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空色の魔法使い  作者: 乃口一寸
幕間 魔法使いの日常編
28/132

登校初日①

「――はっ! ――せいっ!」


 エーデルベルグ家の屋敷の裏手にある小さな森。その中から、少女の気合いの入った声が断続的に聞こえていた。

 森の中には、ぽっかりと開いた広場があり、そこから少女の声と地面を強く踏みしめる音が響いているのだった。

 まだ日が昇りきっていないので辺りは薄暗い。森の中なら尚更である。

 だからだろう。広場の隅にある、切り株を半分にして横たえたような椅子には辺りを煌々と照らすランプが置かれてあった。

 地面を土でしっかりと踏み固められている広場には、動きやすい格好をしたひとりの少女がいた。

 肩ほどまである白い髪をなびかせながら、ときに拳を振り上げ、肘を押し出し、すり足で方向転換を行っていた。


「はあっ!」


 白髪の少女――ソラ・エーデルベルグは腹の底から裂帛の声をあげ、おもいきり地面を蹴りつけて、足元から伝わってくるエネルギーを体内に効率よく循環させることを心がけながら、右の正拳突きを目の前へと放った。

 わずかに空気が動く音がした。

 しばらく拳を突き出したままの体勢で余韻を確かめてから、ソラはゆっくりと息を吐きつつ、姿勢を緩めて直立した。


「……ふう」


 ソラはまだ肌寒い春の早朝にも関わらず、相当な量の汗をかいていた。かなりの時間動きまわっていたので当然かもしれないが。

 ソラは汗をぬぐうために切り株製の椅子へと歩いていき、ランプの横にかけていたタオルをとった。

 ソラがタオルで身体を拭いていると、広場と森との境界線にある木の下に一匹のリスを見つけた。

 長いしっぽを丸めた茶色のモコモコとしたリスであった。春の訪れと同時に活動をはじめたのかもしれない。まだ辺りが暗い中で、瞳を光らせながらソラのことを見つめていた。

 敷地内ではあるが、森の中には各種の生物が生息しているのである。


「ごめん、もしかして起こしちゃったかな? でも、もう半年近くやってるし、慣れてくれると嬉しいけど」


 ソラが話しかけてみると、リスは短い耳をぴくりと動かして、「キュウッ」と短く鳴いた。

 どうやら気にしてはいないらしく、そのままのんきに毛繕いをはじめる。

 ソラは表情を緩ませながらその様子を見ると、「う~ん」と両手を上げて、大きく伸びをした。

 火照った身体に朝の新鮮で冷えた空気が気持ちいい。だが、しばらくすれば汗が冷えて身体には悪影響だろう。

 しばし休憩したら、もう少しだけ鍛錬を続けて、今日は切り上げようかなとソラは思った。

 現在、ソラは半年前ほどから開始した東方武術の早朝訓練を行っていたのであった。

 まだ日が昇りきらないうちから起き出して、柔軟体操からはじめ、走りこみや基本の動きの確認などを一~二時間くらいかけて行うのだ。

 この森の中の広場はソラ専用の修行場のようなものである。エーデルベルグ家には屋内と屋外にそれぞれ立派な訓練場が存在するのだが、ソラはこちらの方が落ち着けるからと、子供の頃から知っていたこの広場を使用しているのだった。

 今はソラの姿だけでほかには誰もいない。武術の指南をしてくれるクオンは四六時中エルシオンにいるわけではない。街の外、あるいは国外にまで足を伸ばして、本来の武を極めるための旅へと出ている。

 師が旅に出ている間、ソラは言いつけらている基礎訓練を欠かさずに行い、ふらっと師が戻ってきたときにまた指導を受ける、というサイクルを繰り返している。

 なので、多くの時間が自分に委ねられており、修練するのもサボるのも己次第である。

 ソラは自分から願い出て始めた修行なので、サボったことは一度としてないが、鍛錬を一日でもサボれば、おそらくクオンに見抜かれるだろう。

 クオンははじめのうち、ソラの本気度を試しているようなところがあった。

 その気持ちも分からないでもない。名家の令嬢、しかも年端のいかない少女が武術を教えてほしいと言ってきても冗談にしか聞こえないだろう。ただの戯れだと思われるのがオチである。

 しかし、ソラが何ヶ月も音を上げることなく地味な基礎訓練をこなしているのを見て、クオンはどうやら認めてくれたようだった。最近になって武術の型をいくつか教えてくれるようになったのだ。

 だが、少しでも気を抜くわけにはいかない。ただ漠然と指導を受けるのではなく、この修行に、それぞれの動きに何の意味があるのかを常に考えるように言われているのである。

 ちなみに妹のマリナは朝練には参加していない。ソラと時を同じくして剣術の修行を開始していたので、一度誘ってみたことがあるのだが、本人曰く、『こんな年寄り並みの時間帯に起きて活動するなんて本気でありえないし』とのことらしい。

 ソラは乱れていた息が静まってきたので、朝練の続きをはじめるために、広場の中央へと移動しようとしたときだった。

 広場の隅で自分の毛を舐めていたリスが、突然長いしっぽをピンと逆立たせて、後ろ足で立ちあがった。そのまま微動だにせずに森の外を窺っているようだった。どうやら人の気配を感じ取ったらしい。


(……メイドが来たのかな?)


 メイドが飲み物などを差し入れに来ることはよくあることである。今回もそうだろうとソラは思った。

 ソラが広場から森の外へとつながっている小道を見つめていると、かすかに足音が聞こえてきた。


(あれ? これって、もしかして……)


 規則正しく聞こえてくる足音に、ソラは聞き覚えがあった。

 すると、とある長身の男性が、薄暗い広場の入り口からランプの光が届く範囲へと、すっと姿を滑り込ませてきたのだった。


「師匠!?」


 ソラは己の師の姿を確認すると、慌てて傍に駆け寄った。


「確か、予定だと戻ってくるのは来週でしたよね」


「思ったよりも早くに目的を達せられたのでな」


 そう言って、師はソラの前に立った。

 ソラは師を見上げる。帰ってきたばかりのようで、やや薄汚れた旅装姿のままだった。

 師の名前はクオン・タイガ。東方出身の武術家である。クオンとソラの祖父母が旧知の仲で、その縁で修行をつけてもらっているのだ。

 クオンは灰色の髪を後ろで縛った五十代前半ほどの初老の男性であったが、その瞳はとても力強く、若々しい。魔導学校のグリフィス校長にも共通する、年齢を感じさせない気力と立派な体格とを持った偉丈夫であった。

 顔や手の甲に刻まれた無数の傷跡などから、かなりの修羅場をくぐっていることが一目でわかる。そのしわや傷のひとつひとつに厳しい経験が刻み込まれているかのようだった。


 クオンが落ち着いた声で訊いてきた。


「屋敷の者たちに変わりはないか?」


「はい。みんな元気ですよ」


 ソラは答えつつも、相変わらず渋いなあと思いながらクオンを見つめた。

 クオンと出会った大抵の人間が抱く感想であろう。容姿や雰囲気はもちろん、その眼差しといい、声音といい、何もかもが『渋い』男性であった。

 クオンはソラを眺めてから言った。


「ふむ。一通りの鍛錬をこなして身体は暖まっているようだな。ならば、久しぶりに組み手をしてみるか」


「……! はい!」


 ソラは元気よく答えた。クオンと組み手を行うのも、わりと最近になってからのことである。

 地道な鍛錬を黙々とこなすのが別に苦にはならないソラではあるが、武術を習っているからには、たまにはその成果を試してみたいところである。

 年季の入ったマントを切り株の椅子へと放りながら、クオンはソラへと視線を向ける。


「……分かっていると思うが、全力で来なさい。今、君が出せる本気・・でだ」


 その台詞の意味を正確にくみ取り、ソラはひとつ頷いた。

 ソラはそっと目を閉じて、集中を開始する。クオンはソラの準備が整うまで待っていてくれるだろう。

 ゆっくりと時間をかけながらも、ソラは普段から己に課している制限を少しだけ緩めた。本来は忌むべき能力をほんのわずかに解放する。

 目を閉じていても、周囲の状況が手に取るように理解できるようになる。その範囲は半径三メートルほどといったところか。近くに立つクオンの姿勢から、足元に生えている雑草の数さえ把握できている。ただ、これ以上はリスクが高いので、ここまでが限界である。頭に流れ込む情報は必要最小限に抑えなければならない。


「では、はじめるとするか」


 クオンの呟くような声を聞いて、ソラは目を開いた。

 ソラは半身の構えを取りながら、師へと相対する。

 クオンはとくに構えるでもなく、ただ突っ立っているように見える。だが、ほんのわずかに身体を沈め、筋肉を引き締め、いつでも行動できるようになっているのがソラには理解できた。

 クオンとの組み手は、基本的にソラが一方的に攻撃しつづけ、たまにクオンが反撃するという形で行われる。

 まるで全てを見透かしているかのようなクオンの視線にソラは気圧されそうになるが、腹に力を込めて耐える。

 ソラは迷いを振り払うように地面を蹴り、短く鋭い息を吐き出しながら飛び出した。


「――ふっ!」


 まずは牽制の掌打を放つ。

 クオンは自然な動きで身体を横へと滑らしてかわした。

 ソラはすぐさま身体を回転させて、クオンを追撃するように左の裏拳を見舞った。

 が、クオンはほんの半歩だけ後退して、ぎりぎりでソラの拳を回避した。

 ソラは回転している勢いを利用しながら、右の正拳を突き出したが、クオンはまたも柳の葉のごとくゆらりと脇へ避けたのだった。

 その後も、ソラは切れ目なく攻撃を仕掛けるが、クオンにはかすりもしなかった。 

 だが、とりえずはこれでいいのである。これはただの組み手ではなく、ソラ独自の戦闘技術を確立するための組み手なのだから。

 すなわち、同調率を高めた状態での近接戦闘である。

 <完全同調者>たるソラは、世界との完全なる同調を果たすことができる。その全能力を発揮すれば、ソラは短時間だけだが、圧倒的な力を振るうことができるだろう。

 しかし、その代償はとてつもなく大きい。おそらく、現在のソラでは、怒涛の勢いで流れ込む情報により脳を破壊されたのちに、世界の奔流へとあっけなく呑まれていくだけだ。

 普段はそれこそ死ぬ気で編み出した制御法でもって抑えている。また、自らに暗示をかけることで、とくに意識することなく体質を押さえ込んでいるのである。でなければ、とてもではないがまともな生活を営むことはできない。

 なので、百パーセント同調するのではなく、安全圏にまでレベルを落として、自分に必要な情報だけを得る練習をしているのである。いずれは、完全同調時の訓練も行いたいと思っているのだが。

 とはいえ、情報を取得しても、それを瞬時に解析し、行動に移せなければ意味がない。

 この組み手は、高めた同調率を維持しつつも、一連の動作をできるだけ短いレスポンスで実現するための訓練なのである。

 もし、この技術を磨いていけば、かなり高度な先読みができるようになるだろう。理想は反射的に行動へと移せるようになることである。


(……そろそろ、いくかな)


 ソラは攻撃を続けながらも、頭での情報処理と身体との連動がスムーズに行われていることを実感していた。今まではそのための前準備のようなものだ。

 ソラは改めて、クオンへと神経を集中させた。

 クオンの目線、筋肉の動き、足の位置、身体が動くことで生まれる風の流れ――それらをソラの五感が捉えるよりも早くに、ソラは理解していた。

 ソラは、自分が放った拳を斜めに踏み込むことで回避しようとしているクオンの動きを分析した情報から読みとった。

 先読みしたソラが強引に体勢を変更して、クオンの側面へと追撃する。

 動きを読まれたクオンがわずかに目を見開いた。しかし、慌てることなく腕をあげて、ソラの追撃の拳を防ぐ。

 クオンの鋼鉄のごとき腕の感触にソラはかすかに顔をしかめながらも、師が自分の背後に回りこもうとするのを感知して、そうはさせじと身体が師の正面になるようにもっていく。

 目の前にじっとこちらを見ているクオンの顔があった。

 ソラは今の一瞬の攻防から、確かな手応えを感じていた。


(なかなかいい感じだ。師匠の動きを掴んで、ちゃんとついていけてる)


 決定的な一打を浴びせることこそできないが、達人級の実力をもつクオンと渡り合えている。たとえ、手加減されていてもだ。 

 薄暗い森の広場で、白髪の少女と初老の男が舞うようにして動き回っていた。その息が合った動きはまるで演舞のようであった。観客は黒目がちな瞳で人間たちを見つめているリスだけである。

 ソラが先読みしたうえで攻撃し、クオンがそれを紙一重で防ぐという攻防がしばらく続いた。

 すると、クオンが腰を沈め、足をたわめるような動きを見せた。重心はやや後方にある。


(後ろに跳ぶつもりか?)


 ソラはそう判断して、前へ踏み出そうと足に力を込めたときだった。

 クオンがソラへ向かうようにして跳躍したのは。


「な……っ!?」


 ありえない動きに、ソラは驚愕した。

 そのままソラの頭上を飛び越えていくクオン。

 ソラは背後に着地しようとしているクオンに慌てて向き直る。

 クオンは着地した勢いを利用して右に動こうとする。それを、ソラがかろうじて捉え、対応しようとする。

 だが、つま先が地面から離れる寸前に、クオンは逆方向へと跳んだ。


「!」


 すでに身体を動かし始めていたソラが急いで引き戻そうとしたが、すでにクオンに側面へと回りこまれていた。 

 そこで、クオンが初めて反撃に出た。空気を切り裂きながら、クオンの掌底がソラへと迫る。

 ソラは前方へ身を投げ出すようにして、かろうじて避けた。


(嫌な場面で反撃してくるな!)


 すぐに体勢を立て直しながらも、ソラは冷や汗をかく。

 クオンは徐々に虚実を織り交ぜた動きを見せはじめた。

 その動きに幻惑され、判断に迷い、ソラは振り回されつつあった。

 どんなに正確な情報を手に入れていても、分析を誤れば意味がない。

 ソラは必死に状況をコントロールしなおそうとするが、


「あっ」


 突然、プツンと集中力が途切れたのだった。

 同調率を高めた状態は、脳への負担が大きいうえに多大な集中力を要するため、長時間の使用は不可能であった。

 その隙をクオンが見逃すはずがなく、瞬時に攻撃を繰り出す。

 ソラは避けることもままならず、顔面スレスレで寸止めされた師の巨大な拳を見つめることしかできなかった。

 そのまま、ヘナヘナと尻餅をつくソラ。途端に汗がどっと噴き出てくる。


「これで終わりとしよう」


 と、呼吸ひとつ乱していないクオンが告げた。

 ソラは地面に座りながら、はあと息を吐いた。


(やっぱり、裏技を使ってもまだまだ師匠には叶わないなあ。もう少しいけると思ったんだけど)


 ソラが若干落ち込んでいると、クオンが声をかけてきた。


「……そこまで落ち込むことはない。まだまだ始めたばかりなのだから。今は技術の完成のために課題を洗い出している段階だと思えばよい。それに、前回の組み手よりも随分と動きが良くなっている」


「はい……」


 ソラは素直に頷きながらも、先は長そうだと思った。

 今の攻防だけでも見つかった課題はたくさんあった。自分が理想とするレベルには遠く及ばない。

 すると、クオンがへたり込んでいるソラへと分厚い手を差し伸べてきて、静かに喋り始めた。


「……はじめは、正直君がここまで私の鍛錬についてくるとは思わなかったし、この短期間で驚くほどの成長を遂げた。もともと君に才能があったのだろうが、それ以上に努力を怠らなかったからだ。君が強くなりたいと思うならば、へこたれずに続けていけばいい」 

 師にしては珍しい長口上を聞いてソラは目を丸くした。どうやら励ましてくれているらしい。

 滅多に吐露することのないクオンの本音を聞けて、ソラは思わず嬉しさを噛み締めた。人間誰でも他人から認めてもらえれば嬉しく思うものだ。自分が師事する人間なら尚更である。

 ソラがクオンの手を握ると、師はぐいっと力強く引き上げてくれた。

 ソラを引き上げた後、クオンは遠くを見つめながら、


「……ふむ。できるならば、同等レベルの実力をもった人間と切磋琢磨できればいいのだがな」


 と、呟いていた。

 そのとき、森の外からソラを呼ぶ声が聞こえてきたのだった。


「――お嬢様~? おられますか~?」


「いるよ~!」


 ソラが大声で叫び返す。

 しばらく、クオンと二人で小道を眺めていると、ひとりの若いメイドが小走りで広場に駆け込んできた。


「お嬢様、そろそろお部屋へ戻られませんと……って、クオンさま? お帰りになられていたのですか?」


 まだ屋敷で働くことになって数ヶ月ほどの新人メイドが、ソラの隣にクオンの姿を見つけて驚いていた。


「うむ。夜が明けないうちに屋敷へ戻ると迷惑かと思ってな。まずはこの広場に顔を出させてもらった。私はもうしばらくここで鍛錬を続ける予定だから、気にしないでくれ」


 貫禄のある声で返答するクオン。

 メイドはクオンを見上げながら、納得がいったかのように頷いた。律儀で礼儀をわきまえたクオンらしい理由だと思ったのだろう。


「それでは、今お帰りになられたばかりということですね。……あの、後で何か温かいお飲み物でもお持ちしましょうか?」


「そうしてもらえれば、ありがたい」


 クオンはわずかに目を優しく細めて、感謝の意を述べた。

 若い新人メイドが、ポッと顔を赤くする。

 ソラはその様子を見ながら、やれやれと内心で首を振っていた。

 基本的に無口で、普段は仏頂面をしている修行一筋のクオンではあるが、案外若い女の子からモテるのである。

 とても頼りになる上に、ダンディかつクールな大人の男性。若い女の子が憧れるのも無理はない気もする。屋敷のメイドたちの会話でも、クオンの話がよく出てくるらしい。

 顔を赤くしてクオンを恥ずかしそうに見ていた新人メイドだったが、はっとした顔をしてソラの方を向いた。


「お嬢様、もう戻られませんと! ミアさんがお部屋で湯浴みの準備をして待ってます」


 ソラはもうそんな時間かと頭上を仰ぎ見た。いつのまにか、空が白んでいて周囲が明るくなっていた。ランプをつけている意味がないくらいだ。

 どうやら、クオンとの組み手に夢中になっていて、全然気づかなかったらしい。

 今日は魔導学校への登校初日である。部屋へと戻って汗を流し、制服に着替えたのちに、朝食をとらなければならない。

 ソラは急かしてくるメイドに半ば背中を押されるよう歩きながら、クオンへ挨拶した。


「師匠。私は学校へ行ってきますね」 


 クオンがソラの言葉に頷く。

 ソラがメイドとともに広場から出ようかというときだった。


「――ソラ」


 と、クオンが呼び止めたのは。


「はい?」


 ソラが振り返る。

 すると、クオンはわずかに相好を崩して、


「少し遅れてしまったが……。入学おめでとう」


 と、渋い声で言ったのだった。


 ※※※


 ソラは学校へと向かう馬車の中にいた。

 座席の下には衝撃を吸収する仕掛けが施されおり、ほとんど揺れは感じられない。エルシオンの道路がきれいに舗装されているということもあるが。

 ソラは今日から本格的に魔導学校へと通い、授業を受けることになるのだ。

 入学式の日にいろいろと予想外な出来事が発生したので一抹の不安はある。

 式が終了して家族と合流した際に感想を訊かれたときには、ソラは曖昧な返事をしたものだった。

 とてもではないが、式の途中で魔導をぶっ放されたり、百合っぽい生徒から迫られたり、ライバル心剝き出しの生徒から突っかけられたり、とある男子生徒に至っては喧嘩寸前にまでなっていました、などとは言えなかった。


(これから先どうなることやら)


 ソラが窓の外の景色をぼんやりと眺めていると、前に座っていたマリナが話しかけてきた。


「どうしたの、お姉ちゃん。同級生からいきなり告白されて悩んでるとか?」


「いや、そんなことありえないし。というか、まだ一年生なんだけど」


 ソラが前方に視線を移すと、そこには、なぜかマリナがにこにこしながら座っていた。

 マリナは指を左右に振って、ソラに諭すように言う。


「一年生だとか関係ないよ。この世界の子供の精神年齢が想像以上に高いって言ってたのはお姉ちゃんでしょ?」


「まあ、そうだけど」


 マーガレットにしろ、グレイシアにしろ、とても子供とは思えないほど受け答えがはっきりとしていたものだ。

 いずれにせよ、仮に告白されたとしても、付き合うなどといったことは百パ-セントない話だが。

 ここで、ソラはマリナに質問した。


「そういえば、何でマリナが馬車に乗ってるの?」


「気づくのおそっ!? 今日行きたいところがあるから、お姉ちゃんの馬車に便乗させてもらうねって、出発前に説明したの聞いてなかったの? まだ夜も明けてないうちから動き回ってるから、疲れて集中力が散漫になってるんじゃない? ホント、二人してよくやるよね」


 マリナが呆れた風にソラを見つめた。

 今朝はクオンとの組み手で精神力をかなり消耗したので、全くないとは言えないところである。


「行きたいところって?」


 マリナはよくぞ訊いてくれましたとばかりにニンマリとした。


「実はこの前、南地区で雰囲気のいい喫茶店を見つけたんだよね。試しに入ってみたら、そこで出されてるスイーツがメチャクチャ美味しかったの! アイデアも豊富かつ斬新でさ。ほら、この世界ってスイーツの種類が少ないから苦労してるじゃない? だから、この店には期待してるんだよね~!」


 どうもかなり感銘を受けたらしく、マリナのテンションが上がっていた。

 スイーツの種類が少なくて苦労してるのはマリナだけだろう、とソラは心の中でつっこむ。

 この世界では前世ほど多種多様なスイーツが存在していないので、スイーツ好きなマリナが大いに嘆いていたのである。

 そこで迷惑を被ったのがソラであった。エルシオンで調達できる材料を使って、マリナの好きなスイーツを再現するように試行錯誤させられたのである。家の人間や専属シェフなどはいったい何事が始まったのかと目を丸くしていたのものだ。

 エーデルベルグ家の専属シェフは誰もが超一流の腕前で、本来なら彼らに頼みたいところである。しかし、マリナの要求するスイーツの実物を知らないので、こればかりはソラがひとりで引き受けねばならなかったのだ。

 ソラもその店の人間には是非とも頑張ってもらいたいものだと密かに応援する。そうすれば、ソラの負担も軽減されるだろうから。

 ここで、マリナが表情を少し曇らせた。


「でも、あんまり経営状況が芳しくないようなんだよね。だから、潰れたりしないように、これからも贔屓にしようと思ってるんだけど」


「じゃあ、私の分も買ってきてくれる? マリナが見繕ってくれていいから」


「お姉ちゃんも応援してくれるってこと? いいよ、テイクアウトもできるし。それにしても、最近、お姉ちゃんも甘いものが好きになってきたみたいで、私は嬉しいよ」


「うぐっ……」


 ソラは言葉に詰まる。マリナの言うとおり、甘いお菓子などを好むようになっているのは事実である。あまり考えたくないが、女の子に転生した影響なのかもしれない。

 とはいえ、ソラはスイーツを本気で欲しているわけではない。せっかく自分の苦労を肩代わりしてくれる人間が現れたのだから、ソラとしても潰れてもらっては困るのだ。

 そうこうしているうちに馬車が学校へと到着した。

 執事が開いてくれた扉からソラは身を乗り出す。


「じゃあ、美味しいお菓子をたくさん買ってくるから、期待しててね!」


 地面に降り立ったソラへと、マリナが元気に手を振っていた。

 例の店だけでなくあちこちで買い込んでくるのだろう、とソラは苦笑した。前世から食い意地は張っているのである。

 意気揚々としたマリナを乗せて発進した馬車を見送ってから、ソラは校舎へと歩き出した。

 中央に魔導学校の紋章が刻まれているアーチ型の校門をくぐったときだった。


「おはようございます、お姉さま」 


 と、横合いからソラに挨拶してくる声があった。

 そちらを見ると、予想通りマーガレットの姿があった。ソラのことをそのように呼ぶのは彼女しかいない。


「おはよう、メグ」


 ソラが挨拶を返す。


「ふふ。お姉さまは今日も輝いてらっしゃいますね。ほかの有象無象の生徒たちが引き立て役にすらなれないほどです」


 なんともひどい言い草だったが、


(輝いているのは、マーガレットの方だと思う)


 と、ソラは、太陽の光が反射してキラリと光っているマーガレットの広めの額を見つめつつ思った。

 ソラが眩しさでわずかに目を細めていると、マーガレットの隣にひとりの少女が並んでいるのを発見した。


「あれ、キミは……」


「お、おはようございます!」


 少女は慌てた様子で、ちょこんとおかっぱ頭を下げた。相変わらず小動物っぽい動きだとソラは思った。

 彼女は入学式の日に、ゴルモアから来た大柄な留学生に絡まれていた不運な少女だったのだ。


「この前の件で、改めてお姉さまにお礼を言いたいそうです。……さあ」 


 と、マーガレットが補足してから、緊張している少女の背中を軽く押した。

 男を不倶戴天の敵のごとく毛嫌いしているマーガレットも、同性には優しいようであった。

 ソラが少女に再度視線を向ける。


「そうなの? そこまで、気にしなくていいのに」


「い、いえ! あのとき、ソラさんが助けてくれなかったら、いったいどうなっていたか……。あの、本当にありがとうございました!」 


 きっちり九十度の角度で頭を下げる少女。見事なくらいに身体が直角に曲がっている。なかなかに礼儀正しい子のようだ。


「私は当然のことをしたまでだけど……まあ、礼は受け取っておくよ。――ともかく、これからよろしくね」


 ソラは少女へと手を差し伸べた。

 少女は頭を下げたまま、目の前に差し出された手をしばらく見つめていたが、姿勢をゆっくりと正した。


「は、はい。……あの、紹介が遅れましたけど、ボクはノエルって言います。ノエル・オリヴィエ。よろしくお願いします」


 ノエルははにかむように笑って、ソラの手をおずおずと握った。


(……はは。『ボク』、か)


 ソラは本当に可愛い娘だな、と微笑ましい気分でノエルを見た。

 柔らかな緑色の瞳に内気そうな性格を覗かせてはいたが、優しく穏やな少女のようだった。ソラやマーガレットよりも背が低く、今朝見かけたリスみたいに動きがちょこまかとしているのでどこか保護欲をかきたてられるのだ。見ているとほんのりと癒される、そういう少女だった。

 とはいえ、ノエルの動きには洗練された美しさを感じた。おそらく、彼女も名家の子女なのだろうとソラは思った。

 ソラとノエルが握手をしていると、講堂の上部に取り付けられた鐘がガランガランと重々しい音を学校中に響かせはじめた。朝のホームルームが始まる五分前の予鈴だ。校門付近を歩いていた生徒たちも歩くペースを早めてそれぞれの教室へと急ぐ。

 ソラはノエルとマーガレットと顔を見合わせた。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 ソラは二人の少女と連れ立って教室へと向かうのだった。

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