第4話
キイ、とかすかな音を立てて開いた扉をゆっくりと後ろ手で閉めたソラは、マリナが眠るベッドへと静かに歩いていった。
「…………」
広いベッドの中央で清潔な布団に包まれて横たわる妹。
若干顔が赤いものの、規則正しい寝息を立てて穏やかに眠っているだけのようにも見える。
その様子は可憐な容姿とあいまってまるで眠り姫のようだが、その身体には呪いの針が差し込まれているのだ。
(エルメラさんは大事に至ることはないと言ってくれたけど……)
だからといって不安が完全に消えるわけではないし、ある日容態が急変するかもしれないのだ。
最悪の場合、妹はもう二度と目覚めないのではないかという嫌な考えが心の底から浮かんできそうになる。
(……いや、今はできることをするだけだ)
ソラは心の中に巣食いそうになる恐怖を振り払うように頭を振り、ベッドのそばに置いてある椅子へと腰を下ろした。
「……まさか、あんたが倒れるなんてね。私よりもよっぽど頑丈なのに」
ベッドの近くにあるサイドチェストから新しいタオルを取り出して、マリナの額に浮き出ていた汗を拭い、頬に張り付いていた金髪を枕へと流す。久しぶりに触れた妹の髪は汗を吸ってもなおシルクのようにサラサラとしており、そして美しかった。
それから熱の具合を確かめるために手を額に置く。平熱よりは高いが、それでも倒れたときに比べればだいぶ下がっている。あの時は火傷しそうだと錯覚するほどの熱だったのだ。
だが、この状態は一時のもの。薬である程度体調を戻せるが、すぐにまた病気が牙を剝く。完全に治るまではその繰り返しで、当然その間はずっと安静にしておかねばならない。
「……でも、大丈夫。すぐにお姉ちゃんが聖樹の雫を持ち帰ってくるから。それまで大人しく待ってなさい」
額に手を置いたまま、ソラが妹の寝顔を見つめながら独りごちていると、
「――ん。仕方ないから、大人しく待ってるよ」
すっとマリナが瞼を開き、いたずらっぽい眼差しでソラを見上げてきたのだ。
「マリナ! 目が覚めたの!?」
「うん。今しがた、お姉ちゃんの手の感触で」
マリナが上半身を起こそうとしたが、ソラは額の上の手に力を入れて止める。
「そのまま寝てなさい。倒れてからまだそんなに経ってないんだから」
「これくらい大丈夫だと思うんだけどなあ……」
やや不満そうな表情でマリナは再び身体を横たえたがすぐに笑顔になった。
「……どうしたの?」
「前にもこんな事があったなあって思い出したの」
「こんな事?」
「うん。ほら、私が小学生のとき高熱を出して倒れたことがあるでしょ。あれは5年生だったと思うんだけど」
そういえばそんなこともあったような……とソラは朧気な記憶を引っ張り出す。
前世のことであるし、正確な時期は覚えていないが、記憶力の良い妹が言うのならばそうなのだろう。
「あの時はお姉ちゃんものすごく慌ててたよねえ。私が滅多に病気にかからないから。……当時はお兄ちゃんだったけどさ」
「いちいち言い直さなくていいから。……でも、思い出したよ。わざわざ隣町に転校した友達の家まで遊びに行って、そのままインフルエンザをもらって帰ってきたんだよね……」
マリナが病気でダウンするというのは大変珍しい出来事なのではっきりと思い出せたのである。学校を休むほど体調を崩したのはあの一度きりだったはずだ。
それにしても変なものばかりもらってくる妹だ、とソラは溜め息をつきたくなる。本来ならアルフヘイム病に罹る患者は数年に二、三人ほどだと医者が話していたのだ。
「あの時もお姉ちゃんがそばにいて看病してくれたよね。私の欲しがるものをあちこち走り回って集めてくれたし」
「そうだっけ?」
なにやら嬉しそうに言う妹に、ソラはなんとなく認めるのが癪だったのでとぼけてみる。
それから会話が途切れたものの、しばらく穏やかな時間が続いた。
もしかしたら、二人して当時の遠い思い出を懐かしんでいるのかもしれなかった。
やがて窓の外の太陽が完全に沈み、暗闇が部屋の中にまで及んできた頃になって、マリナが改めて顔を向けてきた。
「……さっき、なんとかの雫を持ち帰るとか言ってたけど、やっぱりただの病気じゃないんだね」
「……うん。やっぱり不安?」
ソラがベッド脇の灯りを点けながら訊くとマリナは首を横に振った。
「別に心配はしてないよ。身体の中の感触がいつもと違って気持ち悪いし、頭も少しボーッとするけど、お姉ちゃんが治療薬を探してきてくれるんでしょ? というか、お姉ちゃんの魔法でパパッと治せないかな」
「無茶言わないでよ。魔法といってもできることとできないことがあるんだから」
以前、ラルフの大怪我を魔法で癒したこともあるがそれとは難易度が段違いである。治癒するには人体の構造だけでなく、病気の状態や症例を完璧に把握しておかねばならないのだ。
マリナの狂った体内魔力をどういじれば正常に戻せるのか見当もつかないのに、とてもではないが怖ろしくて手などつけられない。
「ともかく、エルメラさんの故郷に治癒してくれる水があるらしいから、これから二人で取ってくる。アイラを残していくから、詳しいことは彼女から聞いて」
「エルメラさんの故郷かあ……どんな所か興味が湧くよね」
「病気が治ったら改めてお礼の挨拶に行けばいいよ」
マリナは今からエルフの里へ行った時のことを想像しているのか楽しそうな表情をしている。
前向きな妹が普通の人間みたいに悲嘆に暮れるわけはないとソラが内心苦笑していると、マリナが何かに気づいたように声を上げた。
「――あ。そういえば、お母さんたちには連絡しといた方がいいのかな」
「う~ん……。それなんだけど、どうしようか迷ってるんだよね。旅先で体調を崩したと、一応手紙くらいは送っておいた方がいいと思うんだけど……」
もし、事実を余さず知らせたなら、両親は卒倒して弟は大泣きしそうなので難しいところである。
「体調を崩したってだけで、みんなでここまで押し掛けて来かねないよ」
妹の指摘に、あり得ない話ではないだろうなあとソラも思った。
おそらく――いや、間違いなく、手紙を読み終わった次の瞬間に家族総出で、しかも多くの使用人を引き連れてカリム共和国までノンストップで来そうだ。家長である祖父も何だかんだで孫には甘いので同行しそうである。
ソラがどうしたものかと悩んでいると、マリナはお気楽な口調で、
「お姉ちゃんが万事解決してくれるから知らせる必要はないよ。以前寝込んだ時も、私たちが住んでいた地域には売っていないはずのお菓子を手に入れてきてくれたからね。あの時は本当にびっくりしたよ」
「って、あのねえ!」
ソラが死ぬ気で走り回り、誰かしこに聞きまわり、ようやく手に入れたブツだったが、まさかそんな真実が隠されていたとは。あの時の苦労を返せと言いたくなる。
怒りでプルプルと身体を震わせていたソラだったが、「むふふ……」と小悪魔チックに笑う妹を目の前にして怒るだけ損だと肩を落としたのだった。
「……はあ。もういいや。とにかくこの後すぐ出発するから。アイラや医者の言うことをちゃんと聞くんだよ」
「はーい」
普段と同じように手を上げてみせるマリナ。
平気なわけはない。不安だって全くないわけではないだろうが、それでも心配をかけないように笑顔で姉を見送ってくれるのだ。
ソラはそんな妹の頭を一度撫でてから部屋の外へ出たのだった。
扉を開けて外に出ると、魔導の灯りがポツポツと点っている廊下にアイラとエルメラが待っていた。
ソラは頼りにしている赤い髪の双剣使いに声をかける。
「アイラ。マリナのことをお願い」
「お任せください、お嬢様」
真面目な表情で頭を下げたアイラはエルメラの方を向いた。
「エルメラ。私がついていけない分、ソラお嬢様をしっかりとお守りしろよ」
「分かっているとも。恩は返すと言っただろう? ソラ君とつかず離れずべったりと護衛するさ。火の中、水の中、風呂の中でもな。フフフ……」
「そこまでしなくていい。お嬢様に変なことをしたら叩き斬るからな」
何やら良からぬことを想像して含み笑いをしているエルフをアイラがうんざりと睨んだ。
「それじゃあ、行きましょう」
ソラはエルメラを促し、アイラの見送りを受けながら足早に階段を降りる。
今は時間が惜しい。聖樹の雫を持ち帰るのはできるだけ早い方がいいに決まっている。
ホテルの外に出てからソラが頭上を見上げてみると、日が暮れた直後の紺色の空が広がっていた。
白い光で溢れている大通りには、仕事帰りと思しき人間や、これから外食に行くのだろう、家族連れやカップルなどが歩いている。
ソラは街の地図を脳内に浮かべ、目的地への道順を割り出し、さっそく足を踏み出しかけたが、背後からエルメラが制止してきた。
「待ちたまえ、ソラ君。どこに行くつもりだ?」
「え? 馬車の運営業者ですけど……」
国や地域にもよるが、日が暮れると街の外に出る乗合馬車は営業を停止するのが一般的である。
現代では大抵の主要街道が整備されているとはいえ、夜闇の中を動き回るのは得策ではないし、盗賊や怪物に襲われるリスクも高まるからだ。
よって、夜間に長距離移動しようと思ったら、自前の馬車を用意するか、やや値は張るが運営業者から馬車を借り上げて自分で操作するしかないのである。もちろん、破損したり盗難に遭った場合は高額の補償金が必要となる。
他にも隊商や冒険者などに混ぜてもらうという手もあるが、都合よくそんな人間を見つけられる可能性は低いので考慮には入れていない。
そんなことは百も承知だろうに……とソラが不思議そうにエルメラを見返していると、
「まあ、ついてきたまえ」
と、なにやらホテル脇の路地へと入っていったのだ。
疑問に感じたもののソラが大人しくついていくと、エルメラは路地の先にあった狭い広場で立ち止まった。
背の高い建物に囲まれたエアポケットのような空間である。
「こんな所に何があるんですか?」
「私とてできるだけ早くマリナを治してやりたいからな」
エルメラはソラに向かってウインクしてみせると、おもむろに目の前の空間に魔力を集中し始めた。
「……もしかして」
人間の扱う魔導とは異なるエルフ独自の能力。
自然の力を特定の法則によって生み出すのではなく、自然の中に生まれた意志を契約によって使役する技。
すなわち、精霊を呼び出そうとしているのだ。
ソラが様子を見守っていると、しばらくしてから薄い緑色のつむじ風が広場の中央に出現し、あっという間にエルメラの背丈以上にまで成長した。まるで小型の竜巻のようである。
そして、竜巻は徐々に巨大な獣の形へと姿を変えていったのだった。
『ガオオオオオオオオオオオオ!!』
路地裏に響き渡る雄叫び。
どうも現れる度に吠える習慣があるらしい。
「よく来てくれたな、スズリ」
広場に姿を現した牛よりも大きな白い虎は主の呼びかけに「ガウ」と頷くと、次にソラの方を向いて顔を近づけてきた。
見た目は凶悪なツラをした猛獣なので、ソラが思わずビクッと身体を強張らせていると、スズリはペロペロと鼻先を舐めてきたのだ。まるで勇気づけているかのように。
「……ありがとう、スズくん」
『グル』
ソラが毛に覆われた頬を撫でると、スズリは目を細めて一声啼いた。
こうしてみると、本当に大きめの猫のようである。
「ふふふ。私に似てスズリは可愛い女の子の味方だからな。当然、マリナのために労は惜しまないさ」
エルメラはそう言うと、長身を軽やかにひるがえしてスズリの背中へと飛び乗った。
「さあ。ソラ君も乗りたまえ」
白虎の背中に跨ったエルメラが手を差し伸べきたのでソラは反射的に掴む。
「エ、エルメラさん? まさか……」
力強く引き上げられ、エルメラの背後にストンと座らされたソラはやや戸惑った声を上げる。
何のために精霊を喚び出したのか不思議に思っていたが、ここまでくれば予想できるというものだ。
「ふふ。そのまさかさ。スズリは風の精霊。空を飛ぶことなど朝飯前だよ。馬車よりもよっぽど速く進むことができる」
思いがけない移動法にソラはしばし言葉を失ったが、
「……ありがとうございます、エルメラさん」
すぐに感謝の言葉を口にすると、エルメラはその横顔に頼もしい笑みを浮かべてみせ、それから己が使役する精霊に呼びかけた。
「――よし! 行くぞ、スズリ!」
『ガウ!!』
スズリが元気よく主人に応えてみせると、すぐに白い精霊を強烈な風が取り囲み始めた。
高まる圧力に周囲の壁がビリビリと振動する。
「さて。しっかり掴まっているんだぞ、ソラ君」
言われたとおりにソラがエルメラの背中に手を回すと、二人を乗せたスズリがゆっくりと垂直に上昇し始めた。どうも助走などは必要ないらしい。
そして、白い虎が路地裏の狭い間隙から抜け出し、更に高度を上げていくと、みるみるうちに眼下の街並みが遠ざかっていった。暗闇の中での移動なので街の人間は誰も気づいていないようだ。
しばらくして、ソラたちは街全体が視認できる位置まで上昇する。
「わあ……」
街を見下ろしたソラは感嘆の声を上げる。
無数の灯りによって煌いている夜景はまさに宝石を散りばめたような美しさだったのだ。
ソラが思わず見惚れているとエルメラが振り向いた。
「ソラ君が満足するまでここに浮かんでいたいが、そろそろ出発するとしようか?」
「はい。お願いします」
顔を引き締めなおしてソラが頷くと、市街上空に浮いていたスズリが前方に加速を開始した。空中に見えざる道があるかのように四本の肢を高速で動かし始める。
「――――!」
瞬間、凄まじい風圧を受けて後方に身体が持っていかれそうになったソラは掴まった両腕に力を込める。
はっきり言ってとんでもないスピードだ。おそらく飛行系の魔導を全力で駆使してもここまでの速度は出せないだろう。この分だと思った以上に早く目的地に辿り着けそうだ。
(待っててね、マリナ)
遠ざかる街を背中越しに眺めつつ、ソラは心の中で妹に語りかける。
そして――
風の精霊に跨った緑色の髪のエルフと白い髪の少女は、夜の闇の中をアルフヘイム方面に向けて駆け抜けていったのだった。