別れと出会い③
「……やっぱり、山の中じゃ猿の方に分があるね」
「あっちは木を伝って移動してるからな」
猿を追って山に入ったラルフとマルクは道なき道に苦戦していた。
まだ登っている斜面がそこまで急でないのと、地面に生えている草がまばらなのが救いではあったが。
「でも、体力にはけっこう自信あるし。伊達に町を抜け出して外で遊んでないんだからな」
「僕も体力が唯一の取り柄みたいなものだからね。意地でも離されないよ。……というか、今でも抜け出してたんだね……」
額にうっすらと汗を滲ませながらも不敵な笑みを見せたマルクだったが、ラルフのツッコミにギクリとした表情になった。
「ま、まあ、そんなことより! 霧が濃いから見失わないよう気をつけるぞ!!」
あからさまに話を変えた少年にラルフが苦笑していると、木から木へと飛び移ってひたすら逃げていた猿たちがぴたりと動きを止めた。
「……どうしたんだ? もしかして観念したのか?」
「……それならいいけどね。とにかく子供を助け出さないと」
猿たちは静止したまま木の上から見下ろしていたが、おもむろに一番大きな猿がこちらを振り向きラルフとマルクは驚愕した。
「……あ!?」
振り返った猿の腕の内にあったのは、丸められた子供用の衣服だけだったからだ。
二人が唖然としていると、猿は衣服をポイと地面に落とし、ニヤリと歯を剝き出しにして笑ってみせる。
「こ、こいつ、俺らをハメやがったのか……!!」
マルクが悔しそうに歯軋りするが、ふとラルフは背中に悪寒を感じ、急いで周囲に視線を向けた。
「!!」
「どした、ラルフ――って、い、いつのまに!?」
ラルフとともに周辺に目をやったマルクが驚きの声をあげるがそれも当然で、気づかないうちに二人は多くの猿たちに囲まれていたのだ。
ざっと確認した限りでも三十体以上はいそうだ。
「僕らを森の中までおびき出すための罠だったのか」
剣を構えながら戦慄するラルフ。
知能が高いとは聞いていたし、油断していたつもりもなかったが、まんまとしてやられたわけだ。
ラルフとマルクが背中合わせになっていると、衣服を持っていた大きな猿が突然鳴き声を上げ、包囲していた猿たちも呼応するように鳴き始めかと思うと距離を詰めてきた。
どうもひと際身体の大きいあの猿がボスらしい。
「ラ、ラルフ」
「落ち着いて、マルク君。僕が決して近寄らせないから、君は襲ってくる奴だけをしっかりと迎え撃つんだ」
ラルフは怯えた声を出すマルクを勇気付けるように力強く言ったが心の中では焦燥感もあった。
(おそらく、奴らの狙いはマルク君だ)
現に猿たちはラルフよりもマルクに視線を注いでいる気がする。
数匹がかりで襲われて捕まってしまえば、まだ子供である彼には抗うことはできないだろう。
(……絶対に分断されてはいけない。されたが最後、マルク君は連れ去られてしまうかもしれない)
鋭い剣先を方々に向けてラルフは猿たちを牽制する。
多少のダメージを無視してでもマルクを守ることを優先するのだ。
ラルフが覚悟を決めていると、地面からこちらを窺っていた数匹の猿が急に襲いかかってきた。
「――!!」
咄嗟に剣で薙ぎ払おうとするが、猿たちはすぐに後方へと飛び退いてしまい、ラルフはそのまま追撃してトドメを刺したくなったもののすぐに後ろを振り向く。
すると、少年にはラルフに倍する数の猿たちが群がっていたのだ。
「く、くそっ! こいつら……!!」
マルクは腕に装着したスリングショットで素早く的確に小石を発射していたが、数が数なだけにとてもではないが追いつかず、すでに何体かに取り付かれようとしていた。
「マルク君!!」
ラルフがすぐさま援護に入るが、猿たちは無理をせず、小憎たらしいほどあっさりと下がっていった。
「マルク君、大丈夫!?」
「……ああ。なんとか。でも、やばかったぜ」
マルクは顔をやや蒼ざめさせながら答えた。
己が標的になっていることに気づいたのだろう。
その後も猿たちは前へ出ては引っ込むことを執拗に繰り返し、加えて見事なまでの連携で色々とパターンを変えてこちらを揺さぶってきたのだ。
ラルフたちを体力だけでなく精神的にも消耗させようとしているのは明白であった。
「――はあはあ。けっこう、まずいぜ、ラルフ」
ラルフよりもしつこく削られているマルクは肩で息をしており、どうやら少しずつ足元も覚束なくなってきているようだった。
体力に自信があるとはいえ少年にすぎず、また実戦経験がほとんどないので普段よりも疲労が激しいはずだ。
(……くそっ!! あのとき、マルク君だけでも村に残しておけば……)
思わずラルフは自分を責めたがすぐにかぶりを振った。
こんな時に過去を悔やんでいても意味がない。
まずはどうにかしてこの危機を乗り切ることを考えるべきだ。
「……マルク君。今から僕が強引に包囲網を突破するからぴったりとついてきて。絶対に離れないようにね」
「ラルフ……。分かったよ」
疲れていても気丈に敵を睨んでいたマルクが背中越しに頷いた。
強引にでも包囲を抜け出さなければこのままではジリ貧だと少年も分かっているのだろう。
二人は息を整えつつ密かに膝を少し曲げて機会を窺っていると、再び猿たちが攻勢をかけてくる気配を察知した。
「――今だ!!」
タイミングを計っていたラルフが叫び、二人は動き出しかけていた猿たちの虚をつく形で駆け出した。
「おらあああああああああっ!!」
ラルフが剣を無茶苦茶に振り回しながら突っ込んでいくと、突然のことに浮き足立っていた猿たちは迎撃することもなく逃げ惑った。
群れとして統率されていれば脅威だが、そうでなければ恐れるに値しない。単体としては大した相手ではないのだから。
「――このまま麓まで降りるよ!」
「おう!!」
幸先よく包囲網を突破したが、すぐ後ろから態勢を立て直した猿たちの鳴き声が聞こえてきた。
木々の間を縫うようにして走っていたラルフがちらっと背後を振り返ると、例のボス猿を先頭にものすごい速さで猿たちが追いかけてきている。
「あのボス猿が群れに指示を出してるから、あいつを仕留められれば……」
麓まで無事に逃げ切れる保証はないし、その場合は群れの頭を押さえればなんとかなるかもしれない。
そうラルフが作戦を練っていると、隣を走っていたマルクがぼそっと呟いた。
「……こうなったら、あいつに一矢報いてやる」
「マルク君!?」
マルクは仰天するラルフを無視し、進路上にあった太い木の幹に身体を一旦隠すと、次の瞬間には小石を装填したスリングショットを構えたまま飛び出したのだ。
「おらあっ! 喰らいやがれ!!」
即座に解き放たれた小石は意表を突かれたボス猿の右目へと見事着弾した。
「よっしゃあ! ざまあみやがれ!」
目を押さえて倒れこむボス猿を見てマルクが歓声を上げるがラルフからすればヒヤヒヤものである。
「お、驚かさないでよ! また、ひとりで突っ込むんじゃないかと思ったよ!」
「同じ過ちは繰り返さないって。ただ、やられっぱなしで悔しかったからさ」
再び前を向いて走り始めたマルクは得意げな顔をしてみせた。
移動しつつ振り向きざまに敵の頭部へと攻撃を当てる腕は賞賛に値するが、心臓に悪いので止めてほしいものだとラルフは思う。
「ほら。見てみろよ、ラルフ! あいつらアタフタしてるぜ!」
「群れのボスがやられたから動揺してるんだね」
嬉々としているマルクにラルフも思わず笑みを浮かべていると、
『――あ!?』
前への注意がおそろかになっていた二人は茂みの向こうが崖になっていたことに気づかず足を踏み外してしまったのだ。
『う、うわあああああああああ!?』
ラルフたちはそのままなす術もなく崖を転げ落ち、数メートル以上を落下して地面へと叩きつけられる。
「――っ!!」
背中に強い衝撃を受けたラルフは一瞬呼吸が止まり、その後は全身の痛みにしばらく悶えた。
「……ううっ。マ、マルク君。だ、大丈夫かい……?」
「いててて……。本気で死ぬかと思った……」
ラルフが苦労しながら身体を起こすと、すぐ目の前ではマルクがよろけながらも立ち上がりかけていた。
どうやら大した怪我もなく無事なようだ。
「……クッソー。せっかくいい感じだったのに。ソラ姉たちみたいに格好良くいかねえよ」
「あ、あはは。やっぱり僕らはまだまだってことだね」
同じような感想を抱いていたラルフも立ち上がろうとするが、
「……痛っ!?」
足首に激痛が走りすぐに座り込んでしまった。
「ラルフ!?」
「……ごめん。足を挫いちゃったみたいだ」
心配そうなマルクにラルフは顔をしかめながら答える。
どうも転げ落ちている最中に足を捻ってしまったようだ。
「……でも、早く山を下りないと。ここにいたら危険だよ」
「だな。立てるか?」
マルクが小さい身体を精一杯使ってラルフを支えてくれた。
自身も疲労が溜まっているだろうに少年は弱音のひとつも吐かないので、ラルフしては頭の下がる思いである。
「よし、急ごうぜ」
「ありがとう、マルク君」
ラルフが礼を言い、頷いたマルクと一緒に歩き出そうとしたときだった。
霧の向こうから猿たちの耳障りな鳴き声が聞こえてきて二人は固まる。
反響していて分かりづらいが、すぐ近くにまで迫っているようだ。
「あいつら、もう嗅ぎ付けてきたのか! 行くぞ、ラルフ!」
「……いや、僕のこの足だともう逃げ切れないよ。マルク君、君だけでも逃げるんだ」
「何言ってんだよ!? 殴るぞ!!」
ラルフの提案に激怒したマルクだったが、別に自暴自棄になったわけではない。
「いいから、聞いて。このまま二人で逃げても下山する途中で追いつかれるのは目に見えてる。それなら僕はここに留まって、君がひとりで山を下りて助けを呼んできてほしいんだ」
「留まるって……猿たちからすれば格好の獲物だぜ」
「満足に歩けないけど、まだ剣だって振れるよ。崖を背にすれば猿たちの攻撃にも対処できるだろうし」
まさに背水の陣だが、ラルフだってこんな所で死ぬつもりはない。
「……それに、言いにくいけど、僕ひとりの方がまだ迎撃に専念できるんだ」
自分の身だけならば凌ぎきれる自信があるし、あくまでも猿たちのターゲットはマルクなのだ。
ラルフの話を黙って聞いていたマルクは少しの間考え込んでいたようだったが、
「……確かにそうかもな。けど、近くの町に応援を呼びに行っても往復で時間がけっこうかかるぜ。それまでもつか?」
「これでも元警備隊員だよ。どんなに数が多くても猿ごときにやられるつもりはないさ」
そう言ってラルフが笑ってみせると、マルクも口元をかすかに緩めた。
「分かった。俺が戻ってくるまで持ち堪えろよ。死んだらソラ姉にも二度と会えなくなるんだからな」
「そのネタで僕をからかうのはやめてくれない!?」
思わずラルフが抗議すると、マルクはいたずらっぽい笑みを見せ、そのまま背を向けて駆け出そうとしたが、
「――あ!」
数メートルほど走っただけですぐに立ち止まってしまった。
どうしたのかとラルフが怪訝に思っていると、少年の行く先から霧を掻き分けて何かが姿を現したのだ。
「……お、お前は!」
ラルフは唇を噛み締める。
足を止めたマルクの前からゆっくりと歩いてくるのは、先程手傷を負わせたばかりのボス猿だったのだ。
気づけばすでに周囲を包囲され始めており、もう少年を逃がすには時を逸していた。
「う、うあ……」
マルクは怖気づいたように後退する。
ボス猿が右目から血を流しながらも一目で憎悪に歪んでいると分かる凶悪な表情で少年を睨みつけ、一種異様な威圧感すら漂っていたのだから仕方ないのかもしれない。
「……マルク君! 早くこっちに!」
ラルフはマルクを呼んだ。
こうなったらもう仕方がない。自分のそばで共に迎撃に当たるしかないだろう。
立ちすくんでいたマルクは慌てて駆け寄ろうとしたが、同時にボス猿も少年に向かって突進してきたのだ。
「う、うお!?」
焦ったマルクは振り返って武器を構えようとしたがどう見ても間に合わず、鋭い歯を剝き出しにしたボス猿があっという間に少年へと肉薄した。
「マルク君!!」
距離があって援護できないラルフには目の前の光景を眺めることしかできずに足を引きずりながら半ば絶望的な気分になっていると、
「――!?」
どこかから突然一本のナイフが高速で飛んできて、今まさに少年に襲いかかろうとしていたボス猿の残った左目に突き刺さったのだ。
ナイフは頭部を完全に貫通しており、一瞬で絶命したボス猿がゆっくりとその場に倒れこむ。
「な、何が……」
ボス猿のすぐそばでは間一髪で助かったマルクがへたり込み、ラルフも手を伸ばしたまま言葉を失っていると、すぐ近くから茂みを掻き分けるような音がして誰かが声をかけてきた。
「――おお。危機一髪だったなあ」
「あ……」
ラルフが視線を向けるとそこにはひとりの男が悠然と立っていたのだ。
「なんとか無事みたいだな」
マルクに手を差し伸べている男を観察するに年齢はラルフの父親ほど――四十前後だった。
使い込まれた鎧を着込んでおり、腰には同じく年季の入っていそうな剣が吊り下げられていて、一目で冒険者と分かる出で立ちである。
男はマルクを立たせると、ボスをやられて動きを止めている猿たちを鋭く睨みつけ、
「おら。とっとと失せろ」
そう一声かけただけで猿たちは霧の中へと慌てて逃げていったのだった。
「あ、あなたはいったい……」
ようやく意識が追いついてきたラルフが問いかけると、マルクを伴った中年男が歩み寄ってきて格好つけるように笑った。
「よくぞ訊いてくれた。俺はブライアン。男の渋みに溢れていると巷で噂のブライアン・グッドマンだ」
「は、はあ……」
なんとも胡散臭い笑顔を浮かべるブライアンにラルフは曖昧に答え、そばに駆け寄ってきたマルクも『何言ってんだ、このオッサン』と言わんばかりの表情で見上げていた。
とはいえ、ラルフとマルクは自分たちを助けてくれたブライアンに礼を言い、そのまま自己紹介しようとしたが中年冒険者は顎の無精ひげを触りながら制止した。
「ああ。ちょっと待ってくれないか。実は連れがいるんだ。そいつがここに到着してからの方が手間が省けていいだろ」
「連れ?」
ラルフが聞き返すと、ブライアンの後方からまたもや茂みを掻き分ける音がして、そこから眼鏡をかけた少女が息を切らしながら現れたのだ。
「――はあはあ。ブ、ブライアンさん、速すぎですよ」
「しょうがないだろ。悠長に走ってたら間に合わなかっただろうぜ」
膝に手をついてぐったりとする少女。
どうも必死になって山道を走ってきたようで服や髪に葉っぱがついていた。
(……神官服?)
ラルフが首を傾げていると、しばらく息を整えることに専念していた少女がようやく落ち着いてきたようで顔を上げる。
「……ふう。ブライアンさんがいきなり駆け出したのでびっくりしましたよ」
「悲鳴が聞こえてきたんだから気になるのは当然だろ」
ブライアンはひょいと軽く肩をすくめてみせるとラルフたちを指差した。
「――んで、こいつらが猿どもに襲われていた哀れな少年たちってわけだ」
「ど、どうも」
ラルフたちがここで各々自己紹介すると、少女も眼鏡の奥の瞳を優しく笑ませ、
「災難でしたね。私はコレット・マーシーといいます」
そう言って、コレットは三つ編みにした髪を前に垂らしながらぺこりと丁寧に頭を下げたのだった。