第15話
「オスカー!!」
「…………」
ソラたちが聖樹のもとに辿り着いた時、先程まで一緒にいたはずの新聞記者はダモンの部下たち数人に囲まれながら根元が大きくえぐれた大木を普段と変わらない飄々とした態度で観察していた。
「これはどういうことだ!」
エルメラが再度怒鳴ると、ようやくオスカーはタバコを口から外しながら振り向いた。
「どうもこうも、見てのとおりだよ」
「ふざけるな! まさか、初めからダモンとグルだったのか!?」
肩をすくめるオスカーにエルメラが激怒しながら問い質すと、背後からダモンと二人の付き人も息を切らしながら走り込んできた。
「こ、これは一体?」
聖樹の惨状を見てダモンは唖然としていたがすぐに己の部下たちを発見する。
「お前たち! 勝手に消えたかと思えば、私の許可なく何をした!?」
こちらも大声で詰問するがダモンの部下たちは聖樹の前に佇んだまま反応を示さなかった。初めて会った時から無愛想な連中だったが今は完全なる無表情である。
(それにしてもこの臭いは……)
ソラは倒壊しても不思議ではないほど大きく損壊した聖樹の根元を観察する。
はじめは魔導で破壊されたのだと思っていたが魔力の余韻が全く感じられず、何らかの武器を使用したのだと推察されたが、辺りに漂うこの独特の臭いに覚えがあったのだ。
ソラが記憶を辿っていると、聖樹を眺めていたオスカーは懐から取り出した携帯用の灰皿にタバコを押し付けながら嘆息した。
「やれやれ。どうやらハズレみたいだな。結構期待してたんだが。――まあ、仕方ない。もうここに用はないし。撤収だ、撤収」
パンパンと手を叩く乾いた音が響くと、微動だにしなかったダモンの部下たちが下がり始め、その様子を見ていたダモンが呆然と呟いた。
「……馬鹿な。なぜグラムウェル枢機卿の部下がお前の指示に従う?」
動揺してついうっかりと漏らしたダモンの呟きを耳にしてソラは確信する。
この連中こそが聖樹の雫を運んでいたアルマたちを襲った武装集団で間違いなく、今のやり取りを見るに、もはやダモンから離れて枢機卿の命を実行するために動いているのだろう。
(こいつらの目的は分からないけど……)
とにかくオスカーを含め逃がすわけにはいかない、とソラが一歩踏み出そうとすると、
「貴様ら、まさか私から逃げられると思ってるんじゃないだろうな! 全員ボコボコにして何を企んでいるのか一切合財吐かせてやる!」
聖樹を傷つけられ、とうに激昂していたエルメラが強大な魔力を集中させて一瞬で風の精霊を呼び出すと、撤退しつつある敵に攻撃を加えんと命令を下した。
「行け! スズリ!」
すぐさま風獣が四肢をたわめて飛び掛ろうとしたが、下がりかけていた数人が懐に手を突っ込んで見覚えのある黒い塊を取り出して投げ放ってきたのだ。
「――!! エルメラさん、爆薬です!」
「何!?」
エルメラは目の前にばらまかれた黒い塊を無視してスズリをオスカーたちに突進させようとしていたが、ソラの言葉を聞くと慌てて踏み止まらせて前方に風の障壁を展開させた。
風獣の前に薄緑色の防壁が現れた瞬間、飛んできた十数個の爆薬が一斉に起動して激しい光と音を撒き散らす。
「!!」
風の障壁のおかげで衝撃こそ伝わってこないものの、それでも凄まじい破壊力にソラたちは思わず顔を手で覆い、背後ではダモンたちが悲鳴を上げる。
爆発の余韻が終わってからソラが顔を上げると、辺りには大量の煙が充満していて、まるで深い霧に覆われているような状態になっていた。投げられた黒い塊には煙幕を発生させるものも混ぜられていたようだ。
「ちっ! こんなもの!」
エルメラはスズリに風で煙を吹き飛ばすように指示を出そうとしたが、
「――おいおい、『双牙のエルメラ』さんよ。俺なんぞに構ってていいのか?」
煙で正確な居場所は分からないが、どこかからオスカーの声が響いてきたのだ。
「感覚を研ぎ澄ませてみれば気づくはずだ。状況はずっと深刻だということに。元々弱っていた聖樹が損傷を受けたことでその能力が消えかけてる。そうなるとどうなる?」
「……まさか」
急いで周囲を見渡しているエルメラの隣でソラも森の中の異変を感じ取っていた。
聖樹という抑えを失い、アルフヘイムの聖域にある巨大な気穴から大量の魔素が噴出し始め、それと同時に森のあちこちから魔の気配が急速に増加していたのだ。
「魔素の影響を受けた怪物たちが強制的に魔獣へと変化しているのか! だが、こんな異常な速度で進化するなど聞いたことがないし、大量発生した三十年前をも凌駕するほどの数だ! 一体どうなってる!?」
「それだけ強い魔素が溜まってたってことだろ。聖樹が弱体化していたのも単に気脈の活動期だけが原因じゃないってことさ」
また煙の向こうからオスカーが答え、ソラが気配を探る暇もなくセリフを続ける。
「ともかく呑気に会話している暇はないだろ。聖域はもはや邪気にまみれつつある不浄の地、急いでここから離れないと心身をやられちまう恐れもある。それに魔獣どもが向かう先がどこなのかアンタなら予想はつくはずだ。そんじゃあ、お二人さん。幸運を祈るぜ――」
そこで声が途切れ、スズリが煙を吹き飛ばした頃にはもうオスカーをはじめとした仲間たちの姿も忽然と消えていたのだった。
「エルメラさん。もしかして魔獣たちが向かう先って」
「ああ。最も近い人里であるフリント村だ。三十年前もそうだった。奴らはただの魔獣ではなく、魔素の影響を強く受けていて通常よりも攻撃衝動が強いんだ。急いで向かわないと村が壊滅してしまう」
魔獣は一流の冒険者でも倒すには危険が伴う強敵だ。これだけの数に襲われればどうなるか火を見るよりも明らかである。
「アルフヘイムの里はいいんですか? 同じくらいの距離ですけど」
「あいつらは必ず人の数が多い方を狙うんだ。それに守人をはじめとした精霊使いが里には大勢いるから問題ない」
エルメラがソラを引き上げながらスズリに搭乗すると、いまだ呆けたままのダモンたちを己の精霊と共に睨みつけた。
「ひっ! ま、待て! 本当に私は何も知らないんだ!」
二対の殺気がこもった瞳を向けられ、ダモンはへたり込みながら弁明する。
「……フン。結局、お前も聖域に入るために利用されたクチだろう。ゆっくりと尋問したい気分だが、そんなことをしている暇はない。とりあえず里まで全速力で逃げろ。でないと死ぬぞ」
エルメラはダモンを見下ろしながらそう告げると、もはや一顧だにせずにスズリを森の上空まで浮上させて、フリント村を目指すべく一気に加速した。
ソラは遠ざかっていく聖樹を振り返る。
「エルメラさん。聖樹はどうなるんでしょうか。まさか、このまま……」
「……分からん。だが、私たちはもちろん契約者であるジジイにも成す術はないだろう。本来なら契約者は聖樹に魔力を供給して支える役目も担っているが、ここまで弱体化すればどうしようもない」
気づけば聖域を囲んでいた結界も完全に消えていた。もう能力を維持できないほど生命力が枯渇しつつあり、エルメラもアルフヘイムの民が崇める聖樹の危機に何もできず内心は忸怩たる思いなのだろうが、今はフリント村の人間を救うことが最優先だとこうして全速力で向かっているのだ。
(――――)
聖樹の姿が次第に小さくなり、そして視界から消える直前、ソラはかすかな声を聞いた気がしたのだった。
※※※
ソラたちがフリント村の手前まで辿り着くと、上空から森の中を村目がけて押し寄せている魔獣たちを目撃した。
敵の第一波はすでに村と森との境界線に到達しようとしているが、村には何百人という村人に加え、エルフへの抗議活動で集まっている人間もたくさんいるのだ。
「こうなったら森を傷つけてしまうが仕方ない!」
魔獣たちが森から飛び出す前に一掃すべく、エルメラはスズリに大規模な攻撃を命じると、風獣は飛行しながら無数の風の塊を周囲に形作った。
それはさながら空中に浮かんだ巨大な鉄槌のようで、これらが同時に解き放たれれば魔獣といえど一瞬でミンチになりそうである。
しかし、風の鉄槌が下される寸前、ソラは前方に多数の魔力が集中していることに気づいた。
「待ってください、エルメラさん!」
「あれは……兄者たちか!?」
アルマを含めた多くのエルフたちが村を守るように一列に並んでおり、その前には具象化させた精霊たちが待機していたのだ。
その多くがスズリのように動物の形を模している精霊たちがずらっと整列している様は圧巻の一言である。
思わずソラたちが呆気に取られていると、エルフたちの先頭で指揮を執っていたアルマが手を振った。
「撃て!!」
その合図と共に精霊たちから一斉に炎や氷など様々な攻撃が放たれ、森から飛び出してきた魔獣たちへと雨あられのように降り注ぐ。
「――っ!!」
それらは色とりどりの美しい軌跡を描いたが、魔獣たちに着弾した途端に凄まじい破壊を起こしてソラは咄嗟に目を閉じた。風の障壁越しにも魔力の余波が肌を刺すのを感じる。
しばらくして目を開けると、村の前には大きなクレーターがいくつもできており、魔獣の姿は痕跡すら残っていなかった。
まさに滅殺と呼ぶに相応しい威力であったが、上空から観察してみても村と森には一切の被害がなく、あれだけの破壊力だったにも関わらず完全に攻撃を制御していたことが分かる。
彼らが力を合わせれば一国の軍隊とも互角以上に渡り合えそうだ。
とりあえず魔獣の第一波を退けた隙にエルメラはスズリをアルマの近くに着地させた。
「兄者、どうしてここにいるんだ! よく見れば守人だけでなく精霊を扱えるものがほとんど来てるし、里の防衛はどうなってる! それと村人たちは無事なのか!」
「一度にいくつも質問するな。おおよその事情は把握している。全ての魔獣がこちらに向かっているのは確認済みだし、里には最低限の守りを置いている。村の住人と居合わせた人間たちも家屋に避難している。……それから、あらかじめ我々に村の守護をせよと命じたのは長老だ」
「聖樹が機能を停止してから向かったのでは間に合わなかったはず。ということはその前から村に到着していたことになる。……まさか、ジジイはこの事態を予見していたのか?」
「私に訊くな。お前たちが出発した後ほどなくして我々に命じられたのだ。聖樹の契約者たる祖父殿なら予想していてもおかしくはないのだろうが」
アルマの説明にエルメラは納得していない様子だったが、ともかく目前の危機に集中することにしたようだ。
「その件については後でジジイを問い詰めるとしよう。それより奴らはまだまだ来るぞ。後ろは兄者たちに任せていいんだな?」
「フン。元々それがお前の仕事だろう。今回も我々が防衛線を張っておくから心置きなく暴れるがいい」
「言われるまでもない。小賢しい策略やら陰謀だので少々鬱憤が溜まっていたんだ。久々に全開でやらせてもらう。ソラ君、危ないから防衛線の内側に避難しているんだ」
そう言ってエルメラは壮絶な笑顔を浮かべると、ローブがはためくほどの魔力を体内から放出し、主の膨大な魔力供給を受けたスズリも呼応するようにその体躯から猛烈な風を発生させ天を突くような凶暴な鳴き声を轟かせた。
「来るぞ!」
森から続々と飛び出してきた魔獣の第二波にアルマが警告の声を上げると、緑色のオーラを全身から立ち昇らせたエルメラは眼前の敵を見据え高らかに指示を下す。
「さあ、スズリ。愚かな魔獣どもを蹂躙してこい!!」
命が下されるや白い虎を取り巻く剛風が一層強さを増し、次の瞬間には地面に小さな爪痕だけを残して姿が消えていたのだった。
ソラが驚きに目を見開くよりも早く、白刃のごとき残像を残しながら一瞬で魔獣たちを突き破るように屠ったスズリはあっという間に防衛線の端まで移動して急ブレーキをかけた。
風獣が駆け抜けた後には地面が一直線に勢いよくめくれ、少し遅れて猛烈な衝撃波が吹き荒れる。
(速い……!)
かろうじてソラも感覚で気配だけは追っていたものの目では全くついていけなかった。
煩雑な手順を必要とする魔導とは違い、契約者の意志が精霊へと伝わるだけで即座にこれだけの破壊力を導き出せる精霊術は『魔法』をのぞけば最強の技なのかもしれない。
続けてスズリは身体の周囲に壮絶な魔力がこもったカマイタチをいくつも発生させると、上空には先程放とうとしていた風の鉄槌が生み出し、それらを同時に残りの魔獣たちへ放つとアルマたちの一斉攻撃にも引けを取らない大破壊が起こった。
余韻が収まると周囲の地形は悲惨なことになっており、二十匹以上いた魔獣たちはたった一体の精霊によってあっという間に全滅したのだった。
しかし、休む間もなく次の波が押し寄せるのをソラは察知した。
これまでで最大の群れで、突出しているエルメラを押し包むように襲おうとしている。
「援護しないと!」
「まだ大丈夫だ」
流石にひとりではカバーしきれないだろうとソラも魔導を構築しようとしたがアルマに止められる。
「あいつの真価はこんなものじゃない。よく見ておくといい」
平静さを全く崩さないアルマを見てソラも動きを止めると、怒涛の勢いで迫る魔獣たちを前にしてもエルメラは落ち着いたまま再び魔力を集中させていたのだ。
「さあ、いい感じに盛り上がってきたことだし、お前も加わるといい」
エルメラがそう呟くと、主の左前に立ちはだかっていたスズリの隣にぼんやりともうひとつの巨大なシルエットが徐々に浮かび上がってくるのが見えたのである。
「私が知る限り、二体の精霊と契約した唯一にして規格外のエルフ族、それがエルメラだ」
アルマが言い終わるやいなや、アルフヘイム最強の精霊使いが使役するもう一体の精霊――夜色のスマートな体躯に神秘的な紫色の瞳を輝かせた狼がスズリの隣に顕現したのだ。
濡れたような美しい毛並みを持つ黒い狼は押し寄せる魔獣たちを睨むとその瞳と身体に電撃を走らせる。
「よく来たな、アトラ。そういえばお前たちが揃って戦うのは三十年ぶりか。――フフフ。獲物は山ほどいる。存分に喰い破ってこい!!」
契約者の獰猛な命令を二体の精霊は即座に実行へと移した。
白い虎が強烈な暴風で主に襲い掛かろうとしていた魔獣たちを一気に吹き飛ばすと、間髪を入れずに黒い狼がその身に紫電を纏わせ、敵に態勢を立て直す隙を与えずに閃光とともに貫いていったのだ。
魔獣たちを次々に身体の内側から破裂させたアトラは空気を焦がしながら主の下へと戻る。先程のスズリをも超える速度でまさしく電光石火のごとき動きであった。
その後はエルメラたちの独壇場となり、縦横無尽に駆け回る白と黒の共演に見守っていたエルフたちや窓から恐る恐る状況を確認していた村人たちから大きな歓声が上がる。
「だが、大雑把なところは相変わらずだな。撃ち漏らしは私たちで対処するぞ」
魔獣の何体かがエルメラを迂回して防衛線に接近してくるのを見て、アルマは並んだエルフたちに連携して突破を阻止するよう指示を下すと、自身の契約精霊らしい高貴さを漂わせる黄金の角を持った牡鹿に命を下し、地面から牙のように土を隆起させて魔獣たちを磔にした。
「<氷の槍>!!」
ソラもエルフたちに混じって魔導を放つ。
大半はエルメラが撃退しているものの、敵はまるで底無しのように次から次へと沸いて出てきており、二体の強力な精霊を扱うとはいえ流石にひとりでは処理しきれなくなっているのだ。
しかも、最初は真正面から突進してきていた魔獣たちも段々と広範囲に散らばるようになり、緊密に構築されていた防衛線が間延びし始めていた。
「アルマさん! このままだと村に入り込まれるのも時間の問題ですよ!」
「ああ、キリがない! 一匹でも取りこぼせば犠牲者が出てしまう!」
「援軍はないんですか?」
「ロアンに伝令を走らせてある。共和国軍がこちらに向かっているはずだが到着にはまだ時間がかかるだろう」
さしものアルマもその表情にはやや焦りの色があった。
魔獣は一般的な怪物よりも知能が高く、時間が経つほどその動きが予測しにくくなる。最悪の場合は他の人里に向かう可能性もあり、その場合ソラたちだけでは到底手が回らず、純粋に人手が足りないのだ。
「とはいえ、魔獣相手に半端な冒険者や魔導士はかえって邪魔になるだけだ。やはり正規軍が来るまで持ち堪えるしか――」
アルマがそう言いかけた時だった。
突如、蛇型の魔獣が地面を突き破って防衛線の内側に姿を現したのである。
ソラたちが目の前の相手に集中している間に地中を移動したようだ。
「ひいっ!?」
それも運悪く建物の影から様子を窺っていたらしい男たちのすぐ側であった。
身なりからして村の住人ではなくデモの参加者のようだ。
「あれほど出てくるなと忠告したのに!」
アルマが舌打ちしながら精霊を移動させ、ソラも急いで魔導を準備するが、魔獣が長い身体をくねらせて素早く男たちに接近する方が早かった。
魔獣が黄色い目を細め、恐怖に顔を歪めている男に毒で濡れている凶悪な牙を喰いこませようとする寸前、村の奥から回転しながら飛来してきた二つの光る物体がその顔面を強かに打って阻止したのだ。
突然の出来事にソラが動きを止めていると、今度は非常に聞き覚えのある声が空から降ってきた。
「――でええええええいっ!!」
元気のいいかけ声とともに近くの建物から飛び降りてきたらしい声の主は、両手で持った幅のある巨大な剣を落下の勢いをも利用しておもいっきり魔獣へと振り下ろす。
『――――!!』
顔を上げて驚く魔獣を有無を言わせず真っ二つにして絶命させると、その小柄な人物は金髪を揺らしながら笑顔で振り向いたのだった。
「やっほー! お姉ちゃん!」
「マリナ!?」
ソラは遠い街で病に臥せっていたはずの妹がいきなり現れたことに大きく目を見開いて愕然としたが、当のマリナは姉の心中などお構いなしに尻餅をついて震えていた男たちを避難させてから軽快な足取りで歩み寄ってきた。
「何か凄いことになってるね。お姉ちゃんの事だから大変な目に遭ってるんじゃないかと思ってたけど予想通りだったよ!」
そう笑いかけてきた妹の姿に放心状態だったソラはようやく起動する。
「何であんたがここにいるの!! もしかして病院を抜け出してきたの!? 本気でシバくよ!!」
「お姉ちゃん、とりあえず落ち着い――むぎゃあっ!!」
怒り心頭のソラが悲鳴を上げるマリナの両頬を引っ張っていると、背後から双剣を回収したアイラが慌てて駆け寄ってきた。
「お、お待ちください、ソラお嬢様! マリナお嬢様はすでに完治されているのです!」
「……完治って、聖樹の雫もないのにこんなに早く治るわけないよ」
半信半疑のソラがぽつりと言うとアイラが説明してくれた。
それによると、四日前にマリナの病室に配送業者を通して聖樹の雫が入ったビンが唐突に送られてきたのだという。ただ、差出人の名前はなく、添えられていた紙に短く『聖樹の雫』とだけ書かれてあったのだそうだ。ちなみにかなりの達筆だったらしい。
「そんな怪しげな物を口に入れたの?」
「私もお止めしたのですが……。ともかく、そのビンのお陰でマリナお嬢様の体調がみるみる回復し、診断した医者も間違いなく本物だと驚いていました」
ソラは改めて涙目になっている妹をじっくりと観察する。
確かに病人特有の血の気が引いた顔色は健康さを取り戻しており、違和感のあった体内の魔力も元に戻っているようだった。むしろ以前よりも生命力に満ちている気もする。
「う~ん。どうやら本当に治ってるみたいだね。でも、一体誰が……」
そのままソラが考え込んでいると、痛みが限界を超えたらしいマリナがジタバタと暴れ始めたので、引っ張ったままだった頬を離した。
「ちょっとお姉ちゃん! 急いで駆けつけたのにこれは酷いよ!」
「あんたねえ、いくら完治したとしても、しばらくは安静にしておくものでしょうが」
ほっぺたを押さえながら文句を言う妹にソラが呆れていると、アイラが責任を感じているような表情になった。
おそらくマリナが真面目な彼女を言いくるめてここまで来たに違いない。
(……でも、安心したよ。本当に)
とりあえず最大の心配事が払拭されてソラは心底安堵したが、残念ながら再開を喜び合っている余裕はないのだ。
急いで戦線に復帰しようとしたが、それよりも早く何者かが飛び込んできてマリナを抱きしめた。
「マリナ! 会いたかったぞ!」
「にゃはは。エルメラさんも相変わらずだね」
最前線で暴れまわっていたはずのエルメラが目敏く嗅ぎ付けてきたのである。
自身の扱う精霊にも劣らぬ素早さでアイラも呆れ気味に眺めていた。
「エルメラ! 持ち場を離れるな!」
急に現れた妹を見てアルマが怒鳴っていたが、本人は魔獣よりもこちらの方が大事だと言わんばかりに華麗に無視した。
「ふむふむ。事情はいまひとつ分からんがもとの元気でかわゆいマリナに戻ってるじゃないか! しかも雫の効果か前よりも肌艶が良くなっているな」
エルメラが言うには聖樹の雫はアルフヘイム病を治癒するだけでなく、元々魔力が豊富に込められているので栄養剤のような効力もあるらしかった。
「どうりでいつもより気力が漲ってる気がしたんだよね。魔力が千ミリグラムくらい入ってたのかな?」
マリナは姉にしか分からないネタを呟きながらひとり納得していたが、そのセリフを何気なく聞いていたソラにはふと思いついたことがあった。
「……あの、アルマさん。長老は聖樹に魔力供給を行っていて、いざというときの安全弁のような役割もあるんですよね。じゃあ、回復に必要なだけの魔力を分け与えれば元通りになるんですか? エルメラさんの話だと損傷が酷すぎてどうしようもないようですけど」
「聖樹は私たちが扱う精霊とは違い、実体を持っていることもあって自己修復能力に長けている。言い方は悪いが長老は備品のようなものだ。だから君の言う方法で聖樹を復活させることができるだろうが、それは契約者たる長老にしかできないことだし、おそらくエルメラの魔力をもってしても不可能だろう」
「そうだな。仮に私が契約者だったとしても、もはや打つ手がないほど聖樹は傷ついてしまった」
アルマとエルメラは力なく首を振る。
「でも、このまま放置していたら聖樹は死んでしまいます。魔獣の発生だっていつまで続くか分からないし、アルフヘイム病も更に拡大してしまうかもしれない」
もし聖樹を失うことになれば、最悪この地は人が住めなくなってしまうかもしれないのだ。
「しかし、我々にはもうどうしようもない。私だって助けられるものならどんなことでもするが……」
「それなら私に任せてもらえませんか? もしかしたら聖樹を助けることができるかもしれません」
「……契約者でもなく、ましてエルフですらない君が?」
アルマはソラの言葉に唖然としていたが、逆にエルメラは愉快そうに笑った。
「ハハハハ! そこまで言うなら私がソラ君を聖樹のもとに送り届けよう。いいな、兄者」
「魔導士とはいえただの人間にできることがあるとは思えんが……何か考えがあるというなら賭けてみよう。ここは私たちが支えるから行ってくるがいい」
アルマが己の精霊を再び防衛線に移動させながら頷くと、
「私たちも頑張っちゃうよー!」
「お任せください、ソラお嬢様」
マリナとアイラもそれぞれの武器を構えてソラに頼もしい笑顔を向けた。
「スズリ! アトラ!」
エルメラが呼び寄せた白い虎に二人で乗り込み、その脇に漆黒の狼が守護するように寄り添う。
「――今だ! 行け!」
アルマが精霊に命じ、防衛線に沿うように巨大な土の壁を出現させて一時的に魔獣たちを阻むと、ソラたちを乗せたスズリは聖樹に向けて勢いよく飛び立ったのだった。