登校初日③
「じゃあ、これから長距離走をしてもらいましょうかね~」
のんきなレヴィンの声が校舎横にあるグラウンドに響いていた。
レヴィンも教師用の体操着に着替えていたが、端がヨレヨレなうえにあちこちにシワができていて、あきらかにくたびれている。普段の生活が透けて見えそうであった。
(それにしても、初日から長距離走って……)
このソラの感想は、おそらくクラス全員が共有している想いに違いなかった。周囲の生徒たちの表情もどこかうんざりしている。
ソラは目の前にあるグラウンドを眺める。思っていたよりも広く、かなりのスペースがとられていた。
そもそも、隣接している上級学校をも含めれば、魔導学校の敷地自体が相当な面積なのである。上級学校専用のグラウンドもあり、校舎以外に各種の施設が備わっていて、初めて訪れた人間なら間違いなく迷うだろうというくらいに広大なのだ。さすがは魔導都市の異名をもつエルシオンにある魔導学校だけはあるのだ。金がかかっている。
「トラックを三周走ってもらいますね。楽勝でしょう?」
レヴィンがさも簡単そうに言うが、生徒たちのうんざりとした表情は変わらなかった。
グラウンドが広いということは、当然トラックの幅も長いということである。ソラが目算したところ、一周四百メートル近くありそうなので、三周ということは軽く一キロ以上は走ることになるのだ。
ソラは普段からその倍は走っているので問題はないが、一年生にはけっこうキツイ距離かもしれない。
レヴィンの誘導で皆がスタート地点に渋々と並ぶ。
「途中で気分が悪くなった人は遠慮せずに言ってくださいね。――では、スタート~!」
いまいち締まらないレヴィンのかけ声で生徒たちが一斉に走り出した。
男子生徒の何人かがまるで競うように先頭を突っ走っている。
(あ~、あれは最後あたりでバテるな……)
元気が良いのは、たいへんよろしいことなのだが、ペース配分というものを考えなければ。
「ふん。本当に男子というのは愚かしいですね」
ソラの隣を走っていたマーガレットが蔑んだ表情でその男子たちを見送っていた。
「でも、男の子はあんなものだよ」
と、マーガレットとは逆隣を走っているノエルがすかさずフォローしていた。穏やかな性格で、八歳とは思えないくらいに人間ができているノエルらしい台詞である。
一周を経過すると、最初は団子状だった集団もだんだんとばらけてきていた。
この競技は生徒の性格を如実に反映しており、生徒たちは主に三つのグループに分かれはじめていた。
真面目に走っているグループに、マイペースに走っているグループ。そして、いかにもかったるいといった風に走っているグループだ。
ソラは普段どおりに走りながら、ちらっと後方を見た。
最後尾をたらたらと走っている何人かの生徒たちのすぐ背後で、
「はいはい~。もし、先生に追いつかれたら、もう一周走ってもらいますからね~」
と、レヴィンが笑みを浮かべながらも、目の前の生徒たちを追い立てている。
ギョッとした生徒たちが、慌てて走るペースを上げていた。
もちろん、中には走るのが苦手な生徒もいるので、レヴィンの速度は早歩きに毛が生えた程度と配慮はされているのだが、なかなかのスパルタ教師といえる。
と、ここで。
「お、お姉さま。少しペースが速くはありませんか?」
マーガレットの疲れのにじんだ声を聞いて、ソラは意識を戻した。
「そうかな?」
ソラとしては別に無理をしているつもりはない。通常通りのペースだ。
ソラが周囲を確認すると、いつのまにか先頭の方を走っており、最初に飛び出した男子生徒たちの背中がすぐそこに見えていた。だいたい半分ほどの距離を経過したところだ。
隣にいるマーガレットとノエルの様子をうかがうと、二人ともかなりきつそうであった。ノエルの方はまだ余裕がありそうだが。
よく見ると、背後にはアランとグレイシアがいた。アランは涼しげな顔で走っているが、グレイシアはおもいきり呼吸を乱している。しかし、ソラと目が合うと、『絶対に負けませんわよ!』とでも言っているかのように睨みつけてきた。
(そこまで張り合ってこなくても……。明日は確実に筋肉痛になるな)
とソラが思うほどに、グレイシアはあきらかに無理をしていた。
グレイシアのふくらはぎを観察してみると、普段からとくに走り慣れているわけでもなさそうだ。きれいに整えられていた髪が乱れ、汗もかなり噴き出ている。まさに、根性でソラについてきているのだ。
これ以上無理はしないようにと忠告したいところだが、ソラの言うことをグレイシアが聞くわけはない。逆に闘争心を燃え上がらせるだけである。
なので、こちらも疲労の色が濃いマーガレットへとソラは視線を移した。
「メグ。あまり無理をしない方がいいよ。こういうのは、自分のペースで走ることが大事なんだから」
「そ、そうですね。本当は最後までお姉さまについていきたかったのですけど……。致し方ありません」
やはり、かなり苦しかったらしく、マーガレットはあっさりとソラの提案を受け入れて、脱落していった。
しばらく走っていると、目の前にいた先頭の男子生徒たちとならんだ。横目で確認すると、案の定体力が尽きていて、ペースが落ちてきている。男子生徒たちがソラが見て驚いていた。
ソラたちが三周目にはいろうかという時点で男子生徒たちを完全に追い抜いた。彼らも追いすがる体力は残されていないようだった。これで、ソラたち四人が先頭集団となる。
目の前には周回遅れの生徒たちの姿がすでに見えてきていた。皆レヴィンに追いつかれないように必死に走っている。
すると、ソラの背後から「ぜえぜえ」と虫の息のごとき呼吸音が聞こえてきた。言うまでもなくグレイシアである。
さすがに無視できずに、ソラは振り返った。
「あのさ、グレイシア。そろそろペースを落としたほうがいいんじゃない? じゃないと、下手したら身体を壊すよ」
グレイシアはもはや足を前に出すのさえしんどそうだったが、それでもキッとソラを睨んだ。
「……よ、余計なお世話、ですわ……。ハアハア。……わたしくは、ちっとも、疲れてなんか、ウプッ、いないん、ですからね……!」
その壮絶な意地の張りようにソラは唖然とした。いったい、何がそんなに彼女を駆り立てているのか。
しかし、グレイシアの気力は尽きていなくとも、身体の方はもはや限界のようであった。
引きずるように上げていたグレイシアの両足がもつれて絡み合ったのだ。
盛大にコケるグレイシア。
「――うぎゅっ!!」
おもいっきり両手を投げ出しながらグラウンドに顔から倒れこむグレイシア。
わずかに土煙が上がった。
「グ、グレイシア!?」
ソラはその光景を呆然と眺めた。あまりにも見事な転倒ぶりだったからだ。遠くからグレイシアの取り巻きの女の子たちの悲鳴があがっていた。
後方に遠ざかっていく倒れたままのグレイシアを見て、ソラが立ち止まろうとすると、
「あの、ボクが彼女を介抱しますから、ソラさんはそのまま行ってください。ボクもちょっときつくなってきたので」
うっすらと額に汗をかきながらも、まだソラについてきていたノエルが後方を振り返りながら言った。
「ノエル……」
ノエルは笑顔を浮かべてソラにひとつ頷いてみせると、反転して、まだ起き上がれないでいるグレイシアの元へと向かったのだった。
ソラは後ろ髪を引かれながらも、前へと力強く足を踏み出す。
(そうだ。ここで迷うことは許されない。僕はトップでゴールする義務があるんだ)
ソラの脳裏に数々の光景が浮かんだ。
最後まで寄り添おうと努力してくれた友(マーガレット)、倒れるまで競ってきた気高きライバル(グレイシア)、そして、ソラの心情を汲んでくれた良き理解者(ノエル)。
(――彼女たちの気持ちに応えなくては!)
ソラは自分でもよく分からないテンションでグラウンドを駆け抜ける。
だが、お約束ともいうべき最大の敵が潜んでいたのである。
そう。緋色の髪をした孤高の男子生徒ことアラン・フレイムハートである。
これまで、ソラの背後を黙々と走っていたアランが、ここで速度を突然上げてソラを追い抜いていったのだ。
追い抜く際に、ちらっとクールな流し目をくれるアラン。気のせいか、挑発の色が見えた気がした。
ムッとしたソラは、こちらも足の回転速度を上げて、アランを追撃する。
アランの体力はなかなかのものであった。おそらく、普段から走り慣れているに違いない。呼吸がスムーズかつリズムカルに行われていることからも分かる。
だが、ソラもだてに普段から走り込みをしているわけではない。それに加えて、師匠から教わったエネルギーの消費を最小限に抑える独特の歩法を駆使しているのだ。多少、男女の差による不利はあろうとも、決して遅れはとらない。
ソラは地面を強く蹴って、極力心拍数を落とすための呼吸法を意識しながらも、アランとの距離を詰める。
走る速度が上がったことで、風の抵抗が強くなり、ソラの白髪が後方へと大きくなびいた。
残り半周というところでソラはアランを捉え、そのまま追い抜き返した。
すれ違うときにアランがかすかに目を見開いたのが見えた。
(ふ……。どんなもんだ)
アランの澄ました表情を少しだけでも崩せたのを確認して、ソラはしてやったりという気分になる。
このままゴールまで突っ走ろうかと考えていると。
「…………」
アランが更に速度を上げて、ソラを追い抜いたのだった。
(……こ、こいつ!)
ソラは愕然としてアランの背中を見送った。クールなふりをしていて負けず嫌いなのかもしれない。
アランはすでに最後の直線へはいろうとしていた。ここで離されるわけにはいかない。
「…………っ!」
ソラは今の自分が出せる限界の速度でもって、アランを再度抜き返す。
「…………!?」
さしものアランもソラが追いすがってくるとは思わなかったらしく、今度ははっきりと驚いていた。
だが、アランにも負ける気は微塵もないらしく、いよいよ本気を出したようだった。すぐにソラの横に並んできた。
最後の直線を二人はきれいな横並びで駆ける。
ソラとアランは前傾姿勢をとりながら、ものすごい速度でゴールへと走る。もはや短距離走のようであった。進路上にいた生徒たちが慌てて二人にコースを譲る。
(こんなヤツに、負けてたまるかっ!!)
ソラは渾身の力を振り絞り、前方へ身体を投げ出すようにして、ゴール地点である地面に引かれた白線をまたいだのだった。
ゴールした瞬間にソラはすぐに隣を確認した。すると、アランも真横からこちらに視線を向けていた。どうやら、ほぼ同時にゴールしたらしい。それこそ、写真判定用のカメラでもないと分からないほどだ。
「…………」
二人はゴールしたのにもかかわらず足を止めることはなかった。ゴール地点を過ぎた後もそのまま走り続ける。
ソラはなんとなく同着などというあやふやな結果で終わらせるのは納得がいかなかったのである。
アランがソラと同じことを考えているのかは不明だが、彼に引くつもりがないのは確かなようだった。
ソラとアランの視線が虚空でバチバチと火花を散らす。
「……あ、あの~。三周でいいんですけどーー」
生徒たちの最後尾をのろのろと走っていたレヴィンが、すれ違った瞬間になにやら言っていたが、当然二人の耳には入っていなかった。
ほかの生徒たちも二人をポカンとした表情で眺めているようだったが、ソラたちはそれどころではない。
(……一瞬でも気を抜けば、やられる!!)
ソラは少しでも有利になるようにコースの内側を厳しく攻める。アランもそうはさせじと体を割り込ませてくる。
再び、ソラとアランによる熾烈なデッドヒートが開始されたのだった。
十分後、ソラは荒い息を吐きながらグラウンドに倒れこんでいた。
その隣には、アランも同じく激しく胸を上下させながら横たわっている。
二人はもう動く気力はないとばかりにグッタリとしていた。
あの後、二人はレヴィンが指定した距離の倍以上を走ったのだ。精魂果てて当然であった。
しかも、結局決着はつかなかったのである。何周しても、途中で差をつけても、最後には必ず二人並んでゴールするのだ。
マーガレットが水で浸したハンカチをソラの額に乗せてくれていて、その横ではノエルが困った顔をしながら、タオルでソラとアランを平等に扇いでくれていた。
ソラは冷たいハンカチの感触に目を細めながらも、どこか充実感を味わっていた。
本気で誰かと競い合う。女の子になってからは一度としてなかったことである。前世ではとある悪友といろいろと勝負し合ったものだが。
ソラがどこか晴れ晴れとした気持ちでいると、
「――ふう。人には無理をするなと言っておいて、ご自分は限界ギリギリまで走るなんて……。グレイシアさんのことを言えませんよ」
さすがに呆れた様子のマーガレットがソラを見下ろして言った。
ソラは「うっ」と痛いところを突かれる。マーガレットやグレイシアには、『自分のペースが』などと偉そうなことを言っておいて、己はこの体たらくなのだから。
ちなみに、グレイシアはあの後ノエルが駆け寄ってもピクリとも動かなかったので、生徒たちの邪魔だということでズルズルとグラウンドの脇へと連れて行かれていた。今は取り巻きの女の子たちが面倒を見ているらしい。
(う~ん。大人気なかったかな……)
頭が冷えてきたソラは少し反省していた。
途中からムキになってアランと競ってしまったが、よく考えれば彼はまだ一年生なのだ。ここはソラが大人の寛容さを見せるべきところだったのだ。
ソラは一度大きく息を吐いた。そして、ハンカチを取りながら上半身を起こして、アランへと向き直る。
すると、アランも両腕を突っ張るようにして上体を起こしていた。こちらもだいぶ落ち着いてきたらしく、紅潮していた顔が平常どおりに戻っている。なにやら、ぼんやりと空を見上げていた。
ソラはしばらくアランの端正な横顔を眺めた。
なんだかんだで、彼とは良い友人になれそうな気もするのだ。先ほど気づいたのだが、ソラは気兼ねすることなく付き合える同性の友人に飢えていたのかもしれない。今は女の身であるが。
と、ここで、アランとおもむろに視線が合う。
ソラは爽やかな笑顔で語りかけようとする。今なら無愛想なアランとも仲良くできそうな気がした。
しかし、アランはソラが話しかける前にさっと立ち上がり、
「……負けず嫌いな女だな」
と、ぼそりと呟いて、すげなく去っていったのだった。
お互いに全力を尽くした後に訪れる定番の感動シーンは皆無のようであった。
笑顔を浮かべたままソラはしばしの間固まっていたが、徐々にやり場のない怒りが込み上げてきた。
(な、なんて可愛げのない男の子なんだ! 弟の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだよ!)
と、ソラは右手を握り締めながら、アランの背中を睨みつける。
その隣ではマーガレットが、「まあ、今回はお姉さまの新たな一面が見れたので私は満足です」とひとり悦に浸っており、ノエルも、「二人とも凄いよね。一年生であんなに速く走れる人はたぶんいないよ」とソラを扇ぎながら平和そうな笑みを浮かべていた。
すると、三人の背後から複数の気配がした。
ソラたちが振り返ると、そこには、疲労困憊といった様子のグレイシアが両側から同級生に支えられた状態で立っていた。
グレイシアはソラと目が合うと、
「……ソ、ソラさん。これくらいのことで、わ、私に勝ったとは、思わないでくださいね……!」
ガクガクと生まれたての小鹿のように膝を笑わせながら、ソラに強がるのだった。
ここで、「日常編」はいったんお休みです。
次話からは、本編(一章)で何度か出てきた「二年前の事件」を投稿していきたいと思います。