表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空色の魔法使い  作者: 乃口一寸
間章 魔法使いと傭兵の少女
35/132

第5話

 その日、マリア・エ-デルベルグは夫のトーマスとともに、とある演奏会に出席するためにエルシオン中心部にあるコンサートホールへと来ていた。

 エルシオン・シンフォニー・ホール。

 以前まで使われていたコンサートホールの老朽化により、十年ほど前に新しく建築された施設である。

 エレミアを代表する有名な建築家が設計したもので、当時はその斬新なデザインが話題になったものだ。

 まん丸な形をした二階建ての施設で、一階に防音壁で囲まれた大ホールがあり、その周りをぐるりと通路が走っていた。ここで、コンサートや演劇などが催されている。

 大ホールは真ん中に舞台が、その外側に客席が取り囲むように配置されていた。収容人数は千人ほどとやや少なめだが、舞台と観客との一体感を高めるための設計であった。天井には最新の音響反射板が取り付けられていた。

 二階は多目的ホールになっていて、パーティや結婚式などに使用されており、会場の予約は数年後まで詰まっているらしい。

 今日、マリアたちが訪れているコンサートは、経済的に恵まれず学校へと通えない子供たちのために支援金を集める一種のチャリティーコンサートであった。出席しているのはほとんどが街の名士ばかりだ。

 毎年開催されているコンサートであり、魔導学校に入学したばかりの新入生によって演奏されるのが恒例であった。

 舞台では年端も行かないような三十人ほどの子供たちが各々の楽器を操っている。

 魔導学校の新入生というとまだ七~八歳というところだろう。彼らは将来のエレミアを担う魔導士の卵たちでもある。

 子供たちの演奏は技術的には稚拙なものであったが、彼らの真剣な表情に加え、その音色に努力の痕跡が確かに感じられてマリアは微笑んだ。


(ソラちゃんとマリナちゃんの演奏も聴いてみたかったなあ)


 この演奏会は毎年新入生の中から希望者を募っているのだが、ソラとマリナは興味がなかったらしくあっさりと辞退していたのだった。

 その代わりに体術やら剣術の鍛錬など、とても幼い女の子がすることとは思えないことに精を出していたのである。

 特にソラは女の子らしい趣味をまったく持たず、学術書を読んだり川に釣りに出かけたりと渋い時間の使い方をしていたのだった。


(でも、ソラちゃんのお料理は大したものなのよねえ~)


 唯一、ソラに女の子らしいところがあるとしたら料理が上手な点である。一体いつのまに腕を磨いたのかは知らないが、ソラは幼い頃より料理が得意なのだった。

 その腕はエーデルベルグ家のコックも一目置くほどで、マリアの見たことのないような料理を唐突に作ることがあった。主にマリナの要請によるもののようだったが。

 娘たちの演奏を聴くことは叶わなかったが、末の弟であるトリスが二年後に入学したときに演奏会に出る意欲を示しているので、マリアはそちらを楽しみにすることにした。

 マリアが演奏を聴いていると、ふと何かの振動を感じた気がした。


(……あら、地震かしら)


 周囲を確認するが、特に誰も気にしていないようであった。

 マリアが気のせいだったのかと思っていると、隣のトーマスが小さな声で話しかけてきた。


「……初めて出席したけど、なかなかいい演奏会だね。ソラとマリナも来ればよかったのにね」


「……ふふ。たぶん、気を遣ってくれたんでしょう。二人して可愛いんだから」


 マリアは思わず頬が緩む。

 トーマスは「ああ、なるほど」と今更ながらに気づいたようであった。基本的に鈍いのである。


「じゃあ、演奏の後の昼食会が終わったら、久しぶりに街を二人で歩いてみようか。それから、どこかで夕食でも食べて帰るってのはどう?」


「あら、いいわね。最近二人きりで食事なんてないもの」


 マリアは即賛成した。二人とも仕事が忙しく、顔を合わせる機会すら減っていたのだ。

 マリアがトーマスと小さく頷き合っていると、少し離れたところから声が聞こえてきた。


「……ところで、来月の元老院選定会議はどうなるんでしょうねえ。また入れ替えがありそうですかね」


「……確実でしょう。ここ数年で力を伸ばしている家がいくつかありますからな」


 マリアが目線だけでそちらを見やると、そこには見覚えのある二人の年配の男たちがひそひそと話している姿があった。

 彼らはいずれもエレミアにおける魔導士の名門に連なる人間であった。


「……マクラミン家、ウィンザー家、レドモンド家……。ここらあたりは落選をまぬがれないでしょう」


「……気の毒なことですね。とはいえ栄枯盛衰は世の常。<至高の五家>は流石に磐石ですが」


 どうやら、彼らは来月に行われる元老院議員選定会議について話し合っているようだった。

 エレミアの政治機構は元老院と人民院との二院制で成り立っている。人民院は国民の選挙によって、元老院は<至高の五家>を頂点とした力のある魔導士の家の当主たちで構成されている。

 元老院を構成しているメンバーは数年に一回ある元老院選定会議においてその資格があるかどうかを合議によって査定される。衰退が著しい家は元老院議員の資格を失い、新しく勃興してきた家に譲ることになるのだ。

 元老院議員の資格を持つというのは、エレミアにおいて最高の権力であり名誉でもある。どこも元老院の籍を得ようと必死なのだ。

 だが、彼らの声の大きさはいささかマナーを失していた。周りの人間も眉をひそめている。

 せっかくの子供たちの演奏を何だと思っているのかとマリアが注意しようとしたが、トーマスがやんわりと止めてきた。もう少しで演奏は終わりだ。

 マリアは渋々彼らから目線を外した。 

 ほどなくして、演奏会は無事終了した。

 舞台の前で整列して礼をする子供たちに会場中から拍手が降りそそぐ。

 子供たちは一列になって控え室へと戻っていった。


「さて、これから二階で懇親会を兼ねた食事会だね」


「ええ。正直必要ないと思うんだけど。これも付き合いのうちね」


 このコンサートは名士たちが親睦を深める場としても利用されているのだった。

 マリアは夫と共にほかの観客同様移動しようと立ち上がりかけるが、再び舞台の方で動きがあったので顔を向ける。

 そこには顔を青くしながら舞台へと舞い戻ってきた子供たちの姿があった。その周囲には武装した数人の男たち。

 いったい何事かとざわめく会場。

 マリアも事態が把握できずに目を瞠る。

 すると、不思議な光沢の鎧を着込んだ威圧感のある男が悠然と進み出てきて会場中に響く声で喋りだした。


「――さて、お集まりの諸君。突然のことで申し訳ないが、どうか静粛にしてもらいたい。そして、今から私が言うことをよく聞いてほしい。子供らに危害を加えられたくなければ」


 その物騒な台詞に、会場にいた一千人近い観客たちは静まり返る。

 人々の反応に男が頷く。どうも、彼が武装した男たちのリーダーらしい。


「よろしい。では、我々の目的をお話しよう。――あなた方にはこの子供たちと一緒に人質になってもらう。我々の要求を通すためのね――」


 と言うやいなや、会場の扉が乱暴に開き、突然武装した男たちが雪崩れ込んできたのだ。

 男たちは観客達を武器で威嚇しつつ会場を取り囲みはじめた。

 いきなりの出来事に会場のあちこちから驚きと悲鳴の声があがる。

 パニックになった観客達が立ち上がろうとして椅子につまずいたり、互いにぶつかったりと、会場中が騒然となる。

 しかし。


「――静かにしろっ!!」


 と、会場中に響き渡る一喝により観客達は動きをぴたりと止めた。

 皆、舞台から大声をあげたリーダーらしき男に見入る。

 謎の武装集団のリーダーは再び静まり返った会場をぐるりと睥睨する。


「……はじめに大事なルールを告げておこう。我々に逆らったり、逃げようとする者は容赦なく殺す。……子供たちの身の安全も保障できなくなる。それに、施設の内外に配置されていた警備はすでに無力化してあり、助けも当分来ないだろう。まずはそのことを頭に叩き込め」


 男の殺気すら込められた台詞に観客達は凍りついていた。彼らはようやく事態の深刻さに気づいてきたようだった。

 男は観客が完全におとなしくなったのを確認してから語りだした。


「――とはいえ、諸君らには訳が分からないだろうから、我らの素性を明かしておこうか。……我々は傭兵団『深淵の狼』のメンバーである。……そして、魔導士廃絶を掲げる組織『アビス』の一員でもある」


 男の言葉に観客達は顔を青くしていた。世間を騒がせている過激なテロ組織の名前なのだから当然だ。

 一体何が目的なのかは分からないが、誰もが悲惨な未来を想像したに違いなかった。

 男は静かに続けた。


「とりあえず、我々の指示におとなしく従っていれば危害を加えることはない。先ほども言ったがしばしの間あなたがたには人質になってもらう。――それでは、さっそく最初の指示に従ってもらおうか」


 もはや、観客たちにはテロリストの指示に従うしか道は残されていなかったのだった。




 十分後。

 観客たちは三つのグループに分けられていた。

 演奏していた三十人ほどの子供たちに、百人ほどの魔導士たち。最後がそれ以外の大多数の人間たちである。

 彼らは、それぞれのグループが一定の距離をとるようにしてホールの壁側に詰めて座らされていた。

 言われたとおりに、渡された縄で自分の手首をきつく縛ってあり、その周りには数人の傭兵たちが鋭い目つきで監視している。

 人質となった観客たちは息を潜めながら辺りを不安そうに窺っていたり、顔を白くしてうつむいていたりと誰もが悲壮感に満ちている。ときおり女性や子供の押し殺した啜り泣きが聞こえてきていた。

 そんな観客たちを舞台上から眺めていた武装集団のリーダー――傭兵団『深淵の狼』の団長ガレスは部下から報告を受けていた。


「外では憲兵団の一個中隊と魔導騎士団の一隊が完全に施設を取り囲んでいます。しかし、突入してくる気配はなく、こちらの出方を窺っているようです」


「……当然だな。人質の中にはエレミアの名士や要人らが多く捕らわれているのだからな。やつらも無理はできまい。我らの犯行声明を聞いたなら尚更だろう。引き続き警戒を怠るな」


 ガレスの指示に部下は頷いてホールの外へと出て行った。

 すると、今度は巨大な戦斧を背中に背負っている副団長のゴルドーが歩み寄ってきた。


「……ガレス団長。二階から観察してみたが、外で爆薬を起動させている連中は順調に魔導炉へと向かっているようだ」


「予定通りのようだな。エルシオン各地での爆破で思った以上に連中を撹乱できているようだ。……いかに桁外れの戦力を有しているとはいえ、所詮は長い間平和にうつつを抜かしていた連中だ。いざというときの連携がとれていない。それに、奴らは来月の元老院選定会議に狙いを定めていると予想していたのだろう」


 ゴルドーも禿頭をホールの証明でキラリと光らせて同意した。

 そこに、人質たちの監視を指揮しているジェイクが舞台へとやってきた。


「作戦は順調みたいですね。俺としてはちと物足りませんが。……こんなことなら、弟も誘ってやりゃよかったぜ」


 抑えきれないほどの凶暴さを瞳のうちに秘めながらも、おどけたように軽く肩をすくめるジェイク。

 ジェイクの弟のことはガレスも少し聞いたことがある。確か単独でフリーランスの傭兵をしているはずだ。今のところ組織とは無関係のようだが。


「……作戦は始まったばかりだ、油断はするな。今は意表を突いたことで連中を混乱させることに成功したが、そのうち立て直してくるだろう」


 ガレスが平時から崩すことのない厳しい顔でジェイクに注意する。

 ジェイクは「了解」と緩い調子で敬礼してから、


「とはいえ、施設の制圧は思った以上に簡単にいきましたね。まあ、俺たちが隠された地下の入り口から突入してくるなんて思ってもみなかったんでしょうがね」


 くつくつと愉快そうに笑う。

 そう、ガレスたちは外から侵入したのではなく、施設の内部から侵入したのだ。

 もともと施設には物資を保管している地下倉庫があり、そこに地下通路から通じている入り口を密かに作っていたのだった。

 ガレスたちがエルシオンに侵入するために使用した地下通路は例の屋敷にだけ通じていたわけではなかったのである。

 エルシオン・シンフォニー・ホールの内外には、さすがに名士が多く集まっているだけあって、憲兵による厳重な警護がなされていたが、内部から突然湧き出てきた百戦錬磨の傭兵たちにあっけなく制圧されていた。


「それにしても、観客たちが外の騒動にほとんど気づいていなかったってのが笑えますね」


「最新の防音施設が仇となったな」


 施設の内部はともかく、外には侵入した傭兵たちに倍する警備がいたのだ。

 しかし、施設周辺の生垣などに巧妙に配置されていた爆薬によって彼らの大半が吹き飛ばされて無力化していたのだった。それでも、観客たちには少しの震動程度しか感知できていなかったようだ。

 ジェイクがまるで通夜のような雰囲気の観客たちを眺めながら言う。


「……エレミアは俺らの要求を呑みますかね?」


「……それはないだろう。人質に要人が多いとはいえだ。……もっとも、はじめから要求が通るとは期待していないがな」


 ゴルドーが呟くように答えた。

 ガレスが二人を一瞥する。


「要求が通ろうが通るまいがどちらでも構わん。……いずれにしろ、我々の予定は変わらん」


 続けてガレスは、特に警戒の人数が割かれている魔導士のグループに顔を向けた。


「だが、魔導士には気をつけろ。戦闘慣れしていない奴ばかりだが、それでも脅威には違いない。子供たちの方もだ。魔導士の資質を持っていることに変わりはないからな」


「……では、外を取り囲んでいる連中を牽制しておくためにも、予定通りやっておくか」


「そうだな。さっそく取り掛かってくれ」


 ガレスが許可を出すと、ゴルドーはホールを出ていった。

 しばらくしてから合図を受け取ったガレスは観客たちの注目を集めてから語りだす。


「――私は諸君にもうひとつ言っておかねばならないことがある」


 まだ何かあるのかと観客たちが戦々恐々とした表情を見せていた。


「あちらを見てもらいたい」


 ガレスは観客たちが集められているのとは逆方向を手で示してみせた。

 観客たちは訳が分からないようだったが、指示通りに視線を向ける。

 すると、ガレスが示した辺りの天井が突然の大きな爆発音とともに崩れたのだ。

 多くの観客たちが悲鳴をあげた。

 ガレスは淡々と説明する。


「――今のは我々が使用している爆薬によるものだ。見てのとおりひと箱分であれくらいの破壊力がある。……そして、爆薬が詰まった箱が二階にある全てのテーブルの下に置いてある。この意味が分かるな?」


 観客たちは息を呑んだようだった。

 二階の多目的ホールには百を超えるテーブルが置いてある。おそらくここにいるほとんどの人間が知っているだろう。もし、全ての爆薬が一斉に起動したら、ホールの天井が一気に崩落するだろうことも容易に想像がつくはずだ。

 魔導士たちもどこか悔しそうな表情をしていた。天井が崩壊すれば二~三秒ほどで観客席に落下してくる。そんな短い時間では大量の瓦礫から身を守るほどの魔導障壁を張ることは至難だろう。


「……分かってもらえたようだな。ならば、迂闊な行動は避けるべきだと肝に銘じておくことだ」


 ガレスの声が静寂に包まれたホールに響く。

 観客たちの中にいたひとりの年配の男性が声を震わせながら言った。


「……正気かね? そんなことをすれば、君らも巻き込まれるのだぞ」


「我々はもとより命懸けで事を起こしたのだ。死ぬ覚悟はできている」


 ガレスはその言葉を一蹴した。

 あまりにも静かなガレスの口調からその台詞が決してはったりではないということを理解したのだろう。年配の男性は真っ青になって黙り込んだ。

 すると、そのときだった。


「――う、うわああああああっ!!」


「お、おい! やめろ!」


 突如、ひとりの若い魔導士が叫び声をあげながら空間に魔導紋を描きはじめたのだ。

 どうやら恐慌状態を起こしていて正常な判断力を失っているようだった。側にいた人間の制止を振り切って立ち上がる。


「貴様っ!!」


 近くにいた傭兵が阻止すべく駆け寄るが、若い魔導士の魔導が完成するのがわずかに先だった。


「<火炎弾フレアボム>!」


 直径一メートルほどの炎の球が魔導士の頭上に現れ、舞台上に佇むガレスへと一直線に向かってきた。

 それに対してガレスは避ける気配も見せず、唯一露出している顔をカバーするように腕を上げただけだった。

 炎の玉はオレンジ色の軌跡を描きながら高速で進みガレスへと直撃した。

 衝撃によりホールがわずかに揺れ、人質の中からざわめきの声があがる。

 しかし。


「……そ、そんな……!?」


 脂汗を流しながらも喜色満面になっていた若い魔導士の表情が驚愕に変わる。

 ガレスに直撃し、そのまま黒焦げにするはずだった炎の玉がまるで霧のように吹き散らされただけで終わったからだろう。

 ガレスは傷ひとつなく平然と立っていた。鎧には焦げ跡すら残っていなかった。

 多少の衝撃がガレスの身体を貫いていたものの、鍛え抜かれた己の肉体からすれば微々たるものである。

 若い魔導士は信じられないという顔をしながらも何かに気づいたようだった。


「……も……もしかして、その鎧は――ぐげえっ!?」


 若い魔導士は最後まで言い切ることもできずに、間合いを詰めていたジェイクの鉄の小手に覆われた拳で殴られたのだった。後ろにいた数人を巻き込みながら吹き飛んでいき、ひとつの椅子にぶつかってようやく止まった。 

 ホールのあちこちから悲鳴があがる。

 若い魔導士は無残にも頬が陥没し、口の端から大量の血を流し、白目を剥いてピクピクと痙攣していた。

 ジェイクが嘲るように言った。


「今、言われたばかりだよなあ。迂闊な真似はするなとよ。俺らに逆らったらどうなるか思い知らせてやろうじゃねえか」


 ジェイクは倒れたまま動かない魔導士へゆっくりと歩み寄る。

 ホールにいた誰もが殴られた若い魔導士の行く先を予感したかのように身体を震わせていた。

 すると、そこに静かな女性の声がホ-ルに響いた。


「――待ちなさい。もう、彼には抵抗の意思も気力もないわ」


「……あ?」


 ジェイクが足を止めて、声が聞こえてきた方を振り向いた。

 魔導士が集まる一角の中にふわふわした金髪の女性が毅然と立っていた。

 隣に座っていた気の弱そうな男性が泡を食ったようにその腕を引っ張っていたが、金髪の女性は一顧だにせずにジェイクを見据えている。

 金髪の女性は座っていた席から通路まで出るとジェイクに向かって言った。


「これ以上、彼を痛めつけても意味がないでしょう。今のを見て反抗しようなんて考える人間はもういないわ。――それよりも、早く彼を治療しないと危険よ。私は治癒術士なの。だから、彼を治癒させなさい」


 金髪の女性は恐れも見せずに言い切る。

 ホール中の人間たちがその様子を息を呑んで見つめていた。

 ジェイクはしばらく無表情に金髪の女性を見つめていたが、ふいにニヤリと笑った。


「おいおい。調子に乗るんじゃねえぞ、女。お前らはただ怯えて俺らの顔色を窺ってればいいんだよ。そこまで言うなら、お前が代わりに罰を受けてみるかあ?」


 ジェイクは来た道を引き返して、金髪の女性へと向かっていった。

 周囲の魔導士たちが彼女を止めなければと迷っているようだったが、ジェイクの凶暴な表情を見てとても身体が動かないようであった。

 ジェイクは金髪の女性の目前まで歩くと無造作に右手を振り上げて殴りかかった。 

 観客たちが目を逸らす。若い魔導士と同じ末路を辿るところを想像したのだろう。

 しかし、すんでのところでひとりの男性が二人の間に身体を割り込ませたのだった。


「――うわっ!」


 代わりに殴られて、横の座席まで吹き飛ぶ男性。


「トーマス!!」


 金髪の女性が悲鳴をあげて男性に駆け寄った。


「ああ、トーマス。……なんてことを!」


 金髪の女性はしゃがみこんで男性の容態を確認していた。

 殴られたのは、先ほど女性の腕を引っ張っていた男性だった。おそらく夫婦なのだろう。

 男性は「いてて……」と顔をしかめながらも身体を起こした。どうやら腕を交差させてジェイクの拳を受けたらしく、たいした傷ではないようだった。

 男性は気弱な笑みを浮かべて言った。


「……あはは。あそこでただ見てるだけなんて僕にはできないよ。自分の妻くらいは守ってみせないとね」


「本当にあなたって人は……」


 金髪の女性は目の端に涙を浮かべながら男性の手を握っていた。

 そこにジェイクの声が割り込む。


「……お涙頂戴な場面のとこ悪いけどなあ。俺もちっとばかりイラっとしちまったぜ」


 ジェイクは凶悪な表情で腰からずらりと剣を抜きながら二人に向けて振りかぶろうとした。

 ここで、舞台上からガレスが制止の声をあげた。


「――ジェイク、もういい。その二人は放っておけ。治療もさせてやれ」


 それでもジェイクの凶暴な気配はなかなか収まらなかったが、しばらくして「ちっ」と不満そうに吐き捨ててから剣を納めたのだった。

 ガレスからすれば必要以上に人質たちの恐怖を煽って暴動を招きたくはなかったのである。ここは多少の慈悲を見せることによって彼らをコントロールしやすくするのだ。いわばアメとムチである。


「だが、次からは反抗したものは容赦なく殺す。分かったな」


 と、きっちり釘を刺すことも忘れなかったが。

 金髪の女性は夫らしい男性を助け起こすと、殴られた若い魔導士の方に歩いていった。

 若い魔導士は床に寝かせられていたが、いまだに意識は戻っておらずぐったりとしたままだった。

 金髪の女性は若い魔導士の状態を軽く触診したりして確かめると魔導の構築を開始した。

 そこらの魔導士には理解することさえできない緻密な魔導紋が複雑に絡み合いながら描かれていく。

 芸術的といってもいい流れるような魔力操作に周囲の魔導士たちが感嘆の声をあげていた。

 しばらくしてから、金髪の女性は両手を若い魔導士へとかざした。

 ぼんやりとした優しい白い光が若い魔導士の顔を覆う。

 すると驚くべきことに、陥没していた頬骨が逆再生するかのようにみるみるうちに元に戻っていったのだ。その他の裂傷なども瞬時に塞がっていった。

 その様子を見ていた観客たちから驚きと歓声があがっていた。


「ほう……」


 ガレスも小さく感心した声を漏らした。

 治癒術は魔導の中でも特に細かな魔力操作と制御が必要とされる技能であり、加えて人体の構造を知りつくしていなければならない。

 制御に少しでも失敗すれば容態がよけい悪くなることもありうるのだ。ゆえに、魔導士資格とは別に治癒術士資格が設けられているくらいである。

 それを考慮してもマリアの治癒術の冴えは特筆に値した。滅多にお目にかかれるものではない。


「なるほど。『エ-デルベルグ家の聖女』か」


 ガレスは得心がいったように頷いた。

 『エ-デルベルグ家の聖女』とは、世界最高峰ともいわれる治癒術と慈母のように穏やかな容姿からつけられたマリア・エーデルベルグの二つ名であった。

 ガレスは事前に観客たちのリストを手に入れ、特に重要人物には一通り目を通している。人相こそ知らなかったが、あの治癒術のレベルからいっても間違いないようだと確信した。


「やはり、あのときジェイクを止めておいて正解だったな」


 エーデルベルグ家は魔導士の棟梁ともいえる<至高の五家>の一角であり、しかも、マリアは次期当主と目されているのだ。彼女を害していればさすがに何人かの魔導士たちが暴発していたかもしれない。

 それに、なんといってもマリア・エーデルベルグは人質の目玉ともいえる人物なのだから。




 マリアは若い魔導士の状態を入念に精査して、もう問題はないと確認してから治癒術を終了させた。しばらくすれば意識も戻るだろう。

 魔導の光が消える。 

 マリアが目お閉じて息を吐いていると、


「お疲れさま。マリア」


 側で見守っていた夫のトーマスが笑みを浮かべながら労ってくれたのだった。

 その様子はまったく普段どおりであった。いつもと同じくどこか頼りない、しかし、安心できる優しい笑顔を浮かべていた。

 こんな状況にも関わらずほとんど自然体である。トーマスはこれでなかなか図太い神経を持っているのだ。

 マリアもそんなトーマスの笑顔を見てほっとした。

 マリアはトーマスの手を借りながら立ち上がりつつもほかの家族のことを考えていた。


(トリスは家にいるだろうから、まず安心ね。……でも、ソラちゃんとマリナちゃんは午前中から街に出ていたから心配だわ)


 テロリストたちの会話を注意深く聞いていたマリアは、この騒動がエルシオン・シンフォニー・ホールだけではなく街中で起こっているようだと推測していたので不安になったのだ。

 それに。


(あの二人は自分から騒動の中心に飛び込むところがあるから……。おとなしく家に帰っていればいいのだけど……)


 マリアには二重の意味で娘たちのことが心配なのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ