第8話
ソラたちは警備隊隊舎から啄木鳥亭へと戻ってきていた。
それからソラは、クロエたちを交え、マリナとアイラの買ってきた東方菓子を三時のおやつとして食べながら、しばし談笑するのだった。例によってマルクはマリナにからかわれていたが。
食べ終わった後は、夕食までめいめい休憩することになった。
ソラはこれからどうしようかと考えた。長旅で多少疲れている。汗もかいているので、さっそく温泉に入ることにした。
ソラは着替えと備え付けられていた清潔なタオルを持って、浴場へと向かった。
久しぶりの温泉である。前世から温泉好きであったので、楽しみにしていたのだ。
(今度はゆっくりと、何の用事もないときにまた来よう)
と、ソラは思うのだった。
女湯と書かれている扉の前まで来て、一瞬立ち止まるソラ。女に転生して十数年。いまだに躊躇してしまうのだった。
だが、ここで悩んでいても仕方がない。できるだけ人が少なければいいんだけど、とソラは思いつつ扉をくぐった。
脱衣場に入ると硫黄の匂いが強くなった。いくつか棚が並んでおり、そこに衣服を入れるための木で編まれた籠が置かれてあった。
ひとりの観光客とおぼしきお姉さんが、温泉からあがったばかりのようで、肌を火照らせながら服を着替えていたのでソラはどきっとしたが、あまり視界に入れないようにしてやり過ごす。
ソラはそのお姉さんから微妙に距離がある籠のひとつに服を脱ぎだした。転生してから間もないうちはまごついていたものの、今ではすっかり女性の下着の扱いも上手になってしまった。なんだか気持ちがへこみかけたが、いまさら男に戻れるわけでもないのだから、と気持ちを無理やり切り替えた。
ソラは全てを脱ぎ終えると、タオルを持って浴槽へと歩きはじめた。その真っ白な裸身に腰まである白い髪といい、まさに純白の少女であった。その空色の瞳だけが色を主張しているかのようだった。
なにやら着替えていたお姉さんが茫然と凝視してきていたので、ソラは恥ずかしい気持ちになったが、できるだけ平静なふりをして、足早に脱衣場と浴槽を隔てているしきりを開けて入った。
浴槽のある部屋へと入ると、むわっと湯けむりと熱気が押し寄せてきた。
浴場は床から浴槽まで年季の入った石で組まれていた。ちゃんと磨き抜かれていて、ぬめりはまったくない。周りを見ると、背の高い木の柵で囲まれていて、その上からボルツ山の上部が覗いていた。ところどころに観賞用の岩と潅木が配置されてある。広さもなかなかで、開放感のある露天風呂であった。
ホスリングの温泉は、ほとんどが源泉掛け流しという豪華な温泉なのである。その乳白色のにごり湯といいまさにソラ好みであった。
ソラはまず浴槽の縁に屈み込み、木でできた桶でお湯をすくってひと浴びした。わずかに白く色づいた湯がソラの肌を滑っていく。温度も少し熱めでちょうどよかった。
あ~幸せだなあ、とソラがほんわりとしていると、どこからか呼びかける声があった。
「……お嬢様?」
「……え?」
ソラが声のした方を見ると、浴槽の中にある岩にもたれるようにして、アイラが湯に浸かっていたのだった。
その岩と充満している湯けむりとで今まで気づかなかったらしい。
乳白色の湯にアイラの褐色の肌がよく映えていた。上気した頬にアイラの濡れた赤い髪が張り付いていて、湯に見え隠れしている胸元といい、実に艶かしかった。
「……ア、アイラも温泉に来てたんだ」
「はい。先ほどの仕合で少々汗をかきましたので」
「そ、そうだよね。うん」
ソラは微妙に目線を外して会話していた
それから、「あー、身体でも洗おうかな」と独り言のように言って、身体の向きを変えた。
すると、アイラが立ち上がりかけて言った。
「お嬢様、お手伝いしましょう」
ソラはそれを見て、慌ててアイラに背中を向けた。
「い、いや、いいよ! これくらい自分でできるし! それに今は冒険者として来てるわけで、そこまで気を遣わなくてもいいから!!」
ソラの声が浴室の中で大きく響いた。
それから、浴槽の左手にある洗面台の方へとぎくしゃくとした動きで、しかし素早く歩いていった。
洗面台の前に置いてある木製の椅子に座ってソラはふうと息をついた。
まさかアイラが入っていたとは。いや十分に予想できたことなんだけども、とソラは温泉の湯気にあてられて出たものとは別の汗をぬぐった。
今は女なので、別にナニかが反応するわけではないし、邪まな気持ちがあるわけではないのだが……、妙に気恥ずかしいのである。
(とりあえず、ここは平静さを保って切り抜けよう)
と、ソラは決意した。
ソラが洗面台の方を向くと、そこには凹状の形の長い木枠が各洗面台の前を横切るように設置されており、その中を温泉が流れていた。わざわざ浴槽にまで湯をすくいに行かなくてもいいようになっているのだ。ちなみにこれもソラが以前来たときに出したアイデアだ。
ソラはそこから湯をすくってまずは髪を洗うことにしたが、
(これがまた面倒なんだよなあ)
と、ソラは心の中でため息をついた。
ソラは前世の男だったときと同じように、大雑把に洗って流したいところなのだが、母親をはじめメイドたちが絶対に許してくれないのであった。
とにかく面倒な手順を踏まなければならないのだ。洗う前に髪を梳かすことから始まり、まず髪の隅々にまでお湯を濡らさないといけないだの、爪を立てることなく指の腹でマッサ-ジするように洗わないといけないだの……。風呂を出た後に、寝るときにまでル-ルがあり、項目にすると軽く十を超える注意事項があるのだ。正直うんざりするほどである。
特にソラは腰まで髪があるので尚のこと面倒なのだ。元男のソラとしては、こんなことに時間をかけるのがもったいなくて仕方がないのである。
ただ、少しでもさぼると、母のマリアが、「ソラちゃん……お手入れをさぼったわね……?」と、眼が笑っていない非常に恐ろしい笑顔を向けてくるのでさぼれないのだ。それこそ一日欠かしてもばれるのだから恐れ入る。
そもそも、ソラはここまで髪を伸ばしたくはなかったのだ。三年前ぐらい前までは、マリナと同じくらいのセミショートだったのだが……。十歳の頃に、武術の修行に一区切りがついてからは、母親の希望で髪を伸ばすように言われたのだった。さすがに腰辺りまで伸ばしたくないとしぶったのだが、母親はにっこり笑うばかりで聞く耳を持ったなかった。それに、この件に関してソラの味方はゼロであった。
ソラはもうあきらめの境地で、時間をかけて髪を洗うのだった。
洗い終わった後は、持ってきていた小さめのタオルで髪を包み込むようにして纏めた。これでひとまずは終了である。
ソラはやれやれと思いつつ、今度は身体を洗おうとすると、浴室の扉がぐわらっと勢いよく開いた。
「ちょっとー! 私だけ仲間はずれなんて酷いよー! 温泉に行くなら一声かけてよねっ!!」
マリナが身体にタオルを引っかけて入ってきたのだった。
ソラはうるさいやつが来たと思って、無視して身体を洗い始めるのだった。
非常に騒がしいが、そのさまは金髪の妖精と表現できた。少女から大人に成長しつつある真っ白で健康的な肢体は、何か妖しい魅力を醸し出しているかのようだった。
マリナはお湯を一度かぶると、「いやほーい!」と叫んで、浴槽へざぶ-んと入ったのだった。
「あー、生き返るねー」
「マリナ。そんな風に飛び込むのはマナー違反だよ。それに、身体を洗ってから入りなさい」
人心地ついた風のマリナにソラは注意した。
「今はお姉ちゃんとアイラしかいないんだから大丈夫でしょ。相変わらず細かいよね」
マリナはそう言うと、キラッと眼を光らせて、身体を洗っているソラの方を見た。
ソラはなにやら嫌な予感がした。
「――それはそうと、お姉さま。背中をお流ししましょう」
ソラが、「えっ!」と声をあげた直後には、すでにマリナは浴槽からあがり、ソラの背後まで来ていた。まさに早業であった。
「ちょ、マリナ!?」
「いいから、いいから。これも姉妹のスキンシップということで」
何がスキンシップだとソラは思ったが、マリナはソラが身体を洗うのに使っていたタオルをひょいっと取り、背中をこすりだした。
「そういえば、一緒にお風呂に入るのって久しぶりだねー」
「……まあね」
それも当然のことだ。十二になったマリナはだんだんと女性らしい体つきになってきているのだから。まだ幼い頃はともかく、一緒に入るのはいろいろと恥ずかしいのだ。なので、ここ数年は断固として一緒に入るのを拒んでいたソラなのだった。客観的に見れば、姉妹で風呂に入るのに別に問題はないのだが。
しばらくソラの背中をこすっていたマリナだったが。
「……それにしても、お姉ちゃんの肌は艶といい触り心地といい、たまんないよね」
「……は?」
背後から不穏な空気を感じるソラ。
ソラが振り向こうとすると、マリナの手がぴたりと止まった。
そして、いきなり大声で叫びはじめた。
「――というわけで、恒例のチェックタイム開始だ-!!」
マリナはそう叫ぶなり、がばっと背後からソラに抱きつき、前をまさぐってきたのだ。
「ひひゃあああ!?」
ソラの口からなんとも少女っぽい悲鳴が出た。
「ちょ、ちょっと! 何をやって……!? や、やめ……!」
「いやあ。お姉ちゃんの成長具合をチェックするのは、妹の義務ですから、はい」
そんなわけあるか! とソラはマリナを振り払おうとしたが、マリナは巧みに体勢を入れ替えていなすのだった。マリナも多少の体術をソラの東洋武術の師匠であるクオンから習っているのである。本来は武器を失ったときの対策なのだが。
(まさか、こんなことに使うとは……)
と、ソラは戦慄した。
「それにしても、こ、これは! まさにマシュマロ以上の感触ですな! よくぞここまで成長したね、お姉ちゃん!!」
お前はどこのスケベ親父だ! とソラは言うとしたが、もはや身体に力が入らなくなってきていた。それに背中に当たっている、それこそマシュマロのごとき感触に気が散ってしょうがない。
「……マ、マリナ……、ちょ……、やめ……」
もはや、息も絶え絶えの状態になっているソラ。
「んー? 何言ってるか分からないよ、お姉ちゃん? むふふふ」
さらに調子に乗るマリナ。
「……、……」
ソラの声も途切れ途切れで聞こえにくくなってきていた。
マリナが聞き返す。
「え? 何だってー?」
「……い」
「い?」
マリナが後ろから、ソラの口元に顔を近づけたそのとき。
「――いい加減に、せんかあああああああああ!!!!」
ソラが大声をあげながら、すっとマリナの額に指を突きつけ、思いっきりでこぴんを炸裂させたのだった。
ばちぃんっ、ともの凄い音が浴場に響き渡った。
「あ痛ぁっ!?」
マリナは額を押さえながら後ろへとのけぞった。
「ま、まったく、おまえというやつは……」
ソラはぜえぜえと荒い息をつきながら体勢を整える。去年も似たようなことがあったのだが、今回は久しぶりの温泉ということで油断してしまったのだ。
「うう。いたたた。ちょっとこれは酷いんじゃない、お姉ちゃん?」
マリナは赤くなった額に手を当てながら、文句を言っていた。
「自業自得でしょうが! 少しは反省しなさいっ!!」
ソラは身体にタオルを巻いて仁王立ちになり、完全にお説教モードに入った。
その説教は十分間続いたのであった。
「――申し訳ありませんでした。お姉さま……」
浴室に正座させられて、うなだれた様子で謝罪するマリナ。
それを見て少しボルテージが収まってきたソラはふとアイラのことを思い出した。
こういう時にこそ見てないで助けてくれればいいのに、と若干恨みがましくアイラの方を見た。
すると、アイラは浴槽の中で顔を真っ赤にして、あさっての方向を全力で見つめながら固まっているのであった。
※※※
ソラがようやくゆったりと温泉に入れた頃、ラルフは警備隊隊舎の自分の机で事務処理をしていた。明日ソラたちに同行することになったので、クレッグ隊長に溜まっていた書類関係を片付けておくようにと言われたのだ。
警備隊の隊員といえど、報告書や始末書やらと面倒なデスクワークがあるのだ。もっとも、これをもとに仕事に対する査定などが行われるので、さぼるわけにはいかないのだ。
なので、当然書式ミスや誤字脱字などは厳しくチェックされるのだが、ラルフは完全に上の空であった。
考えていたのは、さきほどのソラとのやり取りであった。
ラルフにとって恩人であり、目標でもある戦士――クオンがまさかソラの師匠であったとは。昔、クオンから話に聞いていた、これから武術を指南することになると言っていた女の子こそがソラであったのだ。
ソラがジャックを投げ飛ばした技は、まさにあのときクオンが見せてくれたものと全く同じであった。あれを見たとき、ラルフは思わず鳥肌が立ったぐらいだ。
なにか運命的なものを感じずにはいられないラルフであった。
「――ふう」
ラルフはひとつため息をつく。
ソラの物腰は十三とは思えないほど落ち着いていて、その深みのある雰囲気といい、どこかクオンのそれを想起させた。そして、あの技量。すでに達人級といっていいだろう。
ラルフはソラのことをクオンと同じように憧れの対象として見ているのだろう、と思った。
(……まあ、見惚れるほどきれいな少女だったけど)
とラルフはぼんやり思った。
それに、先刻に会話したときも思ったが、不思議な印象を感じる少女だった。
柔らかで丁寧な態度であり、穏やかな陽だまりを連想させる少女だったが、同時に凛々しく、さばさばとしており、しかしそれらが矛盾することなくソラという人間をカタチづくっている。
誰が見ても魅力的な少女だと思うだろう。思いを寄せる男もさぞ多いに違いない。ラルフのような一般人には遠すぎる存在である。
なんといってもエーデルベルグ家は、あの<至高の五家>のひとつなのだから。
<至高の五家>とは、大昔にエレミア国を建国した五人の偉大な大魔導士が始祖となった五つの家のことである。
この五人の大魔導士は、約三百年前、世界中を巻き込んだ大戦があったさいに、その戦を終結させ、のちにエレミア国を建国することになるので、建国の五英雄とも言われている。彼らは当時まだ低かった魔導士の地位向上に貢献し、そこまで注目されていなかった魔導、及び魔導技術を国を挙げて発展させたのだ。今日のエレミアの繁栄はそこに理由がある。
当時、五人の大魔導士のもとに多くの魔導士が集まって魔導都市エルシオンを建設した。魔導の才能が遺伝で決まる以上、多くの魔導士を擁する街が、その後も多くの魔導士を輩出するのは当然のことだ。その圧倒的な魔導士の数と、他国に先んじて魔導技術の開発に力を入れてきたエレミアは、今や世界に冠たる大国なのだ。
そして、その大国でもっとも大きい影響力を持っているのが、魔導における世界最高の名門でもある<至高の五家>なのだ。その直系の令嬢であるソラやマリナは、そこらの小国の姫君よりも格は上かもしれないのだった。
なので、十数年前に、ソラたちの父親で小さな田舎町出身のトーマスと、母親でエーデルベルグ家の令嬢であるマリアが結婚すると決まったときには、まさに世紀の逆玉だと世間を驚かせたのだった。いくら両家の親同士が知り合いだったとしてもだ。
「――はあ」
ラルフは再びため息を吐いた。
その近くでは、同じく書類仕事をしていた同僚たちがラルフのことで話し合っていた。
「なんでラルフがソラ様御一行に同行するんだ?」
「ああ、羨ましすぎるだろ。なぜにラルフなんだ!」
「……道で小石につまずいて、頭でも打てばいいのに」
多分に嫉妬などが含まれている会話だったが、ラルフの耳にはこれっぽっちも入ってはいなかった。
ラルフのその様は、まさに恋に悩む純朴な青年といった風だったが、当のラルフは鈍いのでまったく自分の気持ちに気づいていなかったのだった。
※※※
翌朝、太陽が昇り始めた頃、ソラたちは朝食をとってから警備隊隊舎の正門に集合していた。それぞれ、外出用の装備に、各種のアイテムが入った背嚢を背負っていた。
朝の始まりを告げる鐘が鳴り終わるぎりぎりに、ラルフがガチャガチャとやかましい音をたててやってきた。
「すみません! 少し遅れてしまって!」
ラルフは全身を覆う鎧に、頭には兜、左手に盾を装備していた。腰には長剣を刷いている。すべて鉄製できているらしく、まさに完全武装という出で立ちであった。
それを見てマリナは「おお、気合入ってるねー」と感心した様子で笑い、アイラが「貴様、ラルフとか言ったか。お嬢様たちの足を引っ張るんじゃないぞ」とラルフを威嚇していた。
ラルフはアイラが少し苦手らしく、「は、はい!」としゃちほこばって返事をしていた。
ソラはラルフに挨拶をすると、早速切り出した。
「まずはクロエお祖母さまが怪我をしたという場所に案内してくれますか?」
「りょ、了解です!」
一行は、見送りに来ていた心配顔のクレッグ隊長に挨拶してから、東門を目指して歩き始めた。
まだ朝早いにもかかわらず、観光客はどんどん町に訪れているようだった。
ソラたちが東門に差しかかろうとしたとき、腹の出たふくよかな体格の男が話しかけてきた。
「あなたたち、無事だったんですねえ! いやあ、良かった!」
「…………」
一同は一瞬沈黙したが、マリナがぽんと手を打って言った。
「ああ! ここに来る前に街道で会ったおじさん!」
それを聞いて、ソラも思い出した。ホスリングに来る途中、野盗たちと出くわした森の中を通る街道の手前で、この先は危険だから迂回したほうがいいと忠告してくれたおじさんなのだった。わりと大きめの馬車が二台と、手練とおぼしき護衛を十人ほど引き連れていたので印象に残っている。結構な金持ちなのは間違いないだろう。
「ははは、思い出してくれたようですね。別れた後、かなり心配してたんだけど安心しましたよ」
その太ったおじさんはふくよかな頬を揺らしながら喜んでいた。そのちょび髭に福耳といい、七福神の恵比寿を彷彿とさせる人物だった。
「もっとも、余計な心配だったかもしれませんけどね。聞くところによると、警備隊が来るまえに盗賊たちをのしちまってたって話じゃないですか。見た目はかわいらしいお嬢さんたちなのに、強いんですねえ」
「いえ。あのときはご親切に注意してくださってありがとうございます。心配をおかけしたようで申し訳ありませんでした」
ソラが丁寧に返礼した。
あのときは急いでいたというものあるが、そもそも馬車を使わずに歩いていたのは、旅は歩くことが基本で醍醐味でもあるとソラが考えているからなのだった。
「いやいや。問題がないなら別にいいですよ。あのエーデルベルグのご令嬢とその護衛の方なら納得ですしね」
「……もう、お耳に入っていましたか」
「町中、ご令嬢一行が野盗たちを撃退したって話でもきちりですよ。知らなかったんですか?」
それを聞いてやや肩を落とすソラ。ホスリングのような田舎町では情報の伝達はびっくりするぐらい速いのだ。一日経てば、観光客にすら伝わるのだった。
隣でラルフが苦笑していた。おそらく、クロエやオーレリアあたりは気を使ってくれていたのだろう。昨夜、夕食を一緒に食べたときも、そんな話は一度も出てこなかった。
マリナが「そういえば、昨日、土産物屋を巡っているときに、やたらじろじろ見られてたね」と面白そうに呟いていた。
「まあ、あなたたちは見た目からして目立ちますけどねえ」
と、おじさんは周りを見回した。
ソラもそっと窺う。
道を行く人のほとんどがソラたちをちらちらと見ながら通り過ぎていた。向かいにある土産物屋の軒下でおばさんたちがこちらを見ながらなにやら盛り上がっていて、その横では棒つきの飴を舐めている少年がぼけーっとソラたちを眺めていた。
そこでソラは視線を切った。ある意味、日常茶飯事のことなのだ。そういった視線は、空気と同じように扱うのが、気にしないですむコツなのだ。
「ああ、そういえば、自己紹介がまだでしたね。私はフォーチュン商会を営んでいるエイビスというものです。名前で呼んでくださって結構です。以後よろしくお願いします」
「フォーチュン商会?」
ソラはその名に聞き覚えがあった。主にエレミアから隣国までを手広く活動している商会だ。扱う商品の種類の豊富さには定評がある。
「確か、個人レベルでのオーダーも請け負うサービスが人気でしたよね」
ソラが思い出しながら訊く。今けっこう人気が出てきていたはずだ。
「お客さんひとりひとりの注文を聴いて商品を提供するのは割に合わんのですがね。物流網を徹底に見直して、効率化を進めた結果、なんとか実現できまして。最初は苦労しましたよ。軌道に乗ったのはわりと最近のことです」
それはそうだろう、とソラは思った。前世のように飛行機やトラックなどがあるわけではなく、主に荷馬車で運んでいるのだ。品にもよるが個人の注文ではとてもコストに見合わない。かといって値段に転化すれば誰も利用しないだろう。
そこでエイビス氏の眼がわずかに鋭くなった。
「――もっとも、その個人サービスを完成させることができたのも、ナルカミ商会さんの知恵をお借りしたお陰でもあるのですけどね」
ソラを見つめながら言うエイビス氏。
「…………」
「ナルカミ商会?」
沈黙するソラと首を傾げながら訊くラルフ。
少し考えていたラルフは「ああ」と思い出したような声をあげた。
「最近、エレミアで急速に成長している商会でしたね。エルシオンに本拠地を構えていて、立ち上げてから数年足らずにもかかわらず、今では世界中に活動の場を広げている凄い商会らしいですね。既存にないアイデアを次々と生み出しているのが、その強さの原動力だとか」
「成長率はここ百年でも一、二を争うらしいですよ。この商会の凄いところは、儲けが大きい魔導技術関連だけでなく、あらゆる分野に進出して、なおかつ成功しているところなんですよ。うちのサービスもナルカミ商店さんが始めた宅配サービスというのを参考にさせてもらったんです」
エイビス氏はここで言葉を一度切って、
「――ただ、ホスリングをはじめとしたここらの地域におけるシェアはウチが一番ですがね。更に活動領域を広げていくつもりですしね」
相変わらずソラを見ながら、声に少し力を込めて言ったのだった。
それからエイビス氏は、「では、何か御入用があれば、是非うちを利用してみてください」と恵比須顔をにっこりとさせて、去っていった。
ソラたちはエイビス氏を見送ると、また歩き出した。
マリナが隣りに並んできて、声を潜めて話しかけてきた。
(なんか、対抗心メラメラって感じだったね)
アイラも同じく小さな声で言ってきた。
(かなりやり手の商人のようですね。どうやら、ある程度情報を掴んでいるみたいですし)
(みたいだね)
ソラたち三人がひそひそと話している脇でラルフは、
「『ナルカミ』って東方の言葉っぽいですよねー」
と、呑気な感想を漏らしていたのだった。