第12話
テオドールの不意打ちを受けて落下してしまったソラを救うために海へと飛び込んだマリナは、高い波に翻弄されつつも自身がまとっていたローブと背中の大剣を外して捨てた。
両親が用意してくれた高級ローブは波にさらわれてあっという間に流されていき、プラチナ製の大剣もすぐに海の中へ沈んでしまったが、このままでは海中を自由に移動することもままならず逆に自分が溺れかねないので仕方がない。
身軽になったマリナは大きく息を吸ってからさっそく潜水を開始する。
猛烈な雨風が吹き荒れる海面に比べれば、海の中は静かで潮の流れも想像していたより緩やかだった。
海水の温度もそこまで低くなかったのが不幸中の幸いである。
(お姉ちゃん、どこ!?)
暗く視界の悪い海中を少しずつ掻き分けながらマリナは何も見逃さないよう周囲へと視線を凝らすがソラの姿はどこにもなかった。
この辺りに落ちたことは間違いないはずなのだが。
(もっと遠くに運ばれたのか、それとも更に深い所まで沈んだのか……)
マリナは死んだように動かないソラが闇に包まれた深い海の底まで落ちていく光景を想像してゾッと背筋が凍えた。
(――って、何考えてんの! お姉ちゃんなら大丈夫!)
嫌な考えを振り払うように根拠のない自信で己を鼓舞するが、そうでもしないと不安に押し潰されそうになるのだ。
おそらく海中の静寂さが生み出す孤独感がネガティブな考えを助長させてしまうのだろう。
(でも、急がないと。このままだと本当に手遅れになるかもしれない)
時間が経てば経つほど発見が困難になり、処置が遅れればそれだけ生存の可能性が低くなる。
(闇雲に探し回ってもたぶん見つからない。ある程度絞らないと)
落下する前に気絶していたならそこまで深くには沈んでいないはずだと、マリナは大まかな探索範囲を決めて全神経を集中させながらゆっくりと海中を進む。
海流を身体全体で感じ取り、姉が流されるであろう場所を推測する。
マリナが祈るような気持ちで重い海水を掻き分けていると、おもむろに頭上から稲光らしき光が差し込んできて、一瞬だけ視界の片隅にぼんやりと白い何かが浮かび上がった気がした。
(お姉ちゃん!?)
息が苦しくなるのもおかまいなしにマリナが必死に身体を動かして近づくと、そこには脱力したまま海中を漂っているソラの姿があったのだ。
(お姉ちゃん! 良かった……!)
藍色の海の中、精巧な人形のような少女が純白の髪をふわりと広げて静かに浮遊している光景はどこか幻想的ではあったが、マリナは急いで浮上するべく力なく漂うソラをつかまえると力強く足元の水を蹴った。
「――ぷはっ!」
ほどなくして再び荒れ狂う海面へと戻ってきたマリナは空気を肺に流し込みながら腕に抱いたソラの状態を確認する。
(やっぱり呼吸をしてない。けど、肩に損傷がほとんどない?)
血の気を失いぐったりとしたソラの右肩には魔導で受けたはずの傷あとが見られずわずかに服が破れている程度だったのだ。
間違いなく直撃したはずなのだが、どうやら寸前に気づいて対抗魔導で術そのものは大方防いだらしかった。
ギリギリだったので衝撃までは殺せずに落下してしまったものの、それでもさすがは我が姉というべきか、もはや感心するやら呆れるやらである。
とりあえず外傷がなくて安堵したマリナだったが、ともかく今は一刻も早く心肺機能を回復させなければならないとソラを抱きしめたまま海上を見渡す。
このまま海を漂っている状態では応急処置すらまともにできない。
しかし、嵐と高い波で視界が悪いせいもあり、付近には『クイーン・アンナ号』やジョシュアの船はおろか海賊船の姿すら見当たらず、落下した地点から遠ざかってしまったのか、あるいはどこかに移動してしまったのかもしれなかった。
(アイラやアンナさんたちが無事だといいけど……)
ソラを救うのに必死でそれどころではなかったが、飛び込む前の『クイーン・アンナ号』は新たな魔獣に取り付かれて厳しい状況に陥っていたし、他にも海賊たちの存在や暴挙に出たテオドールの事も気になる。
(そっちはアイラたちを信じるしかない。それよりもお姉ちゃんを早く助けないと。でも、寝かせられる場所なんてないし……)
このまま待っていても救助に来てくれるかどうか分からず、この危険な海を他の船がたまたま通りがかる可能性も低そうだった。
とはいえ都合よく流木などが浮かんでいるわけでもないので、マリナが海を眺めながら途方に暮れていると、ふいに背後から大きな振動を感じたので不吉な予感を覚えながら振り返る。
「げっ!?」
後ろから巨大な波がとんでもない質量とともに迫ってきているのを目の当たりにしたマリナはソラを抱えたまま咄嗟に潜ろうとするが、わずかに間に合わずに凄まじい奔流に巻き込まれて海中を木の葉のようにデタラメに舞う。
すぐに上下の方向感覚が喪失し、洗濯機に放り込まれたような気分を味わいながらマリナが腕の中のソラを抱きしめながらひたすら耐えていると、しばらくしてからようやく身体の自由を取り戻すことができるようになったのだった。
あやうくもう少しで気を失いそうになったが何とか助かったようである。
(……本気で死ぬんじゃないかと思ったよ)
やや気分が悪いのをこらえながらマリナが海上目指して足をバタつかせていると、今度は横から何かの気配を感じた。
(サ、サメ!?)
災難とは立て続けに起こるものなのか、マリナが出す音を聞きつけたらしい体長三、四メートルほどのサメが大きな口を開けて襲いかかってきたのである。
思わずギョッとしたマリナだったが、鋭い牙がびっしりと生えているサメの口腔内に飲み込まれるすんでのところで、左手にソラを抱えながら右手と両足で開かれた口を押さえることに成功した。
サメはそのままエサであるマリナたちを捕食しようと海面すれすれのところを突進し続ける。
(んもおっ! 時間がないってのに!)
最初は驚いたものの段々腹が立ってきたマリナはサメに押されつつもタイミングを見計らって反撃に出た。
一瞬の隙をついて横にかわすと、すれ違いざまに魔力をまとった右手で手刀をつくってサメの目に突き入れたのだ。
よもやの反撃を喰らい驚愕したサメが激痛で暴れ回るが、マリナは速やかにトドメを刺すべく容赦なく手刀を奥までねじ込む。
ぶちぶちと体組織を突き破る嫌な感触がして、やがて指先が脳にまで達した頃、サメは動きを止めて息絶えたのだった。
(ごめんね……。でも、こんな時に襲ってきたあんたが悪い)
マリナが苦労しながら肘まで埋まった右手を引き抜くと辺りにサメの血がぶわっと広がった。
死んだサメは白い腹を見せながら海面に仰向けになってぷっかりと浮いたが、それを見たマリナは丁度いい場所ができたとまずそこにソラを引き上げて自分も乗っかる。
「ハアハア……。さすがにきつい……」
まさかサメとバトルすることになるとは思わず、マリナの体力も限界に近かったが、何においても優先してやらねばならないことがある。
マリナはサメの上に寝かせたソラの気道を確保すると慎重に心臓マッサージを開始した。
荒い波に揺られて不安定だったが贅沢など言っていられない。
それから何度も死んだように横たわるソラの胸を必死になって押したがなかなか息を吹き返す気配がなかった。
(お願い! 息をして、お姉ちゃん!)
幾度マッサージを繰り返しても反応がなく、マリナの目端に涙が浮かびかけた時だった。
おもむろにソラの身体がびくんと一度大きく跳ねると、口から大量の水を吐き出しながら咳き込み始めたのである。
「お姉ちゃん!!」
マリナは歓喜の声を上げると急いでソラの冷たい唇に己の唇を押し付けて口の中の海水を取り除く。
姉の胸は一定のリズムで上下に動いており正常に呼吸しているのが確認できた。
ソラは最初こそ苦しそうに顔を歪めていたものの、段々落ち着いてくると安らかな寝顔とともにすうすうと穏やかな寝息を漏らし始めたのだ。
(良かった……。本当に良かったよ……)
マリナは安堵と疲労でその場にへたり込む。
できればこのまま仲良く姉の隣でひと眠りしたいところだが、依然として危険な海を漂流していることに変わりはないのでそんなわけにもいかない。
「はあ……。これからどうしよう……」
マリナは溜息を吐きつつ強い雨風が吹き荒れる中で再び途方に暮れるのであった。
漂流をはじめてからしばらく姉妹は殺風景な海をサメの上に乗ったまま揺られていたが結局救助が来ることはなかった。
マリナはソラのローブを被って雨風を凌ぎつつ少しでも暖かくなるよう腕の中に抱えていたソラの背中をさする。
無事に一命は取り留めたもののあれから姉は目覚めることなくずっと眠ったままだ。
(うう。寒いし、眠いし、落ちそうになるし、かなりしんどい……)
マリナは瞼が落ちそうになるのを我慢しながら海をひたすら眺める。
寒さはソラと密着しているのでまだマシだったが、少しでも油断すれば海に振り落とされそうになるので気が抜けない。
それに、いつまた大きな波が襲ってくるか分からないし、血の匂いに釣られた他のサメが集まってくるかもしれないのだ。
(……やっぱりダメかあ)
マリナは目の前に魔導紋を描こうとしたものの放出された魔力がすぐに歪んでしまって形にならなかった。
先ほどから眠気覚ましも兼ねて何度か試しているのだが、かなり強力な魔力障害が発生していて簡単な魔導すら使用できそうにないのだ。
(ということは、ここはやっぱり『魔の三角域』の中ってことだよね)
行方不明になる船舶が後を絶たないデンジャラスな海からさっさと脱出したいとろこだが、頼みの魔導が使えない上に助けが来る気配も皆無なのでまさに絶望的な状況だ。
ついこの前まで『魔の三角域』を探検しようとワクワクしていた自分に小一時間ほど説教してやりたい気分である。
(一応、手段がないこともないけど……)
マリナは捨てずに背中にくくり付けたままにしていた魔導士用の箒に意識を向ける。
この海でどこまで通用するかは分からないが、探索用に持ってきていたこのアイテムが今のところ最後の切り札だ。
(でも、仮に飛行できたとしても、どこへ向かえばいいのか……)
方角はおろか『魔の三角域』のどこを彷徨っているのかも見当がつかないのだ。
付近に海賊が拠点にしていた島など無人島がいくつか点在しているのは把握しているが、勘に頼って飛行したとしても運良くそれらのどこかに辿り着ける可能性ははっきり言って低い。
一か八かの賭けにしても分が悪すぎるし、途中で力尽きて海に墜落すればその時は二人ともアウトである。
(やっぱり粘り強く救助を待つべきなのかなあ)
本来なら遭難した時は下手に動かず体力を温存することを考えるべきなのかもしれないが、このまま待っていても埒が明かず追い詰められていくだけな気がする。
それに、早くソラを安全な場所で寝かせてあげたいし、自分も疲労が溜まっているのでゆっくりと休息をとりたい気分だ。
(体力が続くぎりぎりまで助けが来るのを待とう。それでも状況が変わらないのなら本気で箒での脱出を考えよう)
マリナはそう決めると眠ったままのソラを強く抱きしめて再び周囲の観察に戻った。
それからどのくらいの間海の上で揺られていただろうか。
時間の感覚が曖昧になる中、マリナが無間地獄のような睡魔との闘いを繰り返していた時だった。
「あ……!」
不意にマリナの目の前に黒い大きな影が横たわっているのを発見したのだ。
まだ距離があるのと嵐のせいで視認しづらいが間違いなく島である。
「もしかして、あれが『幻影の島』? 本当にあったんだ……」
マリナは島を見つめながら呆然と呟く。
伝説にあるバルバロイが根城にしていた場所なのかは分からないが、『魔の三角域』内に島は存在していたのだ。
もしかしたら助かったのかもしれないと、ようやくマリナの中に希望の光が射してきたが、しばらく待っていても島に接近する様子はなくむしろ徐々に遠ざかっている気がした。
(そういえば、アンナさんが中央部には海流の関係で近寄れないとか話してたっけ)
だとすればこのまま待っていてもせっかくのチャンスをフイにするだけである。
今こそ切り札を使うべき時だと判断したマリナはサメの上に立ちあがり、ローブを着せたソラを前に抱えむようにして箒に跨って慎重に魔力を流し始めた。
やがて魔力を充填した箒はゆっくりと宙に浮かび、マリナが前進するよう命じると高速で海の上を飛び始めたのだ。
(やった! ちゃんと飛行してる!)
魔障石と猛烈な風の影響で安定せずにふらついていたものの、マリナたちを乗せた箒は島に向かって突き進む。
途中、穂先が海面に突っ込みそうになったり、大きく流されて島から逸れそうになったが、必死に制御し続けた結果ようやく島の浜辺が見える所まで接近できた。
しかし、あと少しで島に上陸できるというところで箒が制御を受け付けなくなりガクンと態勢が傾いてしまったのだ。
できるだけ早く到着するよう高速で飛ばしていたので今更停止することもできずこのままだと砂浜に突っ込んでしまう。
墜落は避けられないと判断したマリナは、暴走した箒が突っ込む前にソラを抱えたまま自分から飛び降りると雨で湿った砂浜の上を丸まったままゴロゴロと転がった。
凄まじい衝撃にマリナが歯を食いしばりながら耐えていると、結局十メートル以上も転がってようやく止まったのだった。
「いたたた……」
マリナは全身の痛みに顔をしかめるが、大きな怪我を負う事もなくソラも守りきったので結果オーライだと思うことにする。
ただ、そのまま浜辺に突っ込んだ箒が真ん中からぽっきりと折れて使い物にならなくなっており、もはやただの木の棒と化してしまっていたのだ。
「ありがとう。私たちをここまで運んでくれて」
マリナは生命力を失いつつある箒と譲ってくれたエルフたちに感謝する。
おそらく最高の素材と職人によって製作されたこの箒だからこそ島まで無事辿り着くことができたのだろう。
(……ともかく、どこか休める場所を探さないと)
地面を踏みしめることに喜びを感じつつ、マリナはソラを背負いながら周辺を眺める。
砂浜のすぐ上は断崖になっており、その向こうには鬱蒼とした森が見えていたが、ソラを背負ったままでは登れそうにないので海沿いをしばらく歩くことにした。
それからしばらく激しい雨に打ちつけられながら海岸を歩いていると、左手にそびえていた高い壁が途切れる頃になって、前方にいくつもの船が折り重なるように座礁している異様な光景が見えてきたのである。
「すご……。一体何隻あるの?」
マリナは海岸線に沿うように長く続いている大量の難破船を呆然と眺める。
そこにはわりと新しい船から何百年も前とおぼしき古いものまで無数の船が無残な姿を晒しており、まさしく船の墓場ともいうべき様相を呈していたのだ。
(でも、これは使えるかも)
いまいち理解しがたい光景ではあったが、マリナはここなら雨風をしのいで休めそうだと難破船を物色し始めるのであった。