理解してもらいたくて、必死に何度も説明した。
今日まで頑張ってきた娘のことを、誰よりも尊重して、大切に思っていること。
それでも、どうしても仕事で僕が遠くにいかなければならないこと。
そこに娘を連れていって、長時間の通学を強要するわけにはいかないこと。
そしてたとえどれだけ距離が離れていても、僕が娘のことを大切に思っていることは変わらないし、助けが必要な時にはいつでも力になることを誓うこと。
僕は何度も繰り返し説明した。
けれど、娘の表情は険しいままだった。
決して「わかった」の一言は言わなかった。
取り乱すわけでもないけれど、決して受容したわけでもない、娘のかたくなな態度は結局変わらず、最後は自分の部屋にこもって僕の言葉を強制的に遮断した。
翌朝も、その翌朝も娘は僕と口をきかなかった。
目もあわせてくれなかった。
唯一の頼みの綱は、妻だった。
さすがに僕がいる前では妻も黙っていたけれど、僕のいない時間に娘と話し合いを繰り返してくれたらしい。
娘が部屋にこもった後、妻はこっそりと僕に打ち明けてくれた。
「結局、時間が解決してくれるのを待つしかないよ」
落ち込んでいる僕に、妻は何度もそう言ってくれた。
思い返せば、僕が娘とこんなにも仲違いをするのはこの時が初めてだった。
仕事が忙しくて娘と向き合う時間が十分だったとは思えなかったけれど、それでも娘は僕と仲良くしてくれていると思っていた。
休日に出かける時には妻とよりも僕と手を繋ぎたがる娘だった。
公園に出かけるのも妻とよりも僕と行くことを好む娘だった。
これは僕のささやかな自慢だけれど、娘が自転車に乗れるようになったのを見届けたのは何を隠そう僕だった。
娘が逆上がりをできるようになったのを見届けたのも僕だった。
娘は何かができるようになる瞬間を僕に見てもらいたがったし、僕もそんな娘の喜ぶ顔を見るのが好きだった。
妻が仕事を再開してからは娘と二人だけで食事をすることも多くなった。
僕が料理をすることもあって、娘は僕が作った料理を決まって美味しそうに食べてくれた。
カレーライスだったら、妻が作るカレーライスよりも僕が作るカレーライスの方が好きだと言って僕の機嫌をとってくれたこともあった。
娘と二人で外食に行った時には、普段以上に僕に甘えて色々とおねだりをする娘だった。
いつだったか二人で寿司を食べにいった時には、生意気にもわさび抜きの大トロを注文して板前さんと僕を多いに驚かせたものだった。
ファミリーレストランでは食後に苺のパフェまで注文して、しかもそれを一人でぺろりと食べてしまった。
別に甘やかしていたつもりもないし、友達感覚の親子関係になろうと思っていたわけでもない。
それでも、僕と娘はこれまでそれほど大きな衝突もしなかったし、する必要もなかった。
もちろん、多少の言い合いをすることはあっても、翌日になればまた笑ってふざけ合うことができた。
もちろん、思春期になればどんな女の子だって父親と距離をとりたがるものだというのも理解はしているつもりだった。
それでも、気持ちのどこかでは繫がりを維持できるものだと楽観していた。
僕の父親としての愛情は伝わるものだと思っていた。
僕が娘を大切に思う気持ちはいつだって伝わっていると思っていたし、その気持ちは変わらないと信じてもらえていると思っていた。
結局、そんなのは僕の一方的で勝手な思い込みだったのだ。
そんな殺伐とした空気のまま、我が家はバレンタインデーを迎えた。
いつも通りに出勤し、仕事自体はいつも通りに終えて家路をめざす僕の足取りは重かった。
けれど、職場でもらったチョコレートを抱えてリビングに入ったとき、部屋に甘い匂いが漂っているのに気がついた。
妻は少し意味有りげな微笑みを浮かべている。
いつもとは違う匂いに、僕は少しだけ身構えた。
そのとき、娘が部屋からゆっくりと出てきた。
手には何やらラッピングされた小箱を持っている。
娘は僕の目の前に立つと僕とは目を合わさずに黙ってその箱を突き出した。
妻は相変わらず黙ったまま微笑んでいる。
突然のことに、僕は何が起こったのか理解ができず、妻と娘の顔を交互に見た。
「早く受け取ってよ、せっかく作ったんだから」
ぶっきらぼうに放たれた娘の言葉で、僕はようやく事態を理解した。
「ありがとう、嬉しいよ」
感極まった僕は小箱を受け取って、そのまま娘を抱きしめようとした。
「うっとうしい」
娘はするりと僕からはなれると、そのまま自分の部屋に引きこもってしまった。
その日起こったことは本当にそれだけだった。
娘とかわした言葉はそれだけだった。
それでも僕はその日、娘との間にできたわだかまりの一部は解けたように感じたのだった。
残念ながら、本当に一部だけだったのだけれど。
4
その店舗に足を踏み入れると、途端に空気が変わったのを感じた。
薄い緑を基調とした店内の雰囲気はどこかふわっとしていて、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
フリルを多くあしらった制服姿の店員さんが立つカウンターのショーケースには色とりどりのマカロンが並んでいる。
ピスタッシュ、フランボワーズ、ショコラにシトロン。
整然と並んだ丸いマカロンは、眺めているだけでも楽しい。
娘の好みを思い出しながら、僕はどれを選ぼうかとショーケースの前に立った。
ホワイトデーのお返しには意味がある。
キャンディなら「あなたが好きです」
クッキーなら「あなたは友達」
キャラメルなら「あなたは一緒にいると安心する」
バームクーヘンなら「あなたとの関係が続くように」
マドレーヌなら「あなたともっと仲良くなりたい」
意外なところでは、マシュマロだと「あなたのことは好きではありません」となってしまうから注意が必要だ。
もちろん、意味なんて誰かが勝手に決めたことだし、その意味を共通認識として知っている相手にしか伝わらないけれど、ひとたびその意味を知ってしまったなら意識せざるを得ない。
そして、目の前にあるマカロンなら「あなたは特別な人」となる。
まさに、僕が娘と妻に伝えたいメッセージそのものになる。
言葉巧みに大切に思っている気持ちや、日頃の感謝の気持ちを伝えるのは難しい。
だからこそ人は、ささやかな贈物にも意味を込めて伝わって欲しいと願うものだ。
娘や妻が、ホワイトデーのお返しの意味を知っているかどうかは分からない。
それでも、きっと伝わる。
いや、伝えたいなら、これしかない。
そんな気がした。
「いらっしゃいませ、どちらになさいますか?」
可愛らしい制服の店員さんが営業スマイルで僕に声をかける。
僕はすかさず、チョコレート好きの妻にショコラフレーバーのマカロンを注文した。
「こちらのイチゴは季節のフレーバーになっております」
ショーケースにちょこんと並んだピンク色の可愛いマカロンは、きっと娘が喜んでくれるに違いない。
君の人生の節目をささやかでもいいから祝えるように。
新しいステージに進む君の背中をそっと押してあげられるように。
大人になっていく君が困難に立ち向かうとき、僕が必ず傍にいてあげられるとは限らない。
それでも、物理的に離れているということが、君に対する愛情を失ってしまったからではないということを、君には知っていてもらいたい。
例え離れていたとしても、僕はいつでも君のことを父親として愛しているということを、どうか覚えていて欲しい。
バレンタインデーのケーキ、ありがとう。
身勝手な父親である僕を許してくれとは言えないけれど、君は僕の特別な人という思いを込めて、僕は君にマカロンを渡したい。
読んでくださり、ありがとうございます。