第3話
――温泉町ホスリング。
エレミアの北東にある小さな町である。特色は当然湧き出ている温泉だ。人口は二千人ほどだが、観光客は季節を問わずにひっきりなしにやってくる。場合によっては町の人口以上の客が来ることがあるとかないとか。東側の国境が近いため、隣国からも湯治客やらが来るらしい。なんにせよ、街の規模の割には賑わっているとろこなのだ。
ソラたち四人は街の正門が見えるところにまで来ていた。この町に来るのは数年ぶりだ。以前は父のトーマスの里帰りを兼ねてエーデルベルグ家の面々で訪れて以来だ。
町の北には標高千メートルほどの台形のかたちをしたボルツ山がある。沈静化して久しい火山だ。温泉の源泉はそこからきている。さらに山の向こうには、北の国境に横たわるように連なっているアルス連峰がうっすらと見えていた。
ソラは山の麓にある町を見ながら、疑問に思っていたことをクロエに訊いてみた。
「そういえば、お祖母さま。なぜ街道の方にまでいらっしゃったのですか?」
「――ああ、そのことかい。それは到着したばかりの観光客と警備隊の連中が、盗賊が出ただの騒いでいたのを聞いたからさ。連中が出動したあとに詳しく話を聞いてみたら、女子供の三人組が森の中の街道を使用してるっていうじゃないか。あんたたちが昼頃に町に到着する予定なのは、送ってくれた手紙に書いてあったからね。もしやと思ったのさ。まあ、心配は要らないと思ったんだけど」
「なるほど、そうだったんですか」
ソラは納得した。病み上がりなのにわざわざ来てくれたことに申し訳ない気持ちになった。
「そういえば、ウィリアムとウェンディは元気にしてるかい?」
「はい。ウィリアムお祖父さまはぴんぴんしてますよ。当主の仕事をこなしながらも、若手の騎士の方を厳しくしごいています。ウェンディお祖母さまはもう半年ほど帰ってきてませんけど、多分元気だと思いますよ」
「そうかい。ふたりとも相変わらずみたいだねえ」
クロエは苦笑していた。
ソラの母方の祖父母であるウィリアムとウェンディ、そしてクロエは元冒険者仲間だったのだ。
祖父のウィリアムは若い頃にエーデルベルグ家を出て、修行を兼ねてあちこち冒険者として旅をしていたらしい。そして、旅の途中で同じく冒険者として放浪の旅を続けていたウェンディと出会い、しばらくチームを組んだあとに、ウィリアムはウェンディと一緒に故郷であるエレミアに帰り魔導騎士団に入団することになる。それから、しばらくしてからふたりは結婚することになるのだ。
「クロエお祖母さまは、ウェンディお祖母さまがウィリアムお祖父さまと出会う前からの付き合いなんですよね?」
ソラは前々から興味があったので訊いてみた。ウェンディはあまり昔の話をしないのだ。
「ああ、そうさ。あたしもこの小さい町から出て、広い世界を旅してみたいと思って冒険者になったんだけどね。なかなか気の合う仲間というのが見つからなくてね。しばらくはひとりで行動してたんだけど、そのときにウェンディに出会ったのさ。あのときは傑作だったねえ」
クロエはその場面を思い出したのか、含み笑いした。ソラがきょとんとすると、
「初めて会ったときは、あたしはウェンディのことを嫌な女だと思ったのさ」
「えっ! そうだったんですか?」
ソラは驚く。ふたりはそれこそ姉妹のように気が合うのだ。少々羨ましくなるほどに。
「なんせ初対面で言われた言葉が、『弱いくせにひとりで行動するな』だからねえ」
クロエは懐かしむような表情で話し始めたのであった。
――今から四十年近く前のことである。
クロエがホスリングを出て冒険者になってから数年が経っていた。
クロエは着実に経験と実績を積み上げ、冒険者の中でも数少ない魔導士だということもあって、いろんなチームから勧誘されていた。しかし、それをすべて断っていた。ときおりどこかのチームに混ぜてもらって活動することもあったが、基本的にはひとりで行動していた。実際それである程度やれていたし、その自信もあった。
そしてある日、クロエがとあるダンジョンに挑戦していたときのことである。
難易度としては、そのときのクロエにはちょうどいいくらいで、ダンジョンの規模も大したことはないのでひとりで挑むことにしたのだ。
しかし、それは失敗だった。
事前に仕入れていた情報にはなかった強力な魔獣が跋扈していたのだ。
本来そのダンジョンに生息していた怪物たちはその魔獣によって壊滅したらしい。タイミングの悪いことにクロエがダンジョンに潜る直線のことだったのだ。
魔獣とは、世界の魔力の影響を受けて変化・進化した怪物のことである。自我の薄い怪物には稀に起こる現象なのだ。通常の怪物よりも遥かに強力で知能も高い。魔力の影響を受けているので、魔導に似た力を行使する個体もいるのだ。その個体によっては、国家が特別に討伐隊を編成する場合もあるのだ。
クロエがその個体とダンジョンの薄暗い洞窟の中で出逢ったとき、自分はここで死ぬのだと直感した。まさに目の前の存在は、今まで感じたことのないくらい強烈な死の気配を放っていたのだ。
魔獣は<火>の元素の影響を受けているのか、身体にぼうっと青白い炎を纏っていた。体長が四メートル近くあるネコ科の大型魔獣だ。強靭かつしなやかな体躯、口からは鋭い大型ナイフのような牙がのぞいていた。
「グオオオオオオオオオッ!!!」
その魔獣はクロエを発見すると、洞窟全体が震動するような大声で威嚇してきた。
そこから放たれる圧倒的な敵意と魔力にクロエは冷や汗が止まらない。まるで心臓をわしづかみにされたかのような恐怖を感じた。
この世界のありとあらゆる生物は魔力を持っている。その魔力の量は個体によってまちまちだ。
人間であれば、魔力容量は生まれたときに大方決まっているが、修練次第である程度は増やせることができる。魔力量が多ければ必ずしも強いというわけではないが、魔力を操ることができる者にとっては大きなアドバンテージには違いない。
そして、魔力が活性化するときは波動となって周囲に伝わるという性質がある。一般人には感知できないが、クロエほどの魔導士ならばそこからある程度の力量を察することは可能だ。とりわけ魔獣の強さは魔力の強さと比例していることが多いのだから。
クロエはその強烈な魔力の波動を身に浴びながら、この魔獣が自分には到底手におえないことを魂のレベルで思い知らされた。
とはいえ、ただ逃げ出すのは論外である。進むしか退くしかない洞窟の一本道。背を向けようものなら、押し倒されて喰い殺されるのは目に見えている。そもそも足の速さで敵う気がしない。
となれば、ある程度ダメージを与えて動きを鈍らせおいてから、隙を見つけて逃げるしかない。
(もっとも、可能性はかなり低いだろうけど)
クロエは心の中でやや自虐的に笑った。
クロエは愛用している鉄製の鞭を構えながら、意識を世界と同調させていく。鞭で牽制しながら、魔導で止めを刺す。これがクロエの基本的な戦闘スタイルだ。
クロエが戦闘体勢に入ったのを見た魔獣は、もう一度威嚇の雄叫びをあげると、肉食獣らしいすばらしいバネでクロエに飛びかかってきた。まさに圧倒的な肉厚である。かすっただけで致命傷になるのは間違いない。
クロエは勇気を出して魔獣へ向かっていくように走り出すと、そのまま身を投げ出すように前転して魔獣の攻撃をぎりぎりでやりすごした。すぐに起き上がり、振り返りながら魔導紋を構築する。
飛びかかった魔獣が着地し、こちらを首だけで振り返って見ているのを視界に納めながら、クロエは魔導紋を描き終え、ありったけの魔力を込め始める。幸運なことに、あの巨体では洞窟の中で自由に身体を方向転換できないらしい。クロエにとっても逃げ場が限られているということだが。
魔導を完成させたクロエは、ようやくこちらに身体を入れ替えた魔獣に向けて発動した。
「<氷の槍>!」
魔力の作用によって蒼く輝いている巨大な氷の槍が一直線に魔獣へと向かっていく。直撃すれば魔獣を串刺しにできるはずだ。この洞窟の中では満足に避けることもできまい。
しかし、魔獣は避ける気配をまったく見せなかった。逆に魔力を高め、身体を覆っている炎を活性化させると、クロエが目を開けていられないほどの白い閃光とともに太い炎の束を放射したのだ。
その炎の束が、空中でクロエの放った氷の槍と激突する。
ドオン! とまるで洞窟が崩壊したのではないかという凄まじい音が響いた。鼓膜がしびれるのをクロエは感じた。
しばらくして、クロエは眩しさで細めていた目を開けて茫然とした。自分が放った魔導の槍は今の魔獣の攻撃で粉々に砕けていたのだ。
きらきらと砕けた氷が舞い散る向こうに、無傷の魔獣が悠然と佇んでいた。
「そんな……」
クロエはそれを見ながら暗い予感が高まっていた。
今の攻撃で仕留められるとは思ってはいなかった。迎撃されるのも予想していた。しかし、かすり傷さえ与えられなかったのだ。小細工なしの全力の魔導を放ったのにもかかわらずだ。
魔導は込めた魔力の量によって威力が決まる。ただ、魔力の量が多くなるほど制御が難しくなるので、自分が保有している魔力を全て込めることは普通は出来ない。
クロエの放った<氷の槍>は<水>属性の中級魔導だが、今の彼女が込められる最大の魔力を注いだのだ。その制御術は一流といっても差し支えないはずだ。しかも、自身が最も得意とする属性でもある。それをあっさりと破られたのだ。
クロエは込み上げてくる絶望感を必死で押さえながら、次の魔導の準備に入る。ここであきらめるものか、と心の中で己を叱咤する。今までだっていつくもの危機を乗り越えてきたのだ。何かこの危機を脱する方法をひねり出すのだ。
そうクロエが考えているうちに、今度は魔獣が先手を打ってきた。
今度はほとんど予備動作なしで、先ほどのものよりも細い炎の束を十数本クロエに向けて撃ってきたのだ。
「!」
クロエは咄嗟に避ける。しかし、一本避けきれずに彼女の右足を貫いた。右足の感覚が消失し倒れこむ。
クロエが右足を見ると、足首を覆っていたブーツの一部が焦げていた。どうやらかすっただけのようだ。直撃していれば、足首ごと炭化していたかもしれない。どっちにしろ右足は当分動かせそうにないが。
魔獣はクロエが倒れこんだのを見て、一気に跳躍して襲いかかってきた。
クロエはあきらめずに鞭を振るうが魔獣の前肢にあっさりと弾かれる。
クロエはさすがに死を覚悟した。
だが、そのとき。
クロエの背後から放たれた強烈な風の塊が、跳びかかってきていた魔獣を叩き落したのだった。
大きな地響きをあげながら倒れこむ魔獣。
まさかの展開にクロエは唖然としながら背後を振り返る。
そこには、いつのまにかひとりの長身の女性が立っていた。
年齢はクロエと同じ十代後半というところだろう。長い青みがかった黒い髪を無造作に背中に流している。足元まである真っ黒なコートを着用しており、驚くほど軽装であった。腰にはひと振りの細身の剣を吊り下げている。かなりの美人ではあるが、どこかカッコいいと形容したくなる女性だった。
その女性はクロエを一瞥すると、冷たく吐きすてた。
「おまえは馬鹿なのか? 弱いくせにひとりで行動するな。馬鹿」
クロエにとって初対面で馬鹿と言われたのは初めての経験であった。しかも二度も続けて。
そのあまりの言い様に、かちんときたクロエは、助けてもらったのにもかかわらず言い返した。
「あ、あんたこそひとりでしょ!? いいから早く逃げなさい! かなり腕は立つみたいだけど、この魔獣はひとりやふたりの手に負えるような相手じゃない!」
それを鼻で笑う女性。
とことん腹の立つ女だ、とクロエは憤慨した。
しかし、その女性はクロエの様子を気にもせずに言い切った。
「かなり、だって? ――違うな。あたしはとんでもなく腕が立つんだよ」
自分でそこまで言うか、とあんぐり口を開けるクロエ。
そのクロエの表情を見て、女性はくくっと小さく笑い、こちらに怒りの眼差しを向けながら起き上がってきた魔獣を見ながら、
「まあ、見てな。この程度のヤツ、あたしひとりで十分だよ」
倒れたクロエの前にかばうように立ち、平然と言ったのだった――
「――これがあたしとウェンディとの出会いだったのさ」
クロエが話し終える。
「そういう経緯があったんですか」
ソラが珍しく興奮しているようであった。クロエもウェンディもあまり昔の話をしないこともあって、話に引き込まれたらしかった。
「それで、そのあとはどうなったの?」
いつのまにかマリナが近くまで来ていて話を聞いていたらしい。こちらも、わくわくした表情で続きを促していた。
「ん? あっという間に魔獣を倒したよ。まさに『風刃』の名にふさわしい瞬殺劇だったね」
『風刃』というのは<風>属性の魔導と烈風のごとき剣捌きを得意とするウェンディの異名である。
「それからおふたりはチームを組むことになるのですか?」
これまで黙っていたアイラが会話に参加してきた。こちらも今の話に興味をそそられたらしい。
「すぐにってわけじゃないよ。あたしからすれば初対面の印象は最悪だったしねえ。まあ紆余曲折あって組むことになったのさ」
「その後にウィリアムお祖父さまがチームに加わることになるんですね。クロエ祖母さまは、ウィリアムお祖父さまがウェンディお祖母さまを伴ってエレミアに戻るときについていかなかったんですか?」
ソラが訊く。
「ふたりからも誘われてはいたんだけど、国家の組織で働くというのがぴんとこなくてね。チームは合計四人でもうひとりいたんだけど、結局そこで解散になったのさ。まあ、そのあとはしばらく気楽な冒険者生活をしてから故郷であるホスリングに戻って、そこであたしも縁があって結婚したってわけさ」
だけど、とクロエは続けた。
「あのウェンディがウィリアムについていって、魔導騎士団に入団するだけでなく、結婚までするとは思わなかったよ」
クロエの言い分にソラたちも納得したように頷いていた。
ウェンディは傲岸不遜と自由奔放とを体現しているような人間なのだ。それでいて人を惹きつける魅力も持っているのだが。
「それはウェンディお祖母ちゃんがウィリアムお祖父ちゃんに惚れちゃったからでしょ?」
マリナがむふふと笑いながら言う。
それを聞いたクロエは苦笑して、
「まあ、確かにウィリアムは滅多にいない良い男だったのは認めるけどね。ただ、正義感の強い生真面目な男だからね。最初はふたりともよくぶつかってばかりいたし、そんな関係になるとは誰も想像できなかったよ」
そうこう話しているうちに、町の西門に到着した。
クロエが門番に話しかけると顔パスで入ることができた。
門番がソラたちの方を見て驚いたような顔をしていた。
「やっと着いた~! 早く行こうよお姉ちゃん! お祖母ちゃんの家はあっちだったよね?」
「こら、マリナ! そんなに急がなくてもお昼ごはんは逃げないよ! そんなに走ったら町の人に迷惑でしょう!」
マリナがソラの手を引っ張りながら早歩きで町の中に入っていき、そのあとをアイラが静かについてく。
クロエはその光景を見ながら微笑ましい気持ちになった。
そうというのも、昔、ソラのことをクロエは心配していたことがあるのだ。ソラが三・四歳の頃のことである。
ソラはとても礼儀正しく、また物覚えも非常によくて、難しい本を何冊も読んでいるような子だった。それに、子供とは思えないほど大人びていて、わがままもほとんど言わなかった。
周りの人間はすでにその頃からソラのことを神童といって称えていた。エーデルベルグ家の神童はすぐに有名になった。
しかし、クロエにはソラが無理やり自分を型にはめ込んでいるかのように窮屈に見えた。
それに、たまにソラが見せる影が気になっていた。本人は、他の人間に気取られないように注意していたようだが。
どこか遠くを見ているような視線。自分の居場所はここではないと言っているようで、クロエは不安になったものだ。どこかへ行ってしまうのではないかと。
一度、そのことでウェンディに相談したことがある。今や共通の孫をもつ元冒険者仲間であるウェンディは、『時が解決するよ、たぶん』とひと言だけ言った。
かなりいい加減な回答だったが、ウェンディの言うことはけっこう当たるので、クロエもしばらくは見守ることにした。
それから数年後に息子のトーマスが久々に里帰りしたときに、一緒についてきたソラを見てクロエは驚いたものだった。
どんな心境の変化があったのかは知らないが、あのときの影が綺麗さっぱり無くなっていたのだ。不安定に見えていたのも、すっかり地に足がついているという感じだ。
こんな表現はおかしいかもしれないが――ソラという存在が板についてきた。そんな印象を受けたのだ。
それを見てクロエは安心したものだ。結果的にはだが、ウェンディの言っていたことは当たっていたのだから。
そして今、目の前をじゃれあいながら歩いている姉妹を見る。
その姿は生命力に満ち溢れている。自分の生きる道や目的を見出している者だけが放てるものだ。
クロエは優しい笑みを浮かべながら孫たちを見つめるのだった。