第1話
それはネイブル王国の隣国、カリム共和国に入国してからすぐの出来事だった。
「――かはあ……ッ!!」
「え?」
国境から最寄の町へと続く街道をのんびりと歩いていたソラは、背後から急に聞こえてきた切羽詰った声とドサッという音にびっくりして振り返った。
すると、そこには緑色のローブを羽織った大柄な人物が倒れていたのだ。
「え、ええっ!? ちょ、大丈夫ですか!?」
いきなりすぎる展開に、ソラは慌てふためきながら街道に手足を投げ出している人物に駆け寄る。
周囲を歩いていた他の旅人たちも驚いた表情で足を止めていた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「お嬢様?」
ソラの目の前を歩いていたマリナとアイラも異常事態に気づいて近寄ってくる。
「分からないけど、私の後ろを歩いていたこの人が急に倒れたんだよ」
「もし急病とかだったら早く病院に連れてかなきゃだね」
「近くの町までもうすぐです。無理に運ぶよりも医者を呼んできたほうがいいかもしれません」
アイラの意見にソラは頷いた。
何か尋常でない悲鳴を上げていたのだ。ともかく急いで医者に見せる必要がある。
「そうだね。下手に動かしたら危険だし。アイラ、悪いけど、ひとっ走りお願い――」
と、倒れた緑ローブを介抱していたソラがアイラに頼もうとした時だった。
「……う……あ……」
うめき声とともに急に足首を掴まれたのでギョッとする。
足元を見れば緑ローブがソラの細い足首を握りしめながら必死な表情で見上げていたのだ。
「あ、あの?」
ソラはびっくりしつつもここでようやく緑ローブの人物が女性だったことに気付き、またその見事なまでに整った顔に一瞬見惚れた。
「こいつ!」
眉を吊り上げたアイラが引き剥がそうと手を伸ばそうとするのをソラは慌てて止める。女性が形の良い唇を開こうとしているのが見えたからだ。
「……シ…………れ……」
「え?」
女性はこちらを見上げて何かをブツブツ呟いているものの、よほど弱っているのか断片的にしか聞こえてこない。
ソラが訊き返そうとすると、マリナが女性のそばにしゃがみこんで耳をそばだてた。
「えっと、なになに? ……メ……シ……を……く……れ……? ――『メシをくれ』って言ってるみたいだよ、お姉ちゃん」
「は、はあ……?」
妹の報告に何だそれはとソラは呆気に取られた。要は腹が減ってぶっ倒れていたのだ。端正すぎる顔とのギャップで目眩が起きそうである。
「あはは! この人、病気とかじゃなくて、ただの物乞いだったみたいだね」
「お嬢様、見捨てていきましょう。私の経験上、このような輩に関るとロクなことがありません」
可笑しそうに笑うマリナと、路傍の石ころでも見るがごとき冷めた視線を女性に向けるアイラ。
ソラは興味深そうに眺めている通行人たちに囲まれつつ、「メシ……メシ……」と繰り返し呟いてくる女性と見つめ合いながら途方に暮れるのだった。
※※※
「――ガツガツッ!!」
しばらくして、町のとある飯屋に勢いよくがっつく音が響いていた。
「久々のゴハンだから美味しすぎて止まらんっ!! ガフガフ!!」
「…………」
マナーなんぞ知ったこっちゃないとばかりに、運ばれてくる料理を次から次へと豪快に頬張る女性を、同じテーブルに座っていたソラは呆然と眺めていた。
「ズズーーーッ!! ……おや、食べないのか? せっかくの料理が冷めてしまうぞ? 要らないのなら私が……」
ソラの前に置かれていた茸のパスタに女性がフォークを突き出そうとしたが、アイラに鋭すぎる目つきを向けられてすごすごと引っ込めた。
初めは死にそうなほどに衰弱していたが、しばらく怒涛の勢いで食べているうちにようやく元気が出てきたようだ。
「にゃはは。この人、面白いね~」
女性に負けず劣らずのハイペースで料理を平らげている食いしん坊マリナが笑いながらソラに顔を向けてきた。さすがにこちらは普段からうるさく注意しているだけあって最低限のマナーは守っている。
(……面白いというよりはただの変人だと思うんだけど。やっぱり、アイラの言う通り見捨てればよかったかな)
ソラは女性を眺めつつ若干後悔する。
あの後さすがに放っておくわけにはいかないということで、丁度近くを通りがかった馬車に女性を乗せて貰い、それから町まで運んですぐに飯屋へと駆け込んだのだ。
(……でも、本当に凄い美人だよね)
ソラは食べかすを撒き散らしながら食べている女性を改めて見つめる。
驚くほど長いまつげの下には神秘的なエメラルドグリーンの瞳が輝き、それぞれの顔のパーツが黄金比率で測ったかのような完璧な造形美を誇っている。年齢は二十代前半くらいで女性にしてはかなりの長身の持ち主だった。
(たしか、名前はエルメラだっけ?)
一応、飯屋に駆け込む前に自己紹介は済ませているもののそれ以上はまだ何も聞けていない。それどころではなかったので仕方ないのだが。
「……あの、エルメラさん?」
「バクバク!! ウマーッ!! ――ん? 何かな? ソラ君」
ソラが話しかけると一心不乱に食べ物を口の中に詰め込んでいたエルメラが顔を上げてなにやら余裕の表情を見せたが、その口元にはニンジンの欠片がくっついていて全然様になっていない。
残念美人というのはきっとこの人のことを言うのだろうとソラは思った。
「エルメラさんは何であんな所に行き倒れてたんですか?」
「それが、話せば長いんだが……」
一度お茶をズズッと飲み込んでエルメラは話し始めた。
「もともと私は普段から金銭を持ち合わせていなくてな。心優しい通行人の助けを借りながら気ままな旅を続けていたんだが、最近は行き合わせる人間が皆冷たくてね。結局、限界がくるまでメシにありつくことができなかっというわけなんだ。全く世知辛い世の中だよ」
「……は、はい?」
エルメラの説明を聞いたソラは全然長くはないんだけどもと思いつつ唖然とした。
今の文章を要約すると、つまりこの人は無職で一文無しということなのではないだろうか。
「き・さ・ま……!!」
ブチ切れたらしいアイラが椅子から立ち上がりエルメラを睨む。
「まさか、倒れたのは演技で、初めから私たちに驕らせるつもりだったのか!?」
「空腹で倒れそうになっていたのは本当だとも。そろそろヤバイなあと思っていたところに丁度育ちの良さそうなお嬢さん方を見つけたんだ。いや、助かったよ。私の想像通り心優しい娘で」
あっはっはと能天気な笑顔をソラに向けるエルメラ。
「だ、騙された……」
「やられたねー、お姉ちゃん」
ソラがガックリと肩を落とし、さしものマリナもやや目を丸くしていると、いよいよ我慢の限界に達したらしいアイラがエルメラに詰め寄った。
「お嬢様の善意に付け込むとはなんてヤツだ! 今すぐここから叩き出してやる!」
アイラはエルメラの胸ぐらを掴もうと手を伸ばしたが、寸前でぴたりと停止させた。
「――!?」
「……ほう。かすかにだが察したか。その若さで大したものだな」
表情に警戒と驚愕の色とを浮かべたアイラが急いで後退り、落ち着いたままその様子を見ていたエルメラが感嘆の声を上げた。
(……今のは?)
ソラも何か気配を感じたのだ。まるでアイラとエルメラの間に不可視の壁のようなものが立ちはだかったような気配を。
「貴様はいったい……」
凄腕の戦士としての本能からか、すでにアイラは腰の双剣に手を添えて戦闘体勢に入っていた。それほど底知れない威圧感をその気配は内包していたのだ。
「まあ、いったん落ち着きなさい。恩人である君らに害を及ぼそうなどとは思わないよ。店にいる人間たちにも迷惑がかかるだろう」
野生の肉食動物のごとく、全身に緊張を漲らせているアイラを前にしてもエルメラは余裕の態度を崩すことなく語りかける。
「アイラ」
その様子を見ていたソラもとりあえず危険はなさそうだと、今にも飛び掛りそうなアイラをとどめると、赤髪の少女は不承不承といった感じで座り直した。
「なに、私は恩に対してはきちんと礼儀を尽くすとも。必ず何らかの形でね」
食後のお茶を飲みながらパチッと愛想よくウインクするエルメラ。
はっきり言ってあまり当てになりそうもないとソラは思ったが、さすがに先程の気配は看過できなかったし、隣のマリナも気になっているようだ。
「エルメラさん。今のは……」
「ふむ。君ら姉妹も思った以上に鋭いな。そういえば名前だけで詳しい紹介はしてなかったね」
そう言うと、エルメラは頭にかぶっていたフードを無造作に後ろへとはらってみせたのだ。
「あ……!!」
「!?」
瞬間、ソラたちから一斉に驚きの声が上がる。
「フフフ。もしかして出会うのは初めてかな?」
イタズラっぽく笑いながら緑色の長髪を背中に流すエルメラ。
「あ、あなたは……」
目を見開くソラの視線の先。初めて目の当たりにしたエルメラの耳は、見たこともないほどに長く、そして鋭く尖っていたのだった。
※※※
森の住人エルフ。
彼らの特徴を挙げるとするならば、やはり並外れて美しい容姿をしていることが第一に挙げられるだろう。他には長い耳を持っていることや人間の数倍の寿命を誇ることで有名だが、このあたりは子供でも知っていることである。
しかしエルフは絶対数が少なく、また普段は森の中に暮らしており、滅多に遭遇することのない種族なので、ほとんどの人間は書物などからの知識として知っているだけである。
そしてもうひとつ。
こちらはあまり知られていないが、彼らには別名があった。
自然に宿る意志を自在に扱う者。
すなわち、『精霊使い』と――
※※※
数日後。
ソラたちはカムリ共和国の中心部に向かって順調に歩を進めていた。
ある奇妙な同行者を除いては――
「いやあ、今日もいい天気で良かった。そうは思わないか、ソラ君」
「はあ……」
隣を歩くエルメラにソラは生返事を返す。
確かにここ最近は雨も降らず気持ちのいい快晴が続いているのだが……。
(何だかなあ……)
どうにも釈然としない気分でソラが首を捻っていると、背後を歩いていたアイラが不機嫌そうに口を開いた。
「……おい。それで、貴様はいつまで私たちについてくるつもりだ?」
「ん?」
太陽に直接触れされて大丈夫なのか、と心配になるような透き通る白い肌を気持ち良さそうに日光に当てていたエルメラはアイラの険のある声にも笑顔で振り向いた。
「それはもちろん恩を返すまでだ。だが、それを抜きにしても、もうしばらく君らと行動を共にするのも面白そうだと思ってな。丁度行き先も同じなわけだし」
「何が恩を返すだ。何日も付きまとっている挙句に、その間の食事や宿代などは全て私たちが面倒を見てるんだぞ」
「後でまとめて返すとも。私は約束を守る女だ」
しれっと言い返すエルメラにアイラはムッとしていたが、結局押し黙って横を向いた。
暖簾に腕押しという言葉がピッタリと似合うような人、もといエルフなので何を言っても無駄だと思ったのだろう。ソラたちはこの数日間の付き合いで嫌というほど悟っているのだ。
「それにだ。こんなかわゆ~い女の子たちと一緒に旅ができるなんてそうそうあることじゃないからな」
自分こそ絶世の美女であるエルメラはソラやマリナに視線を向けてなんとも嬉しそうな表情を見せた。
これも既に知られたことだが、このエルフはオヤジみたいな性格をしているのである。
「それにしてもスズちゃん可愛かったね~。温かくてフサフサしてて、私もあんなペットが欲しいかも」
すっかりエルメラと打ち解けたマリナが金髪を揺らしながら振り向くと長身のエルフは得意気に笑った。
「あっはっは。そうかそうか。君のような美少女に気に入ってもらえてスズリのヤツもさぞ喜んでいるだろう。――おい! 聞こえたか?」
『ガウッ!!』
「ちょ……!?」
どこからか突然聞こえてきた獣の声にソラは慌てるが、エルメラはおかまいなしに魔力を集中させた。
刹那、ソラたちが歩いていた街道に烈風が吹き荒れたのだ。
魔力を帯びた風が一点に収束し始め、同時に強力な気配が急速に濃度を増していった。
何か強大な存在が具現化しようとしているのだ。
突然の出来事に、いったい何事かと他の通行人たちも辺りを見回しながらどよめく。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
風で乱れる白い髪とローブの裾を押さえながら、ソラは急いでエルメラを止めようとしたが時すでに遅しであった。
『ガオオオオオオオオオオオオ!!』
凶暴そうな獣の雄叫びが高らかに上がった瞬間、すぐ目の前で猛烈な風の渦が収斂しソラは咄嗟に目を閉じる。
しばらくして、風が吹き止みソラがゆっくりと瞼を上げると、そこにはいつのまにか一匹の巨大な虎が街道のど真ん中に鎮座していたのだ。
真っ白な毛並みに模様がついている優美な虎で、綺麗な緑色の瞳といいどこか高貴さを感じさせた。
『ガウ!!』
突如姿を現した白い虎はソラたちに向かって元気よく片足を上げる。
どうやら挨拶のつもりらしい。
「あー!! スズちゃん、昨日ぶり!!」
『ガウウ♪』
白虎に飛びついてそのモフモフした毛に顔を埋めるマリナ。
もはやすっかり仲良しである。
「ふふふ。スズリはマリナのことを気に入っているからな。あっというまに駆けつけおって。最速記録を更新したのではないか?」
ひとりと一匹が仲良くじゃれあっている様子を満足気にエルメラが眺めているが、ソラたちの周囲では大変なことになっていた。
「ひ、ひいいいいいいいいい!? きょ、巨大な虎ーーー!?」
「何でこんな所に魔獣が!? く、喰われるっ!! 誰か助けてくれえええ!!」
「おがあざああああああん!!」
悲鳴を上げて逃げ惑う通行人たち。
鳴き声は案外可愛らしいものの、体長が二メートル以上はありそうなゴツイ虎が街道に突然出現すれば誰だってパニックになろうというものだ。
その阿鼻叫喚の光景にソラは頭を抱え、背後で見守っていたアイラも同じく頭痛をこらえらるような表情をしている。
「エルメラさん! こんな所で精霊を喚び出さないでください! 下手したら軍隊が出動しますよ!」
「ん? ああ、すまんすまん。――スズリ、あとで時間を作るから今は姿を隠してくれないか?」
エルメラがそう声をかけると白い虎はしゅんと残念そうに肩を落とし、すぐに煙のように消えていったのだった。
「ああー……スズちゃん。またねー」
残念そうにマリナが手を振っているが、別にどこか遠い所に去ったわけではなく、視認できないだけで主であるエルメラのそばに寄り添っているのだ。
あの白い虎は風の精霊。
エルフたちが使役する意思ある魔力の塊。
今も自然元素に紛れて近くにいるはずだ。
(……どうでもいいけど、省略すると猫みたいだよね)
精霊の名前はスズリと言うのだが、マリナは『スズ』と愛称で呼んでいて、本人――本虎も気に入っているのだった。
「やれやれ……人間というのは相変わらず余裕のない種族だな。よくよく観察すれば、スズリがみだりに人を襲うことなどないと分かりそうなものだが」
「そんなの無理に決まってますよ。というか、いい加減人のいる所で精霊を召喚するのは止めてください」
肩をすくめるエルメラにソラは突っ込む。
これまでも何度か喚び出しては周囲の人間を恐怖のどん底に突き落としているのだ。はっきり言って大迷惑なので勘弁してほしいものである。
「それよりも、昼食をどうするか相談しようじゃないか。なあ、マリナ?」
「そうだね! そろそろお腹が減ってきたかも!」
マリナとエルメラは仲良くお喋りしつつ、へたりこんだり失神したりしている通行人たちの中を悠然と歩いていく。
(こ、こいつらは……)
その微塵も反省している様子のない姿を見てソラは溜息を吐く。
「……本当にとんでもないヤツに付きまとわれたものですね……」
背後でぽそりと言うアイラに、ソラも心の中で激しく同意するのであった。