第1話
一章から二年前の出来事となります。
ある日の昼下がり。アイラ・リエル・ジブリールは赤い髪を揺らしながら、いつもどおりの仏頂面で黙々と街道を歩いていた。
中央大陸は初夏に入りつつあり、日差しが日を追うごとに強くなっている。今もジリジリとした太陽の下で汗が次々と噴き出ており、アイラを不快な気分にさせた。
アイラは薄い金属でできた胸甲をつけている以外はかなりの軽装であり、腰の後ろには交差させた双剣を吊していた。
周りには同じく黙って歩く男たち。それぞれが武装しており、ただの旅人ではないことがうかがいしれた。
異様な雰囲気を醸し出しているその集団は、街道でもやたらと目立っていた。
とはいえ、その集団がいったい何なのか、街道を歩く者たちも大方予想できていたのだろうが。
すれ違った若い男性が、集団の中を歩くアイラを不思議そうに見ていた。
それも仕方のないことだろうとアイラは思う。
アイラはまだ今年で十四歳になったばかりで、しかも女の身である。そんなアイラが傭兵たちに混じって歩いていれば奇異に思うだろう。
そう。この集団はアイラが所属している、とある傭兵団なのだった。
現在もこの辺りを騒がせていた魔獣を数日がかりで退治し、帰投している最中なのだ。
なぜ、まだ少女といっていい年齢のアイラがそんなものに属しているのか。
それにはもちろん理由がある。
二年前に起こった、アイラにとって忌まわしい出来事が原因であった。
もともと、アイラは南の大陸にある密林の部族出身である。
密林には四つの部族があり、アイラはそのひとつ、『ジブリール』の一族であった。
それぞれの部族が地域ごとに密林を守護する役目を担っており、ときには争いながらも、切磋琢磨して互いを高め合うという関係を築いていた。
アイラも幼い頃より、代々一族に伝わる密林での動き方や戦いの術を学んでいった。
『ジブリール』は特に一族間での結びつきが強く、部族全体が家族のようなものであった。アイラはその中で、双剣の腕を磨きつつも健やかに育っていったのだ。
いつかは尊敬する父親のような使い手になる、とアイラは意気込んでいたものだった。
実際、アイラは十二歳にして、一族でも有数の実力者にまで成長しており、将来を期待されている逸材であった。
しかし、ある日、アイラの人生を一変してしまう出来事が起こる。
アイラが父親とともに密林の巡回をしている最中のことだった。
遠くで黒い煙が上がっていたのを発見したのだ。
それが里の方向だと、アイラと父親は瞬時に悟った。
当然、二人は急いで戻るべく密林の中を全力で駆け抜けた。
二人が里に到着すると、そこには信じられないような光景が広がっていた。
里全体が炎に包まれていたのだ。
アイラは呆然とした。ついさっき、自分が出掛けるまで平和だった里が燃えている。いったい何が起こったというのか。
すると、炎の中で何かがゆらりと蠢いた。
それは黄金の炎を纏った体長三メートルほどの怪鳥であった。赤や黄色、橙色をした派手な羽根を広げてアイラたちを威嚇していた。
もともと密林には『火喰い鳥』という怪物がいる。その強烈な蹴りは成人男性をあっさり殺せるくらいの攻撃力があり、かつ素早いので、動きづらい密林の中で遭遇すると厄介な敵なのだ。
アイラたちの目の前にいるこの怪鳥も、その『火喰い鳥』に姿がよく似ている。しかし、体格が一回り以上大きいし、そもそも炎など纏っていない。
最初、アイラは突然変異か何かかと思った。
これは後に分かったことだが、世界の魔力の影響を受けて変化した魔獣といわれるものだったのだ。
その怪鳥は突然アイラたちに襲い掛かってきたが、父親が瞬時に倒して事なきを得た。
さすがは『ジブリール』の一族で最強の使い手という腕前であった。
その後、二人は人の姿を求めて燃え盛る里の中を歩き回った。
どうも怪鳥は複数いるようで里のあちこちに見受けられた。二人は極力怪鳥と遭遇しないように行動した。
里の者は逃げ出したのか、それとも怪鳥にやられてしまったのか、ほとんど人の気配が感じられない。
だが、そのとき。
まだ火がまわっていない崩れた家屋の影から、ひとりの少女が姿を現したのだ。
それは、アイラの妹であった。
急いでアイラたちは駆け寄った。どうやら軽いやけどぐらいで特に怪我はしていないようだった。
妹の話によると、アイラたちが密林の巡回に出掛けたあとに、先ほどの怪鳥が突如群れをなして里を襲ってきたのだと言う。
里は大変な混乱に陥り、皆がお互いを助け合いながら逃げようとしたが、固まっていたのが裏目に出た。怪鳥の格好の獲物となってしまったのだ。
里の戦士が皆を守るために戦ったが、相手は普通の怪物よりも強力な魔獣だ。そんなものが複数で襲ってきたら、とてもではないが対処するのは困難だ。怪鳥の吐く炎で生きたまま焼かれたり、あるいはその爪で身体を抉られ、戦士達は次々と討ち取られていった。
もはや里の者も秩序だって行動するのは不可能であった。それぞれ蜘蛛の子を散らすかのように逃げ惑うしかなかった。
アイラの妹も逃げる途中で母や祖父とはぐれてしまったのだそうだ。
周囲には何体もの怪鳥が縦横無尽に暴れまわっており、アイラの妹は咄嗟に近くの建物に隠れたのだと語った。
アイラと父親は黙ってその話を聞いていたが、複数の気配が接近していることに気づいた。
アイラが辺りを確認すると、三体の怪鳥が三方向からゆっくりとこちらに迫っていた。
アイラが腰の双剣を抜こうとしたが、父親がそれを押し留めて言った。
自分がこの怪鳥どもを引き受けるから、アイラは妹を連れて里の外へ逃げろ。そして、他の一族へ救援を乞えと。
アイラも一緒に戦うのだと抗弁しようとしたが、父親の静かな瞳を見て口をつぐんだ。こういうときの父親は絶対に己の考えに妥協することはないと分かっていたからだ。
それに、今のアイラでは大した役には立てないだろうと認めざるを得なかった。あの怪鳥を相手にするには実力不足であることが、なまじそれなりの腕があるからこそ分かってしまったのだ。
アイラは辺りに充満する煙でごほごほと咳き込んでいる妹を見た。
今は自分にできる最善を尽くすしかないと思った。
アイラは父親に頷くと、妹の手をとって、唯一怪鳥のいない方向へと駆け出した。
しかし、それを待っていたとばかりに、三体の怪鳥がアイラたちへと殺到した。わざと逃げ道を作っておいて獲物がそこに飛び込むのを待っていたのだ。
なんという狡猾さか。アイラは走りながら戦慄した。だが、迎撃しようにも妹を連れた状態では不可能だ。
怪鳥の攻撃がアイラと妹に到達しようかというとき、父親が身体を高速で回転させながら割り込んできて、怪鳥たちを吹き飛ばした。
そのまま、アイラたちを背後にかばうようにして、怪鳥たちと睨み合う父親。
アイラは妹の手を引きながら、走り抜ける。
密林へと逃げ込む瞬間に、アイラは一度背後を振り返った。
炎を背景に不気味な陰影をつくりながら、じわりと間合いを詰める三体の怪鳥。そして、それに相対する父親の大きな背中が見えた。
大丈夫だ、とアイラは自分に言い聞かせる。父なら必ず切り抜けるはずだ。父は自分が知る中で最も強い戦士なのだから。今はとにかく、他の里に一刻も早く辿りつくことだけを考えなければならない。
アイラは何度も己に言い聞かせて、叫び出したいのをこらえながら、密林の中を妹の手を強く握りながら走った。
だが、アイラたちにとっての不幸はこれで終わりではなかったのだ。
もう少しで四部族のひとつ、『ミカイール』の里へと到着するかというときに、人攫いに捕まってしまったのだ。
さすがのアイラも、十人ほどの屈強な男を相手に妹をかばいながら戦うことはできずに、あっさりと捕まってしまった。
捕獲されたアイラたちは当然の流れとしてそのまま裏市場へと出品されることになった。
そこでアイラは戦士としての才能を高く評価され、『深淵の狼』という名前の傭兵団に競り落とされたのだ。現在、アイラが所属している傭兵団である。
傭兵団に所属することになったアイラは、日々、訓練と仕事に追われる毎日となった。
傭兵団の仕事は主に二つに分けられる。
一つ目は、要人警護に、怪物や魔獣退治など冒険者と似たような仕事である。
二つ目が、国や貴族に雇われて戦争に参加することだ。傭兵の本分ともいえる仕事である。
アイラの仕事は一つ目である。買われた身ではあるが、戦争に参加するなどまっぴらであった。戦士としての訓練を積んできたのは、職業的な人殺しをするためではない。幸い、アイラがまだ若いこともあって、団も強制することはなく好きなほうを選ばせてくれた。ただ、数年後はどうなるか分からない。
傭兵団に引き取られて二年。アイラは数々の修羅場をくぐり抜け、今では『深淵の狼』の中でも有数の使い手にまで成長していた。近い将来、団のエース格になることが期待されているらしい。
もっとも、アイラには傭兵団に長く留まるつもりはない。粗略に扱われているわけではないし、最低限の生活は保障されている。働きに応じて給金も出る。そこまで悪い環境ではないといえるかもしれない。とはいえ、このまま鎖に繋がれた飼い犬のごとき人生を送るのは御免だった。それに、この団にはどこか得体の知れないところがある気がするのだ。
アイラが受け取る給金のほとんどは、『深淵の狼』に引き取られた際に払われた借金の返済に充てられている。できるだけ早く自由の身になるためだ。
まだ何年もかかるだろう。それでも、必ず自由になるのだ。アイラはそう固く決意していた。
だが、自由になった後どう生きていけばいいのか。いつもアイラの思考はそこで止まってしまう。
風の噂で『ジブリール』の里は滅んだという話を聞いた。もしそれが事実なら、アイラは帰るべき故郷を失ったのだ。目標としていた父親も死んだのかもしれない。
だとすれば、もう自分に残っているものはほとんどない。一族の証として子供の頃にもらったバンダナと、腰に吊るされている『ウーツ鋼』の双剣。そして、もうひとつ――
「――おいみんな、ようやく宿に到着したぜ!」
アイラが思考の海に浸っていると、先頭から大きな声が聞こえてきた。
アイラが顔を上げると、街道のすぐ先に古びた二階建ての宿が見えた。現在、アイラたちが長期滞在している宿だ。
『深淵の狼』は基本的に本拠地を持たずにあちこちを放浪している。その地方で仕事をすると決めた際に、宿を見繕って長期契約を結び、そこを仮の本拠地とするのだ。
ふう、とアイラはひとつ息を吐く。考えるのはここまでにしようと宿の入り口に歩きながら思う。
今回の魔獣退治ではかなりてこずったので正直疲れている。
それに、何年も先のことを悩んでいても仕方がないのだ。今の自分には何に代えても守らなければならないものがある。
アイラたちは宿に入り、めいめいに散っていく。
今回の仕事に関する報告は、今から部隊長がするだろう。夕食の後、作戦に参加した人間による反省がおこなわれるので、それまではアイラたち一般団員は自由時間だ。
アイラは一直線に宿の裏手にある小さな庭へと向かった。
アイラが庭に顔を出すと。
「姉さん!」
と、アイラに駆け寄りながら声をかけてくる少女がいた。
その少女は、アイラとよく似た赤い髪を二つに結び、褐色の肌を陽の光で健康的に輝かせていた。
ライラ・リエル・ジブリール。
アイラより四歳年下の最愛の妹である。
彼女は傭兵団で炊事洗濯などの雑用をしており、今も手に泡をつけて団員の衣服を洗っていたらしいことが見てとれた。
「ライラ。今、帰ったよ」
アイラは先ほどまでの無表情が嘘だったように、やわらかい笑みを浮かべた。
ライラは濡れた手を前掛けで拭ってから、ぺたぺたとアイラの身体を触りながら訊いた。
「姉さん、お帰り! どこか怪我しなかった?」
アイラは苦笑しながら言った。
「大丈夫だよ。私があれくらいの魔獣で怪我なんかするわけないだろう?」
「ホントに? 姉さんはたまにやせ我慢するから。いまいち信用ができないもの」
ライラはしばらくの間しつこくアイラの身体を触っていたが、一通り確認して満足したらしい。
にこっと天真爛漫な笑顔を見せて言った。
「姉さん。しばらくは一緒にいられるんでしょ?」
「多分ね。団長の話だと二、三日は休暇にする予定らしいし。急な仕事でも入らなければね」
「やった! さっき行商の人から買った懐かしい南方産の果物があるの。それでも食べながらゆっくりしようね」
ライラはおもいきり喜んでいた。
ライラは悲惨な過去をそこまで気にしていないようだった。だから、故郷を思い起こさせるようなことでも平気で持ち出してくる。
だが、ライラは過去から目を背けているわけではないのだろう。今ある境遇を惨めだとは思わずに日々を楽しく生きようとしているのだ。ある意味、アイラよりも芯が強いといえるのかもしれない。
ライラは、アイラに残された最後の家族だ。
今や、彼女を守ることがアイラにとって唯一の生きがいと言っていい。
もし、いつか自由の身になったら、ライラと二人で慎ましく生きていければそれでよい。具体的に何をするのか何も決めていないが、場合によっては冒険者でもやって妹を養うまでだ。
アイラにとって頼りになるのは己だけ。信じられるのはこの世で血を分けた妹だけだ。
一族が崇めた密林の守り神は、日々祈りと感謝を欠かさなかったアイラたちに何もしてはくれなかったではないか。
だから、自分の力だけで道を切り開き、妹も守りきってみせる。
アイラは目の前で無邪気に笑っている妹を見ながら、改めてそう心に誓った。
すると、二人にふくよかな中年の女性が話しかけてきた。
「よかったねえ、ライラちゃん。いつもアイラがいないときは心配でしょうがないみたいだからね」
にこにこと温かみのある笑みを浮かべているその女性はマッジといい、ライラと同じく洗濯をしていたようだった。
庭にはほかにも何人かの人間が作業をしていた。マッジと同じぐらいの中年の女性から、初老の男性など年齢や人種はさまざまだ。彼らは皆、傭兵団の雑事を担当している者たちであり、それぞれ事情があってこの仕事についているのだ。
「アイラも仕事だから仕方ないけど、身体には気をつけるんだよ?」
「ライラちゃんは働き者のいい子だよ。普通ならもっと遊んだりしている年なのにのう」
「ふたりとも、早く自由になれるといいわねえ」
庭にいた者たちが話しかけてくる。
アイラたち姉妹はまだ子供といってもいい年齢なので、彼らはいろいろと心配したり世話を焼いてくれるのであった。
アイラたちがしばし和やかに談笑していると、宿の周辺がにわかに騒がしくなってきた。
「ん? どうしたんだろうねえ」
マッジが、裏庭から宿へと通じる入り口を不思議そうに見ていた。
すると、どやどやと多くの傭兵たちが入り口の前を通り過ぎて、宿の奥へと姿を消していくのが見えた。
「あれは……戦争組が帰ってきたんだね」
マッジが呟くように言った。
戦争組とはその名の通り、傭兵団の中でも戦争を生業とする連中だ。
今アイラたちが滞在している国の一部で内戦が勃発しており、当事者の一方の勢力に雇われていたのだ。
契約期間は内戦が終了するまでだと聞いていたが、思ったよりも早く終わったらしい。
どおりで血の匂いが急にしだしたものだと、アイラは顔を若干しかめながら納得した。
「それにしても、これで団員が勢ぞろいかい。久しぶりのことじゃないか?」
初老の男性も入り口の方を見ながら言った。
アイラが所属する『深淵の狼』のメンバ-は総勢百人ほどだが、それぞれ部隊ごとに分かれており、その全ての部隊が一同に会することなど数カ月ぶりのことなのだ。
なにか不吉な予感をアイラが感じていると、おもむろに二人の男が裏庭にふらりと出てきたのだった。
ひとりは一般的な傭兵の格好をした、軽薄な雰囲気の若い男。
もうひとりは茶色のコートを着込んだ、眼鏡をかけた顔色の悪い男だった。
「よお、アイラ。今回もご活躍だったそうだな。魔獣をひとりで三体もやったらしいじゃねえか。まあ、俺はその十倍は殺したけどなあ」
軽薄な男がにやにやと笑いながら近づいてくる。もうひとりの男は戸口に寄りかかるようにして、アイラを暗い瞳で見つめていた。
軽薄な男が装備している鎧には黒く固まった血があちこちにこびりついていた。
マッジがさりげなく背後にライラをかばっていた。
アイラは嫌悪に歪んだ表情を隠そうともせずに言った。
「そんなことをわざわざ言うために来たのか? 用件がそれだけなら、さっさと失せろジェイク」
ジェイクと呼ばれた男がわざとらしく肩をすくめる。
「相変わらず愛想のねえヤツだな。なに、久々に一手付き合ってもらおうかと思ってな」
ジェイクが腰に吊るした剣の柄に手を添えながら、挑発するように言った。
アイラが目を細めながら吐き捨てるように言う。
「大勢殺してきたばかりでまだやるつもりなのか? 前から思っていたが、本物の戦闘狂だな、おまえは」
ジェイクは薄い笑みから、どこか凄みのある笑いに切り替えた。
「だからやるんじゃねえか。まだ昂ぶりが収まらねえ、今だからだ」
どこか狂気を孕んでいるジェイクの瞳を直視して、アイラは腰の双剣に手をかけた。
ジェイクは快楽殺人者といってもいい男だ。傭兵をしているのも、人殺しを楽しむためだと日頃から公言しているぐらいなのだ。
更にはその性格に加え、最近は嫌な目で見てくるのでアイラが蛇蝎のごとく嫌っている男だ。
ただ、腕はかなりいい。若くして部隊長を任せられているほどだ。もっとも、後方で大人しく指揮をするというタイプではなく、狂ったように最前線に切り込んで部隊を引っ張っていくタイプだが。
ただ、大変な気分屋で自制がいまいち効かない男でもある。過去、ジェイクの機嫌が悪いときに、アイラが何度訓練中に叩きのめされたことか。
だが、アイラも『ジブリール』の一族の中で嘱望されるほどの才能を持っていたこともあり、めきめきと実力を伸ばしてきていた。現時点ではほぼ互角といっていいだろう。
ジェイクにはそれが面白くないのか、たまにこうして勝負をもちかけてくるのだった。
アイラが進み出ようとしたところ右腕をそっと掴まれた。
アイラが見ると、そこには心配そうな顔をしたライラがいた。裏庭にいたほかの雑用係りの者たちも不安そうにアイラを見つめている。
「姉さん……」
アイラは妹を一瞬だけ優しい目で見つめてから、そっとその手を離した。
ライラからしてみればこんな無意味な危険を冒すような真似はしてほしくないのだろうが、この状態のジェイクに背を向ける方がよほど危険なことをアイラは知っているのだ。
ライラの頭を撫でてから、アイラはジェイクへと向かい合う。
ジェイクはすでに鋼鉄製の長剣を抜いて、ぶら下げるようにして持っていた。
訓練用の武器などは使わない。当然、寸止めはすることになるだろうが、無傷で終わる可能性は低い。
アイラは双剣を抜きつつ、ジェイクとの間合いを調節する。
ジェイクの戦い方は極端なまでに攻撃に比重を置いており、『攻撃こそ最大の防御』を地でいく戦法だ。
(……ヤツのペースにのせられるな。慎重に隙を見つけるんだ。大事なのは耐えることだ)
アイラは己に言い聞かせる。
ジェイクは戦闘体勢に入ったアイラを見て、心底楽しそうな笑みを浮かべた。
「それじゃあ、行くと――するかねっ!!」
そう言い終わらないうちに、ジェイクは静止した状態から予備動作なく一気に飛び出した。
速い。ほんの一瞬でアイラとの間合いを縮めてしまった。
ジェイクは体内の魔力――つまりは<内気>を操る技術を習得している。今のも、足に<内気>を集中させることで加速力を高めたのだろう。
アイラの至近にまで迫ったジェイクが上段から剣を振り下ろした。<内気>まで込めた、一切の手加減のない一撃だった。
アイラは左で受け流そうとするが、予想外の重さに体勢がわずかに崩れ、その場に縫い止められる。
ジェイクは間をおかずに、次々と苛烈な攻撃を繰り返してくる。
アイラはジェイクの攻撃を防ぐのに手一杯で、得意の機動力を生かした戦いができない。
「ははっ! おまえみたいにうろちょろするヤツには効くだろうが!?」
どうやらジェイクは、全ての攻撃に全力の<内気>を込めているようだった。そんなことをすれば体内の魔力がすぐに枯渇してしまうだろうに、まったく頓着していないようだ。
「俺の魔力が尽きるのが早いか! それとも、俺がお前を倒しきるのが早いか! 賭けだな、これは! はははははっ!!」
ジェイクはまさに狂ったように哄笑しながら攻撃を続けた。
「……くっ!」
アイラは奥歯を噛みしめながら、ひたすら耐える。
ジェイクの後先を考えない全力攻撃を凌いでいるだけでも、アイラの技量は驚嘆に値した。
しかし、このままでは近いうちに押し切られるのは目に見えている。
こちらも賭けに出なければならない。アイラは決断した。
そのとき視界の隅に、胸に両手を当てて祈っているライラの姿が見えた。
あれは、密林の部族が神に祈るときの所作だった。
身体の節々に痛みを覚えだすほどの攻撃を受けながらも、アイラはそっと笑った。
(ライラ……。おまえはずっと変わらずに純粋なままだ。だが、私はもうそんなものを信じる気にはなれない。私が頼れるのは私の腕のみだ)
アイラは意識を完全に敵だけに向けて、ジェイクを睨みつけた。
そのアイラの燃えあがるような目を見て、ジェイクもアイラが仕掛けてくることを悟ったようだった。凶悪な笑みが濃くなる。
アイラは覚悟を決めると、ジェイクが攻撃するタイミングに合わせてその懐へとおもいきり飛び込んだ。
瞬時にアイラの意図を悟ったジェイクも、斬撃の軌道を途中で強引に変え、飛び込んでくるアイラに斬りつけた。
お互い手加減なしの一撃必殺の攻撃に周囲の人間たちが息を飲む。
そして、二人が交錯する瞬間。
「――そこまでだ!!」
突然、腹の底にまで届きそうな大声が裏庭に響き渡ったのだった。
アイラとジェイクの動きがぴたりと止まる。
アイラの右の双剣がジェイクの腹部に、ジェイクの長剣がアイラの肩口に、それぞれぎりぎりのところで静止していた。
裏庭にいた全員が声の聞こえてきた方に顔を向けた。
そこには重厚な雰囲気を纏ったひとりの屈強そうな男が入り口に立っていた。
傭兵団『深淵の狼』の団長を務めるガレスだった。
ガレスは三十代後半くらいの年齢で、左頬には縦にはしる傷があり、その隙のない視線と物腰といい、相当な修羅場をくぐっていることが見てとれた。
実際、ガレスは団長を務めるだけあって、高い統率力を備え、団員からの信頼も厚い。なにより、『深淵の狼』最強の使い手だ。
ガレスはゆっくりとした足取りで裏庭へと入ってきた。その場にいたほとんどの人間が緊張の面持ちを見せる。それほど圧倒的な存在感を放っていた。
ガレスは相対している二人を睨みながら言った。
「また、貴様らか。ジェイク、アイラ。私闘は団の規則で禁じられていることを何度言えば分かるのだ? ……ましてや、ジェイク。貴様は今や部隊長を務める身なんだぞ」
アイラとジェイクは獲物を納めながら距離をとった。
「ちょっとした訓練ですよ、団長。少しばかり本気になってしまいましたがね」
ジェイクは両手をあげて、おどけるように言った。
アイラは無言で佇む。
ガレスは二人を眺め、鼻から軽く息を抜くと、入り口に寄りかかっている顔色の悪いコ-ト姿の男に振り返った
「ドク。お前も見てないで、こいつらを止めろ」
ドクと呼ばれた男は肩まで伸ばし放題になっているぼさぼさの長髪をかすかに揺らし、眼鏡の縁に指を這わせながら言った。
「私がどうこう言ったぐらいで止まるような連中ではないでしょう。それに、私も少々血が昂ぶっていましてね。いい見世物が見物できると期待していたぐらいなのですよ」
ドクは「クケケ」と気味の悪い笑い声をあげた。
ジェイクが「やっぱ、お前も相当イカレてやがるな」と愉快そうに笑う。
ガレスは処置なしとばかりに一度目を閉じた。
「……貴様らは、我が団の貴重な戦力だ。仲間同士で潰し合って何の利益がある。次からは厳罰に処すからそのつもりでいろ。いいな」
ガレスはそう言い残して、裏庭から去っていった。陰険な笑みを浮かべたドクがそれに続く。
ジェイクも一瞬アイラに視線を向けてから、入り口へと歩き出した。
アイラはこちらに駆け寄ってくるライラを視界の端に収めながらも、ジェイクに注意を払っていた。
ジェイクは宿に入る間際に、かすかに唇を動かした。
彼は酷薄な表情をしながらこう言ったのだ。
「……そうだな。楽しい楽しい祭りはこれからだもんな。怪我でもしちゃつまらねえよなあ」
と。
しかし、その声は小さすぎて、アイラの耳には届かなかったのだった。