マーガレットの日記②
ソラとバートルの勝負が公に認められてから数分後。
さっそく二人は握力テストから勝負を始めることになり、今は順番を待っている次第である。
二人の勝負は体育館にいる人間たちに広まっているようで、生徒たちはテストを受けながらも密かに注目しているようだった。
今年度主席入学にして名門エーデルベルグ家の令嬢と南の大国ゴルモア王国の王族との対決は否応なしに興味が集まろうというものだ。
可憐で華奢な少女と立派な体格の大柄な少年。結果は火を見るより明らかだが、一組の生徒たちは普段から少女の身体能力を見せつけられているので、いい勝負になるのではと期待しているようだった。
マーガレットはノエルと列に並びながら思ったよりも大事になったものだと思う。
これは本来する必要のない勝負なのだが、あれやこれやという内に既定路線となってしまった。
しかも、本人たちがやる気満々な上に周囲も注目しているとあればもはや止めようがない。
(……お姉さまにも困ったものです)
ソラの背中を眺めつつマーガレットは溜息をつく。
敬愛すべきあの少女は負けず嫌いというか勝負にこだわるところがある。
今回、マーガレットとしてはそれが裏目に出た。
こうなったら、もうソラの勝利を願うしかない。
ソラに勝ってもらって、あのジャガイモ頭に腹踊りをしてもらうのだ。
しかし、ここでマーガレットはふいに怒りを感じた。
(というか、そもそも教師が止めるものじゃありませんか!?)
そうだ。ここまで後戻りできなくなったのは誰のせいなのか。
むしろ、勝負を煽った人物がいたのだ。
それは――
「――おお、二人とも気合が入っているようだね。結構、結構」
背後からマーガレットが思い描いていた人物の声が聞こえてきた。
振り向くと、案の定そこには巨漢の校長グリフィスが立っていたのだった。
今回の勝負の元凶ともいえる老人である。
マーガレットは悠然と笑っているこの老人に文句でも言ってやろうかと口を開きかけたが、その姿が先ほどと異なっていることに気づいた。
ノエルも奇異に思ったのだろう、首を傾げながら訊く。
「……校長先生? 何なんですか、その姿は?」
「うん? これかね。私も若人たちに混じってテストを受けてみようかと思ってね」
グリフィスはなぜかジャージを着ていたのだ。
しかし、サイズがかなり小さいらしくはち切れんばかりにパンパンになっている。今にも引きちぎれそうだ。
「体格の大きな先生のものを借りてきたのだが、それでも私には窮屈なのだよ」
苦笑いを浮かべるグリフィス。
それはそうだろうとマーガレットは思う。
体長が二メートルを超える上にオーガともタメを張れそうなほど筋骨隆々としているこの老人に匹敵する体格の持ち主などそうそういるものではない。
スーツから身体の線がもろに浮き出るジャージに着替えたことでよけい筋肉が強調されており圧迫感がもの凄い。
(しばらく姿が見えないと思っていたら、自分も参加するために着替えていたなんて……)
呆れるしかないマーガレットだ。
やはり、この勝負をお祭り騒ぎのように考えているのかもしれない。
そう考えると、忘れていた怒りがまたぶり返してきた。
「……校長先生! 本当に二人に勝負をさせるつもりなんですか!? ソラさんが負けたら使用人の真似事なんかさせられるんですよ!」
マーガレットが食ってかかるとグリフィスは穏やかな視線を向けてきた。
「かまわんよ。エーデルベルグ家には私から話を通すつもりだし、ソラ君は社会勉強の一環とでも思えばいい。心配なら君もついていきたまえ」
「で、でも」
「……それと、今回の一件はちょうどいいガス抜きになると思ってね」
「ガス抜き、ですか?」
ノエルがおうむ返しに訊き返す。
「うむ。バートル君のことだよ」
あのジャガイモ頭が何だというのか。
マーガレットたちの疑問に答えるようにグリフィスが口を開く。
「バートル君がエレミアからずっと南に下ったところにあるゴルモア王国から来ているのは知っているね?」
頷くマーガレットとノエル。
「魔導分野で立ち遅れたゴルモアは近年その遅れを取り戻すべく頻繁に人材を送り込んでいるのだが、バートル君もそのひとりでね。彼は王族代表としてエレミアに留学している身なのだよ。……だが、彼自身はかなり不服のようで、魔導を学ぶ必要などないと考えているらしいね。父である国王の指示だから仕方なく来ているということらしい」
「……王の命とあれば仕方ないでしょう。そもそも国家に貢献するための留学なのですから。それにしても、魔導が必要ないだなんて、子供のくせにずいぶん頭が固いでことですね」
遠慮のないマーガレットの意見にグリフィスは苦笑している。
「なんにせよ、それでバートル君はストレスが相当溜まっているようなんだよ。エレミアでの暮らしにもあまり馴染めていないようだし、ソラ君との勝負で一度発散させてあげようと思ってね」
「だからといって……」
「……それに、彼はまだ君らと同じ八歳の男の子なのだよ。子供とは思えないほど大きな身体をしていて強がってはいるがね。同郷出身の使用人たちがいるとはいえ、あの歳で家族と離れて遠い異国に留学してくるのは大変なことだろう」
グリフィスが気遣いの混じった視線をバートルの背中に注ぐ。
人の良いノエルがさっそく頷いていた。
「そうですね……。ボクだったら毎日泣いているかもしれません。母から離れてほかの国に留学するなんて考えられないです」
あれだけ怯えていたにもかかわらず、今の話を聞いて同情の念を抱いたらしい。沈痛な表情を浮かべている。
理由がどうあれ、理不尽に突っかかってこられたことには違いなのだが、根が善良でお人良しなノエルらしい反応ではあった。
マ-ガレットは溜息をつく。
(そんなことを教えられたら、もう何も言えなくなってしまうじゃありませんか)
さすがにこれ以上ねちねちと文句を言うほどマーガレットも恥知らずではない。
「なに、ソラ君の勝利を信じていればいいだけの話だろう」
落ち込み気味のマーガレットを見下ろしたグリフィスが笑いながら言う。
どんよりとした表情でマーガレットは能天気に笑う校長を見上げる。
(こ、このジジイはまた適当なことを言って……)
恨みがましく睨みつけているとソラたちの順番が来たようだった。
二人の火花を散らした会話が聞こえてくる。
「じゃあ、俺から行くぜ。せいぜい腰でも抜かさないよう気をつけるんだな」
「御託はいいからさっさとしなよ。後もつかえてるんだし」
「……本当に生意気な女だな!」
ソラの挑発に浅黒い顔を怒りで赤く染めたバートルだったがすぐに余裕綽々の表情へと戻る。
目の前の小さな女の子に自分が負けるとは微塵も思っていないのだろう。
すると、バートルはおもむろに袖をまくり二の腕に力を込め始めた。もりもりと上腕二頭筋が盛り上がりきれいなこぶを形成する。
とても初等学校の一年生とは思えない筋肉に周囲の生徒たちからどよめく声があがる。
バートルはそのまま両腕に力を込めたままソラに見せつけた。どうやら一種の示威行為らしい。
当のソラは無視して柔軟体操をしていたが。
(……なんで、ああいう方々は必要以上に自慢したがるのでしょうか)
むさくるしい光景を見せつけられてマーガレットは辟易とする。
グレイシアといいプライドの高い人間に限って自意識過剰な部分があるのだ。
ひとしきり見せて満足したらしいバートルはようやく握力計を握る。
周囲からごくりと唾を飲む音が聞こえてきた。
先ほどの筋肉からしてどれほどの記録が出るのかと期待が高まっているようだ。
バートルは再び腕の筋肉を盛り上がらせると気合の声と共に握力計をおもいきり握りしめた。
「……おらあっ!!」
ググッと針が目盛りの上を進む。
最終的にその針が示した数値は――
「……さ、三十っ!?」
ドヨッと驚きの声が上がる。
とうてい八歳が出す記録ではない。男子の平均の倍以上である。
バートルは握力計をソラに手渡しながらニヤリと笑った。
「どうだよ。これでも俺に勝てるなんて思えるか? お前が負けたら便所掃除なんかもしてもらうからな」
「…………」
無言で握力計を受け取るソラ。
すると、ソラはふううと深い呼吸を繰り返し始めた。
隣ではバートルが余裕の笑みを浮かべている。
皆が見守る中、ソラは息を止めると握力計を握る手に力を込めた。
「――ふっ!!」
少女の短く呼吸を吐き出す音が聞こえてくる。
針が大きく動く。
バートルの目が見開かれた。
周囲にいた人間たちは針の止まった目盛りを確認する。
一転して驚愕の声を上げるバ-トル。
「……お、俺と同じ、だと……!?」
そう。ソラの握力計の針は三十を示していたのだ。
女子の平均を大幅に上回る記録である。
バートルのときよりも大きなどよめきが場に満ちた。
「ウ、ウソだろ……。こいつ、本当に女か?」
「ほう……」
衝撃を受けた様子のバートルに感心した声を出すグリフィス。
ソラは次の生徒に握力計を手渡しながらバートルの方を向く。
「……便所掃除がどうしたって? キミこそどんなイラストにするか考えておきなよ」
うぐっと悔しそうに顔を歪めるバートルだが何も言い返せないようだ。
負けるはずがないと思っていた競技で差をつけるどころかいきなり出鼻をくじかれたのだ。本人にはかなりのショックだろう。
ノエルがソラに駆け寄る。
「すごいです! ソラさんって力持ちだったんですね!」
「純粋な筋力なら彼には全然勝てないよ。ただ、瞬間的な握力ならちょっとした技術を使って上げられるんだよね」
ソラはバートルに見えないようマーガレットたちに舌を出して見せた。
どうやら、東方武術のなんらかの技だかを使用したらしい。
いずれにしろ、予想を遥かに超えるソラの記録に周囲の盛り上がりも俄然高まっているようだった。
すると、マーガレットの視界にグリフィスが握力計を握っている姿が入ってきた。
本気であの老人も参加するつもりらしい。
年も年なのであまり無理をしないほうがいいのではと思っていた矢先。
「……ふんっぬ!」
グリフィスの裂帛の声とともにグシャッ!! と不吉な音が聞こえてきたのだった。
見ると、握力計が握りつぶされて飴細工のようにぐにゃりと変形しており、針は最大値の百キロを越えて振り切れていた。
「…………」
あまりの光景に二の句がつなげないマーガレットと周囲の生徒たち。
背後でソラとバートルの審判役をさせられていたレヴィンが困ったように頭をかく。
「困りますよ~、校長~。それ、けっこう高いんですからね」
「ん? おお、申し訳ない。学校の備品を壊してしまったか。後で弁償しなければならんな」
無残な姿になった握力計を見つめながら元気に笑うグリフィス。
「……あのジジイはそもそも人間なのかよ……」
ソラと並んで呆然と見ていたバートルが皆を代表したコメントを呟くのだった。
ちなみに。
「きいいっっっーーー!!!」
箸よりも重いものを持ったことのなさそうなグレイシアはたったの七キロであった。
※※※
誰もが想像だにしなかった波乱の一回戦が終了した後は垂直跳びである。
生徒の跳躍力を測るテストだ。
「ゴルモアの男はゴルモア相撲で足腰を鍛えてるんだ。今度こそ負けねえぞ」
鼻息も荒く屈伸をくり返すバートル。
先ほどよりは余裕がなくなっている。思った以上にソラができそうなので警戒しているようだ。
対するソラはやはり無言で準備運動をするのみ。
傍から見ているマーガレットからすればまことに頼もしい姿だ。
「ふむ。次はどうなるかな」
隣では握力計を握りつぶして破壊したばかりのグリフィスが腕を組んで二人を眺めていた。
本当にのんきな老人である。
指に粉をつけ、準備を終えたバートルが壁際に寄った。勝負開始だ。
バートルはぐぐっと足をたわめると勢いよく跳躍した。
鈍重そうな見た目とは裏腹に大した跳躍力である。
「おらっ!!」
跳躍の限界点にまで達したバートルは手を伸ばし壁に粉つきの指をこすりつけた。
静止時にあらかじめ手を伸ばしてつけた粉の位置と跳躍時にマーキングされた点との距離が記録となる。
ずだんっと質量のある身体を着地させるバートル。
「……どうだよ、今度こそ俺の勝ちだろうが!」
さっそく記録を測るレヴィン。
「え~と……。おお! 四十五センチですね! 満点ですよ!」
おおっ!! と生徒たちの歓声が上がる。
これまた八歳児とは思えない跳躍力だ。五年生にも匹敵する記録である。
ゴルモア相撲とやらで鍛えていると豪語するだけはある、とマーガレットも感心せざるを得ない。
次はソラの番だ。皆の視線が白髪の少女へと集まる。
ソラは目の前を見ているようでどこか別のところを見ているような遠い目をしていた。
どうやら極度の集中に入っているようだ。
マーガレットが見守るなか、蒼い瞳を鋭く細めソラは腕を大きく振り上げながら跳躍した。
「――っ!」
惚れ惚れとするくらいしなやかに身体をしならせて跳躍したソラは流れるように壁へとマーキングをおこなった。
さすがお姉さまとマーガレットは手を握る。
頂点へと達したときにスムーズにマーキングするのはけっこう難しいのだ。
軽やかに地面へと降り立つソラ。
白髪をふわりとなびかせながら着地した少女に周囲から感嘆の声が漏れる。
そして、少女の記録は――
「おおっと!? 四十七センチ! 大したものですねえ!」
メジャーを使って測っていたレヴィンが驚いている。
バートルをも上まる記録に見ていた生徒たちから大きな喝采が上がった。
少女とは思えない身体能力で期待以上の記録をたたき出し、かつ可憐で凛々しい姿はどこか現実離れしていて、生徒たちは男女に関係なく憧れの眼差しを向けているようだった。
とりわけソラと関わりが少ない二組の生徒たちの衝撃は大きかったようだ。
(ふふん。誰もがお姉さまの魅力に目が釘付けになっているようですね)
ソラを至高の存在と考えるマーガレットは鼻高々である。
マーガレットたちの元へ戻ってきたソラにノエルが声をかける。
「ソラさん、格好良かったですよ! バートルさんよりも高く跳ぶなんて!」
「あれにはちょっとコツがあってね。腕の振りと重心移動を上手に行えば記録が伸びるんだよ。バートルは身体能力にまかせて跳んだだけだし、そこらへんはやっぱり子供だね」
ソラが悔しそうな表情をしているバートルに視線を向けながら言う。
(聡明なお姉さまにかかれば、あのジャガイモ頭もまるっきり子供扱いですね!)
目をハートマークにするマーガレット。ますますのめりこみそうだ。
すると、背後からあの老人の声が聞こえてきた。
「さて……今度は私の番だな」
皆がビクッと振り返る。
先ほどの衝撃的な光景を見せつけられた人間なら当然の反応であろう。
グリフィスは壁際に立つと腕を組んだまま構えた。
ぎりぎりと太腿から筋肉を引き絞っている音が聞こえてくる。
おもむろにカッと目を見開くグリフィス。
「……むんっ!!」
瞬間、ドウッ! と床が抜けそうな爆音とともに老人の巨体が遥か上空へと浮かび上がったのだった。
『どええええええっっっっっっーーーーーー!!?』
体育館中から度肝を抜かれたような驚愕の声が響き渡る。
グリフィスは壁の最上部さえ追い越し、体育館の二階の手すり付近まで跳び上がった。
ちょうど近くをたむろしていた生徒がすぐ横に浮かんでいるジャージ姿の校長を見て腰を抜かしている。
もはや跳躍というよりは飛翔に近い。
頂点に達したグリフィスだったがマーキングできそうな壁などがないため、あきらめたように空中で首を振って降下する。
跳躍時と違って何の音もさせずにグリフィスは静かに床へと降り立った。
グリフィスは白い髭をしごきながらレヴィンへと問う。
「少々跳びすぎてしまったわい。この場合、記録はどうなるのかね?」
「目算で五メートルというところですが……まあ、とりあえず満点ということで。それより、床に校長の足跡がおもいっきりついてますよ。少しは手加減してくださいよ」
「おお、また学校の設備を傷つけてしまったか! すまん、すまん。これも私が後で弁償しよう」
体育館がし~んと静まり返っている中でのんきな会話を続ける二人。
ソラが唖然と呟く。
「し、信じられない。<内気>も使わずに脚力だけであそこまで跳ぶなんて」
「……だから、あのジジイは何者なんだよ……」
呆けたように校長を見つめていたバートルがぽつりと言ったのだった。
※※※
校長のとんでもない身体能力を目の当たりにして一時放心状態のマーガレットたちではあったが、ソラとバートルの勝負は次々と進められていた。
三種目めの柔軟性を測る長座体前屈。
床に座って膝を伸ばし、指先を前に押し出すようにして上体を倒す競技だ。
「確かゴルモア相撲って柔軟性も鍛えるんじゃなかったっけ? 練習をサボってたんだね」
「う、うるせえ!」
図星だったらしくバートルが顔を赤くしながら言い返していた。
ぐいいと足元に置かれた箱を前へ押し出すソラ。足先の更に先にまで余裕で押し出している。股関節が相当柔らかい証拠だ。
対してバートルは平均は余裕で超えているものの、その記録はソラにはとうてい及ばない。
四種目めの反復横跳び。
「ふむふむ。足腰を鍛えてるといっても俊敏性はイマイチのようだね」
「だから、うるせえっての!!」
足を大きく開きがに股で行うにも関わらずソラのそれはどこか優雅ですらあったが、バートルはどこかドタドタしていてぎこちない。それでも大抵の生徒たちよりはずっと速いが。
ソラたちが終了した後は例によってグリフィスが挑戦していた。
「――ふはははははっ!! レヴィン君! ちゃんと数えているかね!?」
「校長~。速すぎて数えにくいんですけど」
ばばばばっと高速で移動するグリフィス。もはや残像が発生している。
「…………」
生徒たちは何も見なかったことにしてソラたちの後に続くのであった。
その後、腹筋力を測る上体起こしでソラを上回る記録を出したバートルが意地を見せ場が盛り上がる。
ソラとバートルの総合得点トップを狙うハイレベルな戦いにより皆の応援の声も加熱していった。
生徒たちは二人の戦いを見物しようと自分の測定を急いで終わらせる有様であった。
五種目を終えた二人の戦いの場はグラウンドへと移っていく。
バートルも戦士としての矜持があるのだろう。傲慢な態度は鳴りを潜め真剣な表情を見せ始めていた。
六種目め、短距離走。
ソラの軸のぶれない風に乗ったような走りとバートルの力強い野生の獣のごとき走りが生徒たちを沸かせる。
七種目め、長距離走。
コ-ス上で繰り広げられる二人の一進一退の攻防に他のクラスの生徒たちも何事かと窓から見物するほどの熱気であった。
そして、とうとう最終種目のソフトボール投げになった。
先にソラが測定を行う。
きれいなフォームから投げられたボールが放物線を描いて飛んでいく。
華奢な肩からは想像もできないほどの距離を稼いだ。女子の平均を遥かに超えている。
ソラの体力テストが終了した。
マーガレットはソラを出迎えながらも考える。
(さすがお姉さま。最後も高得点で締めてみせました。……さて、総合結果はどうなるでしょうか)
途中から勝負を面白くするためなのかレヴィンは得点を発表しなくなったが、マーガレットの見立てではソラが若干優位のように思える。
マーガレットがバートルに視線を向けると、本人も自覚しているのだろう、その表情には焦りの色が見てとれた。
円形に引かれた白線の中でバートルはボールを強く握りしめる。
ソラに勝つためには絶対に落とせないのだから当然だろう。
見守る生徒たちも緊張感が伝わってきたかのように静かになる。
バートルは一度深呼吸すると短い助走をとって白線ギリギリにまで詰め寄っておもいきりボールを投げつけた。
「おらああああああっっっ!!!」
己の全てを出し切るかのようながむしゃらなフォームから繰り出されたボールはぐんぐんともの凄い勢いで空中を進んでいった。
気持ちいいくらいに飛んでいくボールを見て生徒たちからも大歓声が上がる。
遥か遠くに落ちたボールに近づいて距離を測定するレヴィン。
「どれどれ……。――おおっ、まさかの四十メートル越えです! 上級学校の生徒にも匹敵しますよ、これ」
驚異の肩力にどよめく生徒たち。
ゴルモアから来た少年のとんでもない運動能力を改めて認識させられた瞬間であった。
「ふむ。どうやら二人とも全種目を終えたようだね。よく頑張った」
全ての種目で人外の記録を出し続けた校長がうんうんと頷いていた。
ちなみにグリフィスの記録は全年齢基準で比較しても突き抜けた点数だったらしい。
その結果を知ったバートルが、『このジジイはエレミアの最終兵器か何かなのかよ?』と怯えた表情をしていたが。
しばらくして全ての一組と二組の生徒たちが測定を終え、レヴィンが記録を急いで整理し、いよいよソラたちの記録の発表となった。
レヴィンが眼鏡をくいと持ち上げながら記録用紙に目を落とす。
「え~。じゃあ、記録を発表しますね」
ソラとバートルがレヴィンの前に立ち真剣な表情で結果を待つ。
ゴクリと周囲のあちこちから唾を飲み込む音が響いた。
レヴィンがゆっくりと口を開く。
「……発表します! バートル君の得点が七十七点! ……そして、ソラさんの得点が七十九点でした!」
見守っていた生徒たちから『うおおっ!!』と感嘆の声があがり、敗れたバートルはがくっと膝をついた。
マーガレットもノエルと抱き合って喜ぶ。ソラの勝利を信じて疑わなかったとはいえ、やはり心配していたのだ。
僅差の勝利にソラは額の汗をぬぐいながらも笑顔を見せた。
すると、ソラは膝をついたままうなだれているバートルへと歩み寄った。
「いい勝負だったよ、バートル」
「……んだよ。馬鹿にしてんのか? それとも勝者の余裕でも見せつけてるつもりか?」
ソラを睨みつけるバートル。
対してソラは穏やかな表情で首を横に振った。
「違うよ。ノエルの件もあったし、はじめはキミのことをいけ好かないヤツだと思ってたけど、こうやって競い合ってみるとそんなに悪い人間じゃないってことがだんだん分かってきたしね。……それに、こんなに楽しい勝負は久しぶりだったよ」
「おまえ……」
その台詞に毒気が抜かれたような表情のバートル。
ソラは綺麗な笑みを浮かべて手を差し伸べた。
「勝ったのは私だけど、ゴルモアの戦士の意地ってのを十分見せてもらったよ」
バートルは唖然とした顔でソラを見上げる。
すると、次第に周囲から二人を称える拍手が鳴り響き始めた。
二人の見るものを驚愕させた戦いの数々に、男女共に総合点の平均が四十半ばの中で満点に近い得点を叩き出したことといい、まさに学年トップを争うにふさわしい激闘であった。
勝者にも敗者にも関係なく称賛されるべきだろう。
しばらくソラの小さな手を見つめていたバートルだったが、そっぽを向きながらぎこちなくその手を握ったのだった。
「……ふ、ふん。……次は負けねえからな。覚悟しておけよ」
ぶっきらぼうに言いながらソラに引っ張られるようにして立ち上がるバートル。台詞とは裏腹にどこか晴れ晴れとした表情をしていた。
生徒たちからも温かい拍手が注がれる。
「うんうん。彼もすっかり険が取れたようだ。歳相応のいい表情をしているじゃないか」
「そうですねえ。あれが本来の彼なのかもしれませんね」
二人を見守っていたグリフィスとレヴィンが満足気に頷き合っている。
ノエルも涙ぐんでいた。
「良かったね、メグ」
「まあ、そうですね」
マーガレットも結果オーライとばかりに頷く。
予想とは違う感動的な終幕となったものの、望み通りソラが勝利したのだから文句はない。これからはあのジャガイモ頭も少しは大人しくなるだろう。
すると、握手しながらもソラがいたずらっぽく笑った。
「……でも、約束どおりちゃんと腹踊りしながらグラウンドを走ってもらうけどね」
「うぐっ……!!」
顔が引きつるバートル。どうやら一時的に忘れていたらしい。
周囲の生徒たちからも期待する声があちこちから飛んだ。
バートルには災難だが、今となっては勝負の後の良い余興である。
「わ、分かってるよ! 約束は守るっての!!」
破れかぶれに服を脱ぎ始めるバートル。
ソラがおかしそうに笑いながら言った。
「三周というのは大変だろうから、一周減らして二周でいいよ」
そのソラの提案に、やはり相当嫌だったのだろう、「ほ、本当か?」とバートルが期待を込めたように聞き返していた。その普段見られない姿に生徒たちがまた沸いている。
しかし、ここで背後からグリフィスが口を挟んできたのだった。
「――おや? 君らは何を言っているのかね?」
「え?」
突然のグリフィスの発言にソラは意味が分からないといった表情で振り返り、体操着を脱ぎかけていたバートルも動きを止めた。
盛り上がっていた生徒たちも怪訝な顔で校長を見つめている。
グリフィスは皆の顔を見渡すとレヴィンの方を向いた。
「ふむ。どうやら勘違いしているようだね。レヴィン君、皆に解説してやりたまえ」
「了解です」
相変わらず緩い笑顔を浮かべたレヴィンが頷く。
「え~。ソラさんは女子の中ではダントツのトップなんですけど、学年全体では惜しくも一点及ばず二位だったんですよね~」
『……はあっ!?』
グラウンドに間の抜けた声が響く。
これまでの流れは一体なんだったのか、という空気が辺りに流れる。
マーガレットもソラがトップでないことに衝撃を受けていた。
そもそも一年生で七十点を越えるのも至難なのだ。おそらく学年全体でも片手の指ほどもいないはずだ。
しかも、ソラが一点及ばなかったということは――
「では、ついでに総合一位の生徒を発表しちゃいましょうかね~。……ソラさんを上回り、一年生で初めて八十点満点を獲得したのは――」
レヴィンはもったいつけてから、おもむろにグラウンドの隅をじゃじゃーんとばかりに指し示した。
「――なんと! 同じ一組のアラン君でした~!!」
わざとらしく、「おめでとう~!」とひとりでパチパチ拍手するレヴィン。
皆が呆然とアランへ視線を向ける。
当のアランはクールに靴紐を結び直していた。
ソラとバートルもあまりの展開にポカンと間抜けな表情で緋色の髪の少年を見つめている。
正直、誰もがアランの存在など忘れ去ってしまっていたのだ。
というより、ソラとバートル以外に首位争いをしている生徒がいるなど想像もしていなかったのである。
生徒たちが次第に白熱していく最中もアランはひとり黙々と点数を積み上げていったらしかった。
グリフィスがこほんとひとつ咳をする。
「分かったかね? トップを取れなかった以上、勝負の条件は無効だということだ」
『…………』
グラウンドにいた面々は盛り上がっていた反動で真っ白になってアランを見つめるのみだった。
すると、アランは自身に集まる視線の群れにようやく気づいたようだった。
「……? なんだよ?」
不快そうに眉をひそめるアラン。さすがにこれだけの視線が集中しているので少し居心地が悪そうだ。
マーガレットもノエルと並んでぼんやりとしていたが、呆然と突っ立っていた生徒たちの中からソラがおもむろにふらっと抜け出す姿を発見した。
そして、アランに歩み寄ったソラは突然その胸倉をおもいきり掴んだのだった。
「……またか!! また、貴様なのかっ!!」
「……!? だから、何なんだよ!?」
色々と台無しにされたソラが切れ、いきなり首を絞められたアランが苦しそうに目を白黒させるのだった。
※※※
「ふう……」
マーガレットは今日一日の出来事を書き終えてペンを置いた。
ソラがアランの首を絞めてから多少のドタバタ劇があったものの特筆すべきことはもうない。
あえて言えば、ソラの半分の得点も稼げながったグレイシアがやってきて、
『こ、ここは魔導学校ですわよ。魔導で優劣をつければいいんですわ!』
と、負け惜しみのようなことを言っていたことくらいである。
ここでマーガレットはふとあくびをこらえた。
(夜も更けてきましたし、そろそろ就寝しますか)
そう思い、日記をパタリと閉じると、扉をガンガンとやかましく叩く音が聞こえてきたのだった。
「……お~い、マーガレット!! まだ、起きとるかあ~!?」
「お父様!?」
マーガレットが反応する前に勝手に扉を開けて入ってくる父。
マーガレットは激昂する。
「……お父様! 私が何も言わないうちから勝手に入ってこないでください! 何度言えば分かるんですか!!」
「ん~? おお、すまなかった! でも、まあ、家族同士なんだからいいじゃないか、わはははっ!!」
「酒臭い!? またべろべろになるまで酔ってるんですね!」
おもいっきり酒の匂いを発散させている父に顔をしかめるマーガレット。
また、成金仲間たちを集めて酒宴でも開いていたのだろう。
すると、父は目ざとくマーガレットの日記を見つけたようだった。
「おお。もしかして、お前日記をつけとるのか? どれ、お父様に少し見せてみなさい」
「……なっ!? 駄目に決まってるでしょう!」
「はは、照れとるのか? ちょっとだけでいいから! な?」
「何と言われても、駄目なものは駄目です!」
マーガレットはしつこい父を部屋の外へと押し出す。
フラフラと足をふらつかせて追い出された父が口を尖らせる。
「少しくらいいいじゃないか。最近、お父様への態度がそっけなくないか?」
ぶーぶーと文句を言っていた父だったが、ふいにいやらしく笑った。
「……なるほど! お前も学校で気になる男ができたんだな! それを日記に書きとめていたと、こういうわけか。うんうん、分かるぞお。それは見られたくないわなあ」
ひとりで合点して「だはは」と能天気に笑う父。なんともタチの悪い酔っ払いである。
ブチッとマーガレットの堪忍袋の尾が切れた。
「……お父様のお馬鹿っ!!」
ドガッと遠慮のない蹴りを父の腰に叩き込むマーガレット。
すると、もともと酔ってふらふらだった父はよろよろと後じさって階段を踏み外したのだった。
「お、おお!? マ、マーガレットオオオオオオォォォーーーーー!!?」
二階から勢いよく転げ落ちていく父。
最後にメキョッ……とヤバげな音が聞こえてきたが、マーガレットは頓着せずに部屋へと戻り扉を閉めた。
行商人時代の父は数多の盗賊や怪物に襲われても平気な顔をして戻ってきたもので、そのしぶとさはゾンビにもひけをとらないくらいなのだ。階段から落ちたくらいでどうこうなるほどヤワではない。
マーガレットは日記を隠すとベッドの中へと潜った。
今日は本当に楽しい一日だったのだ。
ソラが学年トップの栄冠を逃したのは残念だったが、凛々しい姿を何度も見られて個人的には満足である。
記憶を思い返していると、徐々に意識が途切れていく。
(お休みなさい……お姉さま)
マーガレットは幸せそうな笑みを浮かべながら眠りに就くのだった。