完結
眩しいような、眩しくないような、白と黒と明と暗が混ざったような視界。自分の身体がどこにあるのかもはっきりしないくらい、頭がぼんやりしている。
「気がついたみたいだ」
「大丈夫?どこか痛くない?」
「サンタを呼んでこよう」
遠くで、人の声がする。肩を誰かに揺すられているから、もしかしたら、遠くから聞こえているようで、すぐ近くにいるのかもしれない。そんなこともわからないくらい、意識がはっきりしていない。誰の声だろう。知っているような、知らないような。サンタを呼んでくるとか、なんとか。サンタって言うのは、あのサンタだろうか。クリスマスの。なんて夢見がちな人たちなんだろう。サンタクロースなんて、本当は存在しないのに。いや、クリスマスの時期になると、駅前でティッシュをくれるお兄さんはサンタクロースだ。ピザのデリバリーもサンタクロースだし、コンビニの店員さんだってサンタクロースだ。
サンタクロースは実在する。そういえば、たしかにそうだった。でも、それは、イベントごとの衣装にすぎない。絵本や映画に出てくるようなサンタクロースは、やっぱり存在しない。人間は空を飛べないし、ワープもできないし、トゲの生えた怪獣と戦ったりもしない。サンタクロースなんて、本当は……。
「サンタさん!?」
そんなサンタクロースが実在することを私は知っていた。あまりにも寝起きすぎて、頭が混乱していたみたいだ。
目を開けて、どこかに寝そべっていた身体を起こす。
「サンタさんは?」
周りを見回し、すぐ近くにある見知った顔に尋ねる。姫ちゃんだ。さっきまで一緒に中国にいた。私は中国の鳥の巣ドームにいて、そのなかにあるパソコンとモニターだらけの広い部屋で気を失ったはず。けれど、いま私がいる場所はそこではない。しかし、見覚えはあった。何時間か前に、私はサンタさんとここに来ている。
メキシコにある小さなカフェだ。
数時間前、私とサンタさんはアカプルコのビーチから小さな島にワープして、森林のなかを歩き、無人のカフェを発見した。それがここだ。そのあと、いきなり銃を突き付けてきた鴻嶋卿徒とともに異世界の東京に飛ばされて、スカイツリーに登って、サンタさんが助けにきてくれて中国へ。そこで幻獣と戦ったのだ。
「あぁ……」
サンタさんなら、いま鴻嶋が探しに行っていると言う姫ちゃんに頷き、深くため息をついた。思い返してみれば、今日はわけの分からないことが多かった。早朝に叩き起こされて、メキシコにきて、東京、中国、そしてまたメキシコ。もう、いつどこで何をしたのか思い出せないくらいごちゃごちゃした一日だった。カフェの窓から見える景色は、そろそろ紫色に染まりつつある。メキシコの太陽が沈んでいっている。そんな時間だ。
「はい、これ」
姫ちゃんが、茶色い液体の入った冷たいグラスを手渡してくる。飲んでみると、不思議な香りが鼻に抜けるお茶だった。
「ありがとう」
姫ちゃんの方を見ると、その背後に人が立っていることに気づく。カフェのカウンターに、初老の男性がいた。おじさんは私と目があうと、笑顔で片手をあげた。私と姫ちゃんの周囲にもちらほら人間がいて、興味深そうにこちらを見ている。なんだか、久しぶりにこんなにたくさんの人間を見た気がする。
さっきまで、人っ子ひとりいない異世界にいたもんだから……。
「あれぇ?」
我ながら間抜けな声が出たと思う。姫ちゃんが笑顔で首を傾げる。
「ここ、どこ?」
「ロケタ島だよ」
私の疑問に、姫ちゃんは笑顔のまま答えた。ロケタ島というのは、この島の名前なんだろう。初めて知った。けれど、私が知りたいのはそういうことじゃない。
「あ、うん。ごめんね、そうじゃなくてぇ……」
手に持ったままのグラスを、座っているすぐ隣に置く。いま気づいたけれど、私が寝かされていたのはカフェのテーブルのようだ。はしたないことこの上ない。私は急いでテーブルから降りた。
「ここ、ちゃんとしたところ?」
なんと言ったらいいのか、うまく言葉が出てこない。姫ちゃんはまた首を傾げている。
「なんていうのかな、その……」
ここは、さっきまで私たちがいた東京、中国と同じ異世界なのか、それとも、私たちがもともと暮らしていた世界のメキシコなのか。それだけのことが口から出てこなくて唸っていると、カフェの入り口から陽気な声が飛び込んできた。
「その通り!戻ってきたよ!」
入り口に目をやると、そこには満面の笑みのサンタさん。楽しそうに歩きながら、カウンターのおじさんとハイタッチしている。
「もう、全部ちゃんと解決したから!みんなで元の世界に帰ってきたのです!」
彼が私の方に歩いてくると、そのあとに続くように、カフェの入り口から覗く顔があった。鴻嶋だ。
鴻嶋はカウンターのおじさんからグラスを受け取り、聞き慣れないアクセントの言葉でなにやら会話している。
「私の卿徒くんはメキシコ語も喋れちゃうのです」
私が鴻嶋の方を見ているのに気づいたのか、姫ちゃんが嬉しそうに耳打ちしてきた。
「スペイン語だよ」
隣にやってきたサンタさんが笑顔で訂正する。それから、私を見て言った。
「大変な一日だったね」
「本当に」
大いに同意だ。今日は人生でもトップクラスのごちゃごちゃした一日だった。こんなこと、滅多にあるものではない。金字塔だ。
「怖かった?」
サンタさんが尋ねてくる。まだ笑顔だけれど、少し緊張しているような雰囲気だ。きっと、姫ちゃんは気づいていないくらいの変化だろう。
「もうこんな体験したくない?こんな危ない目にあうのはもう嫌だって感じ?」
「うーん」
死にかけた(というか、ほとんど死んだ)のだから、振り返ってみれば、やはり少しは恐怖もある。気がついたら異世界にいたり、誰もいない都市を走り回ったりして、混乱したし、慌てたりもした。けれど、なんとなく余裕があったのも事実だ。それはきっと、サンタさんがなんとかしてくれるだろう、という思いがあったから。
「今日ね、サンタさんと一緒にこの島にきたときから、ずっと夢でも見てたみたい」
サンタさんがワープしたり、サンタさんとワープしたり、テレパシーで会話したり。変な怪獣が暴れてたりもした。本当に、不思議な一日だった。けれど、たしかに充実していた。
「楽しかったよ。エキサイティングで、スリルあったし、サンタさんのおかげて死ななかったしね」
「それじゃあ、またこういうことがあってもいい?」
「うーん」
サンタさんの問いかけに、少し笑いながら首を傾げる。重要な選択を迫られているような、それなのに、答えは決まっているような、おかしな感覚だ。
「危なくなったらサンタさんが守ってくれる?」
「それは、もちろん」
「じゃあ、いいよ」
そう答えると、サンタさんも笑って頷いた。
「じゃあ、僕はずっと君のところにいるよ」
お金の心配もしなくていいし、ずっと退屈させない。彼がそう言うと、姫ちゃんは目を丸くして口に手をあてた。
「姫ちゃん、決定的な瞬間を見てしまいました!プロポーズ的な!」
「君はあっちに行っていたまえ」
「あれ、足が、足が勝手に!」
姫ちゃんが叫びながら鴻嶋の方へ歩いていく。意思とは関係なく、足が勝手に動いてしまうようだ。不思議なこともあるもんだ。そう思ってサンタさんの顔を見上げると、彼は楽しそうに笑った。
「あれくらい朝飯前だよ」
それから、サンタさんの仕事について話をしてくれた。私たちの世界に逃げ出した幻獣を捕まえるために、こちらへやってきたこと。こちらの世界で活動するための協力者として、無作為に選ばれたのが私だったこと。なんと、心優しい人間の一覧から選ばれたんだとか。少し笑ってしまった。
「私、心優しい人間かな?」
「ものすごく心優しい人間だよ」
すると、サンタさんはちょっとだけ真面目な顔になった。
「君は、僕たちの都合で勝手に協力させられているんだ。だから、死ぬまで生活に困らないくらいの援助があるし、あまりに無理難題でない限り希望も叶えられる」
「うん」
無理難題な希望とはなんだろうか。世界征服とかかな?なんてことを考えていると、サンタさんが私の手を握った。
「僕たちのせいで、もう一生ふつうの人生は送れない。本当にひどいことをしてるんだ。だから僕は、君に楽しんでもらいたくて、幻獣が現れるところに連れていったりした」
中国で、彼は私に「滅多にない体験をさせてあげたかった」と言った。嘘はないようだけれど、理由はやっぱり複雑だった。
「ふつうに生きられない代わりにってこと?」
サンタさんは真面目な表情のままゆっくり頷く。なんだか、同情されているということだろうか。
「こんな失礼な話、どうしてもできなかった」
失礼な話。
たしかに、そうかもしれない。けれど、どうにも不快になりきれないのは、サンタさんの人柄のせいなのか、本当に不思議な体験をした直後だからなのか。
それとも、彼に握られている手のせいなのか。
よくわからないけれど、たぶん、なんとなくではなく、嫌な気分ではなかった。
「サンタさん、守ってくれるんでしょう?」
「うん」
握った手がほどかれて、優しく指が絡まっていく。そこから、少しずつ身体が温かくなってきた。
「じゃあ、つぎの幻獣を捕まえるときにも、連れてってよ」
手から伝わる熱が、頭のなかにも広がっていく。脈打つごとに、じんわりと広がる熱が、私の喉元に言葉を押し上げてくる。
「……の、える?」
ノエル。それが、サンタさんの名前。そういえば、いままで名前を尋ねたことがなかったな、と思い出す。
「ノエル」
知らないはずの名前が、勝手に口をついて出てきた。今さら、それくらいのことでは驚かない。
「名前を呼ばれるのって不思議な感じだね、真緒」
サンタさんも私の名前を呼んで微笑む。
「これからは、一緒に幻獣を捕まえよう。僕がずっと守るから」
―――
今回の騒動は、ようやく終了した。異世界の鳥の巣ドームで幻獣を仕留めた直後、僕たちはすぐにもとの世界へと帰された。気がついたらメキシコにいたのだ。やはり、僕の読みは正しかった。あの世界の親玉である幻獣を始末したら、自動的に帰されるようになっていたのだ。
メキシコに戻ってきて、僕たち四人の他にも幻獣によって異世界へ飛ばされた人たちがきちんと戻ってきているか確認した。他の人たちもいろいろと冒険させられるハメになったようで、軽い怪我人も何人かいたけれど、非常に幸いなことに死者はなかった。それから、カフェの前で完全に大人しくなっている幻獣を転送クロスでさっさと故郷に送り返し、今回のロケタ島幻獣大暴れ事件(姫ちゃんのセンス)は幕を下ろす。
ところで、ロケタ島のカフェの皆様は本当にいい人たちだった。今回の事件について、説明できるところは説明して、できないところは隠して、世の中に混乱が起きないような情報をみんなの頭のなかに伝えると、彼らはすんなりと納得してくれた。そして、信じられないくらい美味しくて豪華な食事をご馳走してくれて、ついつい日付が変わる時間までみんなで宴会をしてしまった。笑顔で別れるとき、僕はみんなの記憶を少しだけいじらせてもらったけれど、宴会の楽しい記憶は完璧に残しておいた。
それからすぐに、僕たち四人は日本に戻る。転送クロスで一発だ。戻った日本は夕方の三時ごろ。忘れかけていたけれど、まだまだ寒い二月なので、女性陣ふたりは泣きそうな顔をしている。
「めっちゃくちゃ寒いんですけども……」
「やば、真夏の格好してるじゃん、私たち……」
この姿で街を歩くのは異様だし、なにより寒いので、僕と鴻嶋による協議の結果、鴻嶋たちの活動拠点にいちどみんなを転送することになった。鴻嶋はなるべく拠点を明かしたくないみたいだったけれど、僕に対してそのような秘密なんてものが無意味だと分かっているのだろう、あっさりと場所を教えてくれた。
彼らの活動拠点。それは、ふつうのマンションの一室にあった。ごくふつうのマンションに、鴻嶋と、姫ちゃんと、姫ちゃんの姉の三人で暮らしているらしい。
「ただいまー!」
いきなり部屋のなかに現れた姫ちゃんと鴻嶋、それから得体の知れない初対面のふたり組。その異様な光景に眉ひとつ動かさず、ひとりの女性がデスクチェアに脚を組んで座っていた。
姫ちゃんをそのまま落ち着かせたような、大人になった姫ちゃんというか、とにかく、姫ちゃんのお姉さんだと言うのがひと目で分かるその女性は、伏し目がちな顔を気だるそうにあげて、ため息をついて立ち上がった。顔は似ているけれど、やはり姫ちゃんよりも全体的に成長している。特に、背中まで伸びた真っ黒な髪の毛が姫ちゃんとの大きな違いである。
「おかえりなさい、卿徒」
彼女はゆっくりと真っ直ぐ鴻嶋に歩み寄り、なんの迷いもなく手を振り上げた。彼が難なくその手を掴むと、またため息をつく。
「こういうときは大人しく殴られろって、前に言ったわよね」
鴻嶋の手を振り払い、彼女はデスクチェアに戻って煙草に火をつける。甘い香りのする、珍しい煙草だ。
「どこで何をしていたのか、報告書に詳しく記入しなさい」
姫ちゃんと鴻嶋にそう伝えた彼女は、僕と視線を合わせると、目を細めて言った。
「あなた、人の転送ができるのね」
「え、ああ、はい、まあ……」
彼女はずっと眠たそうに瞼を半分くらいおろしている。それと、低い声でゆっくりと喋るので、僕といえども圧力を感じて萎縮してしまうくらいの存在感があった。
「道具は?」
「これを」
僕は彼女に近づいて、転送クロスを手渡す。
「なにこれ、こんなもので転送するの?」
「そうです。まあ、僕ひとりだけなら道具を使わなくてもスイスイですけどね」
彼女が、鴻嶋と一緒に物質の転送について研究していることは知っている。彼の記憶を覗いたからだ。僕たちは子どもの頃から転送ができて当然だけれど、人間はそうでもないらしい。
「そう……あなた、人間じゃないのね」
彼女はそれだけ呟いて、僕に転送クロスを返してきた。姫ちゃんみたいな顔であまりにテンションが低いので、なんだか調子が狂ってしまう。この人はきっと、生まれてくるときに喜怒哀楽を母親のお腹のなかに置いてきたに違いない。姫ちゃんがやたらと元気なのもそのためだ。ふたり分の感情をもって生まれてきたのだ。
なんだか、この部屋にいては彼女のローテンションに呑み込まれてしまいそうな気がしたので、僕たちは早めに辞去することにした。
「どこまで書いていい?」
鴻嶋が言う。報告書に記入する内容のことだろう。幻獣だの、別の世界だの、サンタさんだの、おかしなことばかりだったから、何をどう書くべきかわからないみたいだ。
「全部書いたらいいよ。秘密にすることなんてない」
「そうか」
またどこかで会うことがあったら、そのときはよろしく。そういって、ふたりで握手。彼は僕に優しく微笑んでいて、姫ちゃんのお姉さんがその顔をじっと見つめていた。
「また会おうね」
「元気でね!」
たった一日だけ一緒に行動した四人だけれど、もう何年も付き合いがあるように錯覚してしまう。鴻嶋は面白い男だし、姫ちゃんは可愛らしい。そして姫ちゃんのお姉さん、中ノ瀬霞は、びっくりするくらい予測不可能なひとだ。
「楽しかったよ、またね」
僕たちは、手を振って転送クロスを被った。きっとまた、どこかで鉢合わせるだろう。そんな気がする。そのときは、また一緒に幻獣を捕まえるのか、それとも、普通の会話をするのか。もしかしたら、もっと別のことで会うのかもしれない。
いまから、次に会うときが楽しみだ。
―――
私の部屋に帰ってきた。
今朝、ここを出ていったばかりなのに、数日ぶりな気がしてしまうのは、あまりに一日が長かったからだろう。私はシャワーを浴びて、そのあいだに暖房が効いてきた部屋の暖かい布団に飛び込んだ。
「もう眠たぁい」
今日は疲れた。まだ太陽だって沈んではいないけれど、このまま眠ってしまいたかった。大変な一日だったのはサンタさんも同じのようで、彼は珍しく「疲れた」と言って笑いながら床に寝そべる。
「サンタさんも寝る?」
「ちょっと寝ようかなぁ」
笑い声に元気がない。
「服が血だらけだ。なんか身体も泥臭いし……」
「シャワー浴びてきたら?」
「うーん、そういう人間的なのもいいねぇ」
サンタさんがあくび混じりに笑う。それから、ゆっくりとした動作で浴室に消えていった。
彼がシャワーを浴びているあいだ、私は布団の上で仰向けになって、ぼんやりと今日の出来事を思い浮かべていた。幻獣、別の世界、サンタさん、姫ちゃん、鴻嶋、ワープ、獣耳のついたカチューシャ、それから、東京と、鳥の巣ドーム、サンタさん……。
「いやぁ、シャワーってすごいね!まさに洗い流してるって感じ!」
「早いなぁ」
いろいろあった今日の思い出を振り返ると、やっぱり、能天気に浴室から出てきた彼が一番のウェイトを占めている。
「僕も今日は少しばかり寝るよ」
彼はそう言いながら、また床に寝そべる。誰も手を触れていないのにカーテンが閉まって、照明も暗くなった。
「床で寝るの?」
身体を起こし、薄暗い部屋でサンタさんに話しかける。まだ太陽が完全には沈んでいないので、赤みがかった光がカーテンの隙間から射し込んでいた。
「布団は一枚しかないからねぇ」
そう答える彼の声は、いまにも途切れそうだ。
「そこで寝たら、もっと疲れちゃうよ。床は固いもの。風邪ひくし」
「それはやだなぁ」
サンタさんがゆっくりと身体を起こす。
「こっちきてもいいよ」
そう言うと、彼は亀のようにのそのそ私の布団へと這ってきた。
「あぁ、布団柔らかいよぉ……」
「あの、ちょっと?」
そのままふたりで倒れ込む。布団に入ってもいいとは言ったけれど、人のことを抱き枕にしていいとは言っていない。
しかし、それも、まあいいかと思った。サンタさんも今日は疲れているだろうし、命だって救われた。今さら、抱き枕にされたからなんだと言うのか。
「はぁー、今日はもう、本当に……うわあぁー」
私を抱きしめたサンタさんが、ため息まじりに言いながら、突然、悲しそうな声をあげた。
「なに、どうしたの?」
「くま置いてきたぁ……」
「あ!」
そういえば、完全に忘れていた。アカプルコのビーチには、私のキャリーバッグ等も全て置いてきてしまっている。
「なんだよぉ、めんどくさいよぉ……」
か細い声で言う。ほとんど裏声だ。本当に疲れているんだろう。こんなにもぐだぐだしているサンタさんは見たことがない。
「起きてから取りに行けば?」
もう、何時間も放置していることに変わりはない。貴重品は身につけているから、キャリーバッグの中身だってそんなに大層なものが入っているわけではないし、くまだってたくましく生きているはずである。どうせメキシコでもマイペースに「おまおま」言っているに違いない。
「……だめだ。いまやらなきゃ忘れる」
サンタさんが私を離し、身体を起こした。照明を少し明るくして、例の白くて大きな布(転送クロス、と言うらしい)を取り出し、そこへ腕を突っ込んだ。直接出向くのが面倒だから、腕だけでくまを連れ帰るつもりらしい。
「まずはこれ」
しばらく転送クロスのなかで腕をごそごそさせていたサンタさんが、私のキャリーバッグを取り出した。鞄から小物でも取り出すような仕草だ。サンタさんの世界のテクノロジーとは、恐ろしいものである。
「くま、くま、くまはどこにいるぅ?」
ぶつぶつ呟きながら、サンタさんがクロスのなかを探る。
「いた」
しばらく探して、ようやく見つけたみたいだ。サンタさんがクロスから腕を抜くと、その手に掴まれてくまが出てきた。
「おまぁー」
数時間ぶりに再会したくまは、余裕の表情で手を振っている。
「くま……」
何よりも、その姿に目を奪われた。サンタさんも同じ気持ちであることが、苦笑いを張り付けた顔からもよくわかる。
「ひどくない?おまか?」
置いていったことに抗議するくま。雑貨屋で売っているような馬鹿でかいサングラスはケーキの形をしていて、両耳に黄色とピンクのリボンを蝶々の形で結んでいる。腰(腰がどこなのかわからないので、胴体のちょうど半分くらいの位置を腰とする)には髑髏のアクセサリーがついたトゲトゲのベルト。さらに、短い両脚には着せ替え人形のスカートのようなものをつけている。
一瞬、サンタさんと私の視線が強烈にぶつかる。これには触れないようにしよう、そういう会話が瞬時に成された。
「……ごめん、悪かった」
「くまも大変だったんだね」
照明が暗くなる。もう寝る時間である。私たちは、くまを無視して布団を被った。
「ちょっと待つおまよ、せめてこの惨状に対してなにか疑問とかないおまか?くま、こんなんなってるおまのに?気にならないおまか?おまぁ?」
「ごめん、くま。起きたら綺麗にしてあげるから、ちょっと寝かせて……」
サンタさんが小さい声でそう言うと、くまは「絶対おまよぉ」と床に寝転がった。それから、ほんの数秒で寝息をたてはじめる。
「くま、もう寝やがった……」
ふたりでほとんど同時に息をつく。サンタさんは、また私を抱き枕にした。
「はぁ、今度こそ寝よう」
強く抱きしめられている。
「……わざとなの?」
「なにが?」
「……なんでもない」
私は、鼻からふっと息を吐いた。なんだかちょっと気分がいいけれど、声にだして笑うほどではなかったから、これくらい小さく笑うのでちょうどいい。鴻嶋もこんな感じなのかもしれない。
「ノエル」
「なに?」
サンタさんの胸に顔を埋めてみる。
心臓の音が、ゆっくりと規則的に聞こえた。
「なんでもない。おやすみ、ノエル」
おしまい




