妻がゾンビになって
その頃、いわゆる『ゾンビ病』の罹患者数は上昇を止め、終息に向かっていた。
映画などとは違い、パンデミックには到らなかったのだ。自衛隊・警察の尽力のお陰だろう。
噛みつかれたり引っ掻かれなければ感染しない。『ゾンビ病』が晩秋に発生した事も被害を抑える一因となった。
だけど……
「じゃあ…行ってくるよ」
「……貴方」
「買い物はしてくるから……外に出ない様にね」
そう言って僕は出社した。
『ゾンビ病』の特効薬は開発されていない。
致死率100%ではあるものの、空気感染・飛沫感染はしない事が判り、特効薬の開発より先に罹患者の隔離が優先された。
僕の妻には噛み痕がある。
『ゾンビ病』は終息に向かっているのに、何故……。
特効薬が開発されるまで妻は持たないだろう。
妻は迷惑をかけたくないと隔離施設へ行こうとしたが、僕は耐えられなかった。
ぎりぎりまで、妻の心臓が止まり自我が崩壊するぎりぎりまで諦めたくなかった。
────────
「で?どうしたい訳?」
昼休み。同僚のSが眉をしかめながら僕に訊いた。
「……なんとかしたい、なんとかしてやりたい」
Sの奥さんも噛まれた一人だ。
奥さんは心臓が止まっている。
でもSは奥さんを『処理』していない。本来なら隔離施設に併設された葬儀場──処理場──へ連れていかなければならないのだけど。
Sは奥さんの事を秘密にしている。
「俺のやり方は…止めた方がいい。見付かったら捕まるぞ」
「諦めたくないんだ」
Sは溜め息をついた。遠い目をしている。
自分が奥さんを助けようと足掻いていた頃を思い出している様だった。
「……先ずな?これから暑くなるだろ?臭ってくるぜ、心臓止まる前から。蝿をたからせない様にしなけりゃいけないし……あぁ!蚊が出るな!その対策も」
蚊は不味い。
心臓が止まっているゾンビに蚊は寄り付かないが、心臓が動いている内は不味い。
妻から感染を広める訳にはいかない。
「解った、蚊取り線香とか」
「蚊帳、蚊帳を吊るすのがいい。蝿も近寄れないだろ?蚊帳から出ない様にして……そうなるとおまるとかも必要だな」
「……余計に臭うだろ」
「消臭剤で誤魔化せ。俺はそうした」
病気の進行が激症化するかもしれない時期、Sは奥さんを椅子に縛りつけていたという。
おまるや消臭剤はその頃の知恵だそうだ。
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「ただいま」
「おかえりなさい」
いつもの挨拶。
妻はマスクを着けていた。
手にはミトン型の手袋をはめている。
「まだ早いよ、そういうのは」
「でも……恐いから」
まだ激症化するには早いし、人を襲う様になるのは心臓が止まってからだ。
妻はミトン型の手袋で包丁を握り、料理の下拵えをしようとしていた。
「駄目だよ、そんな事しなくても惣菜は買って来たから」
「でも……洗濯もお風呂掃除もやらせちゃって…お米も研げないし」
水回りをやらせると指がふやけて傷が出来る。妻は皮膚がもろくなってきているのだ。
少しでも血を流すと何が起こるか判らない。
最悪このマンションの他の住人が感染するかもしれないのだから。
「掃除機はかけられるだろ?それだけで充分……さ、晩御飯にしよう」
食後、僕はネットで蚊帳を探した。
────────
「だから……俺の真似は止しとけって」
Sは小声で言った。
あれから手に入れた蚊帳を吊るし、蚊取り線香、消臭剤、おまる、クッションの効いた椅子…
…取り合えず必要そうなものを蚊帳の中に用意した。
「なぁ、奥さんは今どうなってるんだ?」
Sに訊いてみる。
「見たいのか?……そうだな、見せた方がいいかもなお前の場合」
「僕の場合?」
Sは口を歪ませて笑った。
「見りゃ諦めがつくだろうからな」
────────
Sの家は一軒家だ。新興住宅地で周りにはまだ他に家が建っていない。
「ローンが残りまくってんだけどよ、女房の為にボロボロなんだ」
そう言いながらSは扉を開いた。言う程内装が痛んでいる様には見えなかった。
奥さんの部屋の扉を開ける時、Sが振り返って僕を見た。
「言っとくが、女房全裸だからな?」
「は?なんで?」
「服が擦れて傷になるからさ。あと、濡れてるから絡まる」
濡れて?絡まる?
その疑問は一目で理解した。
土の臭いがした。
床板が外してある。
特注品らしい硝子瓶が床下に置かれていた。それでも硝子瓶は天井に届きそうなくらいに大きい。
硝子瓶の中に透明なビニールシートが内張りされていた。瓶とシートの間には隙間が大きく取られている。
「水族館のマンボウの飼育でこうやってたんだ。硝子瓶に直接当たると女房が傷付くからな」
ボコッ
バコッ
Sの奥さん……だったものが、硝子瓶越しに僕達を見付けて襲おうとする。
ビニールシートがたわんで音を立てた。
「腐らない様にホルマリン漬けにしてある。呼吸してないしな……こんな風に暴れるから服が絡まるだろ?だから裸にした」
淡々としたSの声が部屋に響いた。
僕はSを見た。Sは熱にうかされた様に奥さんを見詰めている。
やがて僕に言った。
「お前、ここまで出来るのか?……やるつもりなら硝子瓶造った業者紹介するぜ?」
僕は唾を呑み込んだ。耳鳴りがする様な静けさの中、奥さんが立てるボコッ、バコッという音だけが聴こえる。
「な……なんで、こんな」
「なんで?お前だって奥さん隔離施設に連れて行って無いだろ?……俺は女房を焼かれたくない…動いてるんだぞ!?」
Sは激昂する。
「動いてる!見ろ!動いてるんだ!自我が無くなるなんて確かめようが無いだろ!俺の事判ってるかもしれないだろ!焼けるか!?」
「……だ、だけど」
「俺の事狂ってると思ってんだろ?……あぁ!狂ってるさ!だからどうした、お前だって奥さんこうしたいんだろ?隔離施設に連れてってないもんな、お前がしてる事は俺が通った道だ!」
Sはぜいぜいと息を荒げ、しばらく膝に手をあてていた。
「……悪いコト言わねぇ、奥さん隔離施設に連れていきな?」
────────
妻の瞳が白濁してきた。
唇がかさつき、ひび割れている。
腕についた噛み痕が膿んで黄色い汁を垂らしている。
「貴方……隔離施設に行くわ」
僕は妻を乗せて車を走らせた。
「あそこの店、潰れたのね」
妻が指差したのは、結婚前に二人でよく行った喫茶店。
あそこのマスターも『ゾンビ病』で……
僕は他にもデートで行った店が潰れているのを知っている。
妻との思い出の場所は、だいぶ減ってしまった。
隔離施設の駐車場に車を停める。
ミトンの手袋越しに妻の手を取り、施設の扉を開く。
「……こちらに御名前と御住所、御連絡先を」
受付で罹患者名に妻の名前を書く。
……指が止まった。
「……貴方?」
「僕は君を離さない」
そう、結婚式の文句にもあるじゃないか。
『死が二人を別つまで』
妻は死んでない。
僕は
妻が着けているマスクを外し
口づけをした。
「ああ!?なんて事を!」
受付嬢が騒いでいたけど知るものか!
これで僕も『ゾンビ病』罹患者だ。
妻が泣いていた。
悪いとは思う。
でもSよりましだろ?
────────終