第5話
ブライアンが勝利を収めたと分かるや周囲のギャラリーから大きな歓声が上がった。
なにやらブライアンコールまで起きているほどである。
当の本人は後頭部をかきながら所在なげに突っ立っていたが。
マリナがきょろきょろと周りを見ながら、同じく決闘を見ていた受付のお姉さんに尋ねる。
「もしかして……ブライアンさんって有名人だったりするの?」
すると、お姉さんはやや誇らしげに答えた。
「そうですね。女、酒、ギャンブル好きと三拍子そろったどうしようもない人ですけど、彼はここネイブル王国出身の冒険者でも出世頭といえる人なんですよ」
「ほえ~! あのブライアンさんがねえ」
「今のを見ても、到底信じられんが……」
マリナが目を丸くして歓声を浴びているブライアンを見つめ、その隣ではアイラが狐につままれたような表情をしていた。
「ネイブル王国の人間、とりわけ冒険者でブライアンさんの名を知らない人はほとんどいませんよ。相対した方はまだ若いですし、顔までは知らなかったでんしょうね」
仲間に助け起こされている戦士Aを眺めながら言うお姉さん。
あのオッサンはどうも思った以上に大物らしかった。
お姉さんの言葉を裏打ちするかのように、おもむろに戦士Eことイーサンが何かに気づいたように目を見開いて叫んだ。
「……あ、あんた。ひょっとして、あのブライアン・グッドマンか?」
「……『八ツ星』の!?」
「こ、このオッサンが?」
ブライアンの正体に気づき動揺するアルファベット戦士団の面々。
完膚なきまでに叩きのめされた戦士Aも唖然とした表情で目の前のオッサンを見つめていた。
ブライアンは無精ひげに手をやりどこか手持ち無沙汰そうにしながら、
「今じゃしがない中年冒険者だよ。『八ツ星』の称号も運が良かっただけだし、その時の仲間に恵まれたっていうのもある」
謙遜するブライアン。オッサンのわりに照れ屋なのかもしれない。
だが、星八つともなると運が良ければ取得できるものではないし、長年コツコツとクエストをこなしたとしても決して辿りつくことはできない。
大抵の冒険者は『五ツ星』か『六ツ星』くらいで頭打ちとなる。それ以上の星を獲得するにはクエストの数だけでなく質や規模も問われてくるからだ。
それこそ、高難度のクエストをいくつも達成したり、国家レベルの事件を解決したりなど、ほかにも何らかの特例を満たすような功績を挙げなければ到達無理だろう。
マリナがたった一件の依頼で『二ツ星』にまで昇格できたのも妖魔退治に貢献したという特例なのだ。
しばらく驚愕していた戦士Aだったが、よろけながらも立ち上がりブライアンをまっすぐに見つめた。
「……まさか、あんたがあのブライアン・グッドマンだったとはな。俺がガキの頃から活躍してる一流冒険者じゃねえか。あんたが解決したでかいクエストをいくつも知ってるよ」
ぽつぽつと語る戦士A。オッサンを見る目があきらかに変わっていた。
しかし、意気消沈していた戦士Aがふいに強い目になる。
「でも、あのクエストをあきらめるつもりはないぜ。アンタから見たらまだまだヒヨッコかもしれないが、俺たちだって命懸けで冒険者をやってきてるんだ。それに、挑戦を怖れてたら成長もできないんだからよ」
静かに聞いていたブライアンは困ったように肩をすくめた。
戦士Aは軽く頭を下げると、まだ少し足をふらつかせながら去っていった。それに続くアルファベット戦士団。
今度は彼らと入れ替わるように同郷三人組とフラドがブライアンのところにやってきた。
「オッサンって凄い人だったんだな。片田舎に住んでた俺でも知ってる名前だし、この国で冒険者を目指すヤツで知らないヤツはいないだろうな。……けど、あいつが言ってたとおり難易度にビビッて避けてるようじゃいつまでたっても前へは進めないぜ。だから、俺らも明日は予定通り行くよ」
まだどこか垢抜けない顔立ちのアンディはそう言って踵を返した。
彼と一緒にチームを組む二人――マリアンは「私はこの馬鹿のお目付け役みたいなものだし」と微笑し、エリザも「二人が行くところならどこにでも行くよ~」とアンディと共に行く意思を表明する。
マリアンとエリザはソラたちの方を向いて、「縁があったら、お互い頑張ろう」と声をかけてアンディを追うように去っていった。
最後にフラドが挨拶する。
「……私は私で目的がありますから、彼らと一緒に行くつもりです。……皆様も明日屋敷に行く予定なのでしょう? 現地で出会うことがあったら、その時は共闘して助け合いましょう」
フラドはきれいな礼をすると、マントをはためかせてそのまま雑踏の中へと消えていったのだった。
周囲にいた群集も解散していく。
先ほどまで騒がしかった場が急速に静けさを取り戻していった。
ブライアンは頭をかきながらソラたちに歩み寄ってくる。
「……やれやれ。オッサンが身体を張ってまで止めたのにちっとも聞きゃしねえ。青臭いことを抜かしやがって。これが、若さってもんなのかね」
ぶつぶつと文句を言うオッサン。
ソラはブライアンを見上げる。
「ブライアンさんが『八ツ星』の冒険者なんて想像もしてませんでしたよ。紹介するときに教えてくれればよかったのに」
「そうですよね。それほどのランクの冒険者なら心強いですよ」
同意するように頷くコレット。
ブライアンは曖昧な笑みを浮かべる。
「別に隠してたわけじぇねえんだが、素直にランクを明かすと実力以上の働きを要求されることが多くてな。はっきり言って面倒なんだわ。俺だっていつまでも若くいられるわけじゃねえし。全盛期の俺――女の子たちからキャーキャー言われてたハンサムボ-イの時の俺なら体力に任せて突っ走れるんだがな。いや、今でも男の渋みで人気があるんだけどよ」
「それで、明日はさっき決めたとおり朝一番の馬車で向かうということでいいんですよね?」
ソラがあっさりとスルーすると、ブライアンはガクッとつんのめった。
相変わらずリアクションの大きい男である。
「……いい加減、オッサンも泣きなくなってきたぜ。今時の若い連中はもう少し俺を敬ってくれてもいいんじゃねえか?」
愚痴をこぼすブライアン。
すると、隣に立っていた受付のお姉さんが微笑みながらオッサンに話しかけた。
「ご苦労様でした、ブライアンさん。望んでいた結果とは違ったかもしれませんけど、きっと彼らにもブライアンさんの言葉は響いたはずです。さっきはとても格好良かったですよ」
そのお姉さんの言葉にグチグチと言っていたブライアンはパッと顔を明るくする。
「――だろ!? いや~、やっぱり大人の女には分かるんだな、お子様には分からない俺の魅力ってやつが。――というわけで、今夜食事でもどうだい? 君が見たことのない世界を見せてやるぜ?」
ブライアンは髪を撫でつけニヒルな笑みを浮かべる。どうも格好をつけているらしい。
お姉さんはにっこりと笑って、
「お断りします。かといって、お嬢さんたちを誘ったりしないでくださいね。彼女たちにちょっかいをかけようとしたら警備隊に即通報しますから」
と、すげなく断りを入れるのだった。ついでに釘もしっかりと刺している。
ブライアンは、「今の流れでそれはねえだろ~」と大袈裟に膝をつき瞳をウルウルとさせた。
オッサンがそんなことをしても全然可愛くなく、むしろ気持ち悪いのでソラたちはここらで解散することにした。
「――じゃあ、皆さん。明日は頑張りましょうね~!!」
「――あ! コレットさん!!」
杖を持つのとは逆の手をぶんぶんと振って去りかけたコレットに思わずソラは声をかけた。
「――はい? どうかしました?」
「……あ、いや。その、明日待ってますね」
言葉を濁すソラをコレットは不思議そうに見ていたが、やがてにっこりと笑って去っていったのだった。
その後ろ姿をしばらく見送っていると、受付のお姉さんもう~んと伸びをして、
「私もそろそろお仕事に戻らないと。そうだ、皆さんのクエスト受諾の件は私が処理しておきますから。それと、明日は気をつけてくださいね。危ないと思ったら逃げるのもひとつの手です。ブライアンさんじゃないですけど、死んだら元も子もないですからね」
ソラたちを気遣いながら協会の中へと姿を消した。
マリナが背負った剣の位置を微調整しながらソラに顔を向ける。
「私たちも宿に戻ろうか? そういえば、そろそろお昼ごはんの時間だよね」
「確か携帯食料の残りが少なくなってきてたでしょ? 補充してからお昼にしようと思うんだけど」
「そうですね。準備はしっかりとしていきましょう。私がお嬢様たちをしっかりとお守りしますし、いざとなればブライアンを盾にするつもりですが、現場では何が起こるか分かりませんから」
三人は頷き合い、準備する物を相談しながら歩き出す。
ソラは歩を進めつつも当初考えていたものとは随分かけはなれているクエストを選んだものだと思う。軽めのクエストにしようと思っていたのが遠い過去のようだ。
今まで多くのチームが断念し、あるいは生還することさえできなかった、大量のアンデッドがうろつく幽霊屋敷。
そして、今回同じクエストを受けるそれぞれクセのありそうな冒険者たち。
どうも、ただの探索では終わらない予感がするのだ。
(……そういえば、前世でもあちこち行ったっけ)
まだソラが空矢だった頃、当時つるんでいた悪友といろんなホラースポットを巡ったものだ。
廃墟や廃神社、廃村にまで足を運んだこともある。実際、人魂らしきものを目撃したこともある。
あの時はプラズマか何かだろうと考えていたが、あれは本当に人の魂だったのかもと今なら思う。
ただそうと認識できなかっただけなのかもしれない。はっきりと魔力を視る術を持たなかった当時の自分では。
それに、なんだかんだで自分も明日のクエストを楽しみにしているようだ。
どこか遠足に行く直前のような高揚感があるのである。
妹のことを言えないなとソラは苦笑した。
「――あれ? まさかのオッサン放置? しかし、美少女からの冷たい仕打ちにどこか悦に浸っている俺がいるのも確かなのだった……」
なにやら背後から声がしていたが、当然三人は振り返ることもなくその場から立ち去るのだった。
※※※
一通りの用事と昼食を済ませたソラたちは宿へと戻ってきていた。
ソラがカウンターで部屋の鍵を受け取っていると、
「お姉ちゃん。お土産屋さんを覗いていくから先に戻ってて。あちこち歩いて汗を搔いただろうし、シャワーを浴びててもいいよ」
ロビーの奥にある売店コーナーをキラキラと見つめながら言うマリナ。
どうやら、また大量に買い込みそうな予感である。
「ほどほどにね。お店の人に迷惑をかけないようにしなさいよ」
「分かってるって。ほら、アイラもついてきて!」
マリナがぐいとアイラの腕を掴む。
いわゆる荷物持ちだ。マリナの買い物は大抵時間がかかるのでソラとしては同情しないでもない。
急なことに困惑していたアイラも観念したように頷いた。
「――お嬢さま、戸締りをしっかりとお願いします。それと、知らない人間が訪問してきても無視してかまいませんから」
ソラの方を向いて念を押すように言ってそのままずるずると引きずられていったのだった。
子供じゃないんだしとソラは困ったように笑う。アイラの心配性は相変わらずである。
二人を見送ったソラはエレベーターに乗り最上階まで上がる。
到着すると高価なカーペットが敷いてある廊下を歩いてこの宿で最も高級な部屋まで歩く。
ソラは鍵を使って部屋へと入り施錠した。
妹の言うとおり少々汗を掻いている。ソラは羽織っていたローブをソファにかけながらシャワーで軽く汗を流そうと考えた。
本格的なお風呂は夕食の後だ。そのときは普段よりも念入りに洗っておいたほうがいいだろう。
今回のクエストでどれほどの日数がかかるのかは分からないが、予想以上に長引く可能性もある。そうなると何日もお風呂には入れないかもしれない。
ソラがまだ冒険者資格取りたての頃、とあるクエストで森に三日三晩こもりっきりだったことがある。まだアイラと二人で行動していたときだ。
あのときは高い湿気で服から下着が汗でびっしょりになり、その上ちょろちょろと細い川しか流れていなかったので、満足に水浴びをすることもままならずひたすら耐えるしかなかったのである。
それに、男女に限らず異常なほど綺麗好きな日本人だったせいか、基本的に何日もお風呂に入れないのは苦痛なのだ。
あまり長引かないことを祈りたいところである。
ソラは脱衣所の籠に手早く服を脱ぎ、きちんと折りたたむと、なぜか玄関から持ってきた靴べらをその上に置いた。
それから、清潔な白いタオルを手に引っ掛けて浴室へと入る。
シャワーの蛇口を捻ると生温い水が頭上から勢いよく降ってきた。
ソラのおでこに当たった水は形のいい顎から白い首筋を流れ、ここ一~二年で急激に成長しだした美しい膨らみを通り、内臓が入っているのか疑わしいほど細くくびれた腰を経由し、柔らかそうな太ももを伝って足元へと落ちた。
頬に張り付いた髪を後ろに流しながらソラはほっと一息つく。
少々冷たいが熱っぽい身体を適度に冷やしてくれるのでとても気持ちが良い。
しばらくソラが目を閉じて打たれていると徐々に水が温められてきた。
マリナが熱望するシャワー、つまり魔導式のボイラー設備があるホテルというのは少数なのだ。
加えて、アイラが要求する防犯レベルを満たすホテルはこの街においてはここだけであった。
なので、自然とこういった高級宿に落ち着くのである。別に贅沢がしたいわけではないのだ。
今でこそ名門のお嬢様なぞやっているが、ソラは元々標準的な一般庶民だったのだから。
(……さて、簡単に身体を洗って、夕食まで本でも読もうっと)
ソラは目の前の棚からスポンジを取り身体をこすり始めるのだった。
ソラが浴室に入った頃、最上階へと通じる階段を「むふふ……」と笑いながらゆっくりと上る怪しい人影があった。
言わずもがなマリナである。
彼女のお目当てはもちろんソラだ。姉の入浴中を狙って乱入しようという魂胆なのである。
お題目は姉の身体調査ということになっているが、要はセクハラをしに行くのだ。
マリナはついこの前も温泉町でこっぴどく叱られたにも関わらずこれっぽっちも懲りていなかったのである。
ある意味、感心するくらいタフな精神であった。
マリナは慎重に階段を上がっていく。
リラックスしているときは問題ないだろうが、姉の気配を察知する能力は注意しなければならない。少しでも不審な気配を感じれば即座に生体反応を探りにくるはずだ。そうなったらアウトである。
ここまで色々と工作してきたのが全てパアになってしまうのだ。
先ほどマリナはまず姉をひとりで部屋へと帰しさりげなくシャワーを勧めた。
買い物の長さには定評のあるマリナである。姉も相当長引くものと予想しているはず。その隙にひと浴びしようと考える可能性は高い。
ソラと別れた後はアイラに忘れ物があるからと適当な理由をつけてカウンターに戻り予備の鍵を受け取ったのだ。
マリナの思惑を知るはずもないアイラは今頃お土産コーナーをウロウロとしているだろう。
そして現在、マリナはこうして階段から部屋へ向かっているのだった。
別にエレベーターでもよかったのだが、なんとなく気分である。
完全に気配を殺したマリナは壁際に身体を寄せて足音を一切立てずに階段を上へ上へと進む。まさに特殊部隊の隊員にも匹敵する技量であった。
一分ほどで最上階へと辿り着く。
途中ですれ違った清掃係のおばさんが唖然としていたが、今のマリナにとってはどうでもいいことである。
マリナは腰を低くして廊下をそろそろと静かに歩く。敷かれているふかふかのカーペットが足音を消すのを手伝ってくれた。
目指す部屋は最も奥にある。あと十数メートルの距離だ。
マリナは息を潜めて歩きながらも思う。
はたして自分と同じ経験ができる妹がどのくらい存在するのかと。
男から性転換した姉は普通の女の子とは一味違う初々しさをもち、そのリアクションがいちいち可愛いのだ。
その姉をおもいっきりいじる。そんなことができる妹はこの世界に、あるいは全宇宙にも存在するかどうか。
(――いや、私しかいない!!)
マリナは断言する。そして、その唯一が自分だったことに感謝する。神様か何かだかに。
(むっふっふ。待っててね~お姉ちゃん!)
笑い出したいのをこらえながら進んでいると、ようやく目的の部屋へと到着した。
扉に耳をつけて慎重に中の気配を探る。
入った先のリビングルームには誰もいないようだ。
マリナはしめしめと思いながら懐から予備の鍵を取り出す。ここからは更に集中力を高めなければならない。
鍵をゆっくりと鍵穴に挿し込み回転させ、極力音が漏れないように鍵を外すことに成功する。
細心の注意を払いながらノブを回しわずかな隙間を空けた。
部屋の中に注意を向けると、優秀な聴覚が奥からかすかに水の流れる音を捉えた。
マリナはほくそ笑む。狙い通り姉はお風呂に入っている。これまでの苦労が無駄にならずにすんだようだ。
確認を済ませたマリナは滑り込むように部屋へと侵入し、そのまま流れるように扉を閉めた。もちろん、ほとんど音を立てずにである。泥棒もびっくりの手際であった。
マリナがリビングルームへと入るとソファにかけられている姉のローブを見つけた。
その横に自分のローブを置き、背負っていた剣も外して身軽な格好になる。
ニヤリと笑うマリナ。いよいよ浴室へとレッツゴーだ。
服を脱ぎ散らかしながら徐々にマリナが姉のもとへ近づいていくとシャワーを操る音が聞こえてきた。
脱衣所に到達したマリナは様子を窺う。
籠には姉が纏っていた衣類がきれいに畳まれて置かれていた。几帳面な姉らしい光景である。
前方に視線を向けるとすりガラスの向こうにぼんやりと姉の白い背中が見えた。もはや目標は目と鼻の先だ。
下着を脱いで全裸となったマリナはついにその時が来たのだと感無量になる。
前回では姉の手痛い反撃を食らい途中で断念せざるを得なかった。一瞬の油断が招いた痛恨事であった。
だが、今回はちゃんと対策を考えてある。背後さえとってしまえばこちらのものだ。
それからは自分が満足するまで好きにやらせてもらう。姉がギブアップしてもおかまいなしである。
その後は地獄が待っているだろうが、やりきった後ならば悔いはない。
(――これが、私の進む道!!)
表情をきりっとさせて浴室へのドアに手をかける。
マリナはすうと息をひとつ吸うと、素早くドアを開けておもいきり姉の背中へと跳躍した。
「――お姉ちゃん!! 抜き打ちチェックの時間だよ~!!」
反応する間を与えずにソラの白い背中に飛びつく。
マリナは腕の中にがっちりと姉を抱え込み勝利を確信した。
姉は驚きのあまりか抵抗どころか身じろぎひとつすらしない。
にんまりと笑うマリナ。もはや煮るのも焼くのも自分次第である――
「――って、あれ?」
ここでマリナはなにか感触がおかしいことに気づいた。
腕の中を見てみる。
すると、姉だと思っていたものは姉ではなく、部屋に備えつけてあった真っ白なバスタオルであった。
目の前を見る。
そこには真ん中に穴が開いているバスチェアーが置いてあり、穴には長さ一メートルほどの黒光りする靴べらが刺さってあった。どうやらこの靴べらにバスタオルを立て掛けてあったらしい。
シャワーからは今もお湯が流れ出ていて、浴室にも湯気が充満しているのに肝心の姉の姿がない。
マリナが思わず首を捻っていると、背後から突然おどろおどろしい声が聞こえてきたのだった。
「――マ~リ~ナ~」
「――ひいっ!?」
身体をびくっとさせてマリナは硬直する。
おそるおそる振り向くと、そこにはマリナが開け放したドアに隠れるようにして姉が立っていのだった。
ぎいいと不吉な音を立てながらドアが戻っていき姉の全身があらわになる。
姉は身体にバスローブを着込んでおり、腕を組んで静かに仁王立ちしていた。
直前までシャワーを浴びていたのは間違いないらしく白い髪からは滴がぽたぽたと落ちている。
姉は不自然なほど優しい笑みを浮かべながら語りかけてきた。
「あんたもいい度胸してるよねえ。ついこの前のことなのに。『喉もと過ぎれば熱さを忘れる』、なんてことわざもあるけど……。いくらなんでも早すぎない? ねえ?」
「あ、あわわ」
マリナはガクガクと身体を震わせる。
姉が本気で怒っているとき、表面上は穏やかな笑みを浮かべているものなのだ。
(こ、これは、かなりやばいかも)
姉の姿を見つめつつ冷や汗が止まらないマリナ。
すぐ目の前にはお湯に濡れて艶かしく光っている姉の太ももがあるのだがとても視線を向ける余裕などない。
なんとか弁明しようとするが口が上手く動かない。ついでに身体も金縛りにあったのかのように微動だにしない。まさに蛇に睨まれた蛙状態である。
姉は「ふふふ……」と笑いながら冷たい瞳でマリナを見下ろしていた。
しかも、気のせいか髪の毛がゆらゆらと不気味に蠢いている気がする。
はっきりいって下手なホラーよりも迫力がある。本気でちびりそうになるほど怖い。
ゴゴゴ! と姉は徐々に威圧を高めていく。
「この前、あれだけ叱ったのに……。どうやら、お祖父さまなみの長~い説教をご所望のようだねえ」
「そ、そんな……!」
絶望するマリナ。
祖父の説教といえばそれはもううんざりするほど長いのである。その上、途中から何度も同じ台詞を繰り返すので聞いていて苦痛なのだ。
それに、何の成果も挙げられないまま説教だけを受けなければならないとはあまりにも酷い話ではないか。神も仏もないとはこのことだ。
マリナは恐怖に身体を震わせながらもなんとか説得を試みる。
「あ、あの、お姉さま……。明日は朝早いですし、ほどほどにしておいたほうがいいんじゃないかな~なんて思うんですけど。はい」
だらだらと汗を流しながらそう言うと、静かに聞いていたソラがくわっと目を見開いた。
「――うるさいっ!! 今日は私が満足するまでみっちりと説教するからね! 覚悟しなさいよ!!」
「――ひょええええええええええええええええっっっ---!?」
最上階のスィートルームに少女の悲痛な叫び声が響き渡ったのだった。